『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 290P~
「森ケ崎海岸」と題する歌が披露された。これは、伸一が19歳の時に作った詩に、大田区の男子部員が曲をつけたものであった。森ケ崎海岸は、伸一が当時住んでいた自宅近くの海岸である。
歌が終わると、彼は大きな拍手を送った。「作曲してくださった方を、また、大田の皆さんを讃える意味から、この歌をレコードにしたいと思いますが、いかがでしょうか!」そして、この歌はやがて、日本全国で歌われるようになるのである。
伸一は、自身の生命を振り絞るように、友との語らいを続けた。"わが大田には、広宣流布をけん引する伝統と使命がある。未来へのその新しき流れを、断じて開くのだ!"彼は必死であった。
1973年5月3日、静岡県富士宮市に 富士美術館が完成し、その落成式が挙行された。美術館の開設は、日蓮仏法を根底にした新たな芸術の創造のために、また、民族や国境を越えて、人間と人間の心を結ぶために、伸一がかねてから構想してきたことであった。「広布第二章」を象徴する、創価文化運動の新しき幕が開かれたのだ。
伸一は休む間もなく、豊島区の会員との記念撮影会に出席した。彼は、豊島には強い愛着があった。かつて、戸田城聖が御書講義を行い、毎月の幹部会が開催された豊島公会堂も、区内の池袋にある。また、初代会長の牧口常三郎の自宅も、豊島区の目白である。そして、牧口と戸田が囚われ、牧口が獄死した東京拘置所も、当時の豊島区西巣鴨にあった。
"豊島は権力の魔性による、創価学会の迫害の地である。なればこそ、ここから民衆の凱歌を、高らかに響かせねばならないーーそれが戸田先生のご決意であられた。だから先生は、豊島の地で獅子吼ともいうべき講義をされたのだ"伸一は、この記念撮影会を、その新しき出陣にしようと決めていた。
彼の体調は優れず、控室に着くと、伸一は倒れ込むようにソファに体を横たえた。悪寒がし、めまいさえするのであった。数分が過ぎた。同行の幹部に宣言するように言った。「戦闘開始だ!」
室内に分厚い二冊の本が置いてあった。豊島区の学生部がつくった「日蓮大聖人御書全集索引」である。索引を作るには、一つの用語が御書のどこに出ているかを調べるために御書全文を入念にチェックしなければならない。それには多くの人手を必要とする。
「これまで、未活動だった人のなかにも、人材はたくさんいるはずだ。」そして、区内の学生部員に呼びかけていった。最終的に、作業にかかわったメンバーは百八人に上ったのである。
予算もほとんどなく、安価なわら半紙を買い、マス目を引き、自家製の原稿御用紙を作ることから始めなければならなかった。作業場を座談会場にして友人を招き、果敢に折伏を展開した。
作業は手間取り、完成は無理かと思われたが、皆が徹夜覚悟で、懸命に追い込みをかけた。ついに、記念撮影当日の 朝、完成したのだ。
伸一は、編集に取り組んだ百八人と会い、このメンバーで「豊島区学生教学研究会」の結成を提案。また、このグループは創価学会の教学を後世永遠に受け継いでいく使命を担っている意味から、別名を「継承会」と命名したのだ。
「継承会」のメンバーは、『法華経並開結』や伸一の『御義口伝講義』の文庫本の索引政策に携わったほか、『日蓮大聖人御書辞典』発刊の手伝いをするなど、教学運動の推進に意欲的に尽力していったのである。
伸一は、この5月5日を、豊島区創価学会の前進の節とし、毎年、この日を中心に皆が集い、広布への誓いを新たにしていってはどうかと提案した。さらに、三指針を示したのである。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋
「森ケ崎海岸」と題する歌が披露された。これは、伸一が19歳の時に作った詩に、大田区の男子部員が曲をつけたものであった。森ケ崎海岸は、伸一が当時住んでいた自宅近くの海岸である。
歌が終わると、彼は大きな拍手を送った。「作曲してくださった方を、また、大田の皆さんを讃える意味から、この歌をレコードにしたいと思いますが、いかがでしょうか!」そして、この歌はやがて、日本全国で歌われるようになるのである。
伸一は、自身の生命を振り絞るように、友との語らいを続けた。"わが大田には、広宣流布をけん引する伝統と使命がある。未来へのその新しき流れを、断じて開くのだ!"彼は必死であった。
1973年5月3日、静岡県富士宮市に 富士美術館が完成し、その落成式が挙行された。美術館の開設は、日蓮仏法を根底にした新たな芸術の創造のために、また、民族や国境を越えて、人間と人間の心を結ぶために、伸一がかねてから構想してきたことであった。「広布第二章」を象徴する、創価文化運動の新しき幕が開かれたのだ。
伸一は休む間もなく、豊島区の会員との記念撮影会に出席した。彼は、豊島には強い愛着があった。かつて、戸田城聖が御書講義を行い、毎月の幹部会が開催された豊島公会堂も、区内の池袋にある。また、初代会長の牧口常三郎の自宅も、豊島区の目白である。そして、牧口と戸田が囚われ、牧口が獄死した東京拘置所も、当時の豊島区西巣鴨にあった。
"豊島は権力の魔性による、創価学会の迫害の地である。なればこそ、ここから民衆の凱歌を、高らかに響かせねばならないーーそれが戸田先生のご決意であられた。だから先生は、豊島の地で獅子吼ともいうべき講義をされたのだ"伸一は、この記念撮影会を、その新しき出陣にしようと決めていた。
彼の体調は優れず、控室に着くと、伸一は倒れ込むようにソファに体を横たえた。悪寒がし、めまいさえするのであった。数分が過ぎた。同行の幹部に宣言するように言った。「戦闘開始だ!」
室内に分厚い二冊の本が置いてあった。豊島区の学生部がつくった「日蓮大聖人御書全集索引」である。索引を作るには、一つの用語が御書のどこに出ているかを調べるために御書全文を入念にチェックしなければならない。それには多くの人手を必要とする。
「これまで、未活動だった人のなかにも、人材はたくさんいるはずだ。」そして、区内の学生部員に呼びかけていった。最終的に、作業にかかわったメンバーは百八人に上ったのである。
予算もほとんどなく、安価なわら半紙を買い、マス目を引き、自家製の原稿御用紙を作ることから始めなければならなかった。作業場を座談会場にして友人を招き、果敢に折伏を展開した。
作業は手間取り、完成は無理かと思われたが、皆が徹夜覚悟で、懸命に追い込みをかけた。ついに、記念撮影当日の 朝、完成したのだ。
伸一は、編集に取り組んだ百八人と会い、このメンバーで「豊島区学生教学研究会」の結成を提案。また、このグループは創価学会の教学を後世永遠に受け継いでいく使命を担っている意味から、別名を「継承会」と命名したのだ。
「継承会」のメンバーは、『法華経並開結』や伸一の『御義口伝講義』の文庫本の索引政策に携わったほか、『日蓮大聖人御書辞典』発刊の手伝いをするなど、教学運動の推進に意欲的に尽力していったのである。
伸一は、この5月5日を、豊島区創価学会の前進の節とし、毎年、この日を中心に皆が集い、広布への誓いを新たにしていってはどうかと提案した。さらに、三指針を示したのである。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋