『新・人間革命』第4巻 立正安国の章 P264~
山本伸一は 夏期講習会で「立正安国論」を講義することになっていた。
新たな気持ちで 講義の前に研鑽に励む。
立正安国論が書かれた背景に、正嘉の大地震がある。
大聖人が この地震に遭遇したのは、36歳の時、鎌倉の松葉ケ谷の草庵にいたころである。
このころ、毎年のように飢饉が続き、疫病が蔓延していた。
正嘉の大地震のあとも、余震は長く続き、大地震が 再び起こる。
翌年には、真冬のような冷え込みが続き、8月には大風、京都には暴風雨が遅い、穀類に大被害が出る。
そして、10月になると、鎌倉は大雨による洪水で民家が流失し、多数の犠牲者を出した。
さらに、疫病が流行し、諸国に大飢饉が広がっていった。
幕府は、事態の打開のために、真言の僧による加持祈祷などを命じていたが、なんの効果もなかった。
“なぜ、これほどくるしまなければならないのか?”それが人々の共通の思いであった。
しかし、それに答えられる人は、誰もいなかったのである。
日蓮は岩本実相寺を尋ね、一切経をひもとき、根本原因を経文のうえからも、また、道理のうえからも
あきらかにしようとした。
それらの経々から、彼は国中を覆っている不幸の原因は、世をあげて、正法である法華経に背いているがゆえであると、明確に確信することができた。
人間は、何を信じるかによって、大きな影響を受ける。友人でも、悪友を善友と信じて、ともに行動していれば、いつしか悪の道に入ってしまう。
ましてや、宗教は人間の考え方、生き方の根本の規範である。したがって、誤った宗教を信じれば、人間の心は濁り、欲望に翻弄され、あるいは、生命の活力も奪われてしまう。
さらに、人心、社会の乱れは、依正は不二であり、一念三千であるがゆえに、大自然にも必ず波及していく。本来、宇宙は、それ自体が一つの生命体であり、主体である人間と、自然を含めた環境世界とは、互いに関連しあっていると教えているのが仏法である。
人びとが塗炭の苦しみを脱するには、誤った宗教を捨て、正しい教えを根本とする以外にないー
それが日蓮の結論であった。
当時、天台宗をはじめ、真言、華厳、律等の既成宗派は、鎮護国家の仏教に安住し、念仏や禅の新興の宗派も、幕府の要人に取り入ることに腐心していた。
そして、各宗派は法論を避け、教えの正邪を論議することもなく、お互い馴れ合い、権力に寄生し、庇護という美酒に酔っていた。
また、幕府は、宗教の庇護と引き換えに、政策への協力を要請するなど、政治権力と宗教とが、完全に癒着していたのである。
日蓮は、救世のために、諫暁の書「立正安国論」を認めた。
そして、事実上の最高権力者である北条時頼に、この書を上程した。文応元年7月16日のことである。
日蓮は、時頼こそ、国主として諫暁するに足る人物と見たのであろう。
「立正安国論」は、社会の惨状と民衆の苦悩から書き起こされている。
この民衆の苦しみという現実こそが、仏法の出発点であり、苦悩からの解放こそが、仏法の目的である。
「立正安国論」で、日蓮は、客と主人との問答形式を用いた。
それは、正法流布といっても、権威や権力による強制ではなく、どこまでも人間対人間の条理を尽くした対話による、触発と合意に基づくものであることを表している。
日蓮が、北条時頼を諫暁したのも、為政者の立場にあって、悩み苦しむ、一人の人間としての時頼に、真実の仏法を教えるためであった。
さらに、それによって時頼が、まことの人間の道に目覚め、“民のための政治”を行っていくことを願ってのことであった。
何よりも、これ以上、不幸な事態を、絶対に引き起こしてはならないという、大慈大悲ゆえの警鐘でもあった。
「立正安国論」で、日蓮は、こう結論する。
「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」
不幸と苦悩に覆われた社会を変革し、「国を安んずる」直道は何か、日蓮は、それは、一人の人間の心のなかに「正を立てる」ことから始まるのだと呼びかけている。
つまり、時代、社会の創造の主体である、一人ひとりの人間の内発性の勝利を打ち立て、社会の繁栄と平和を創造していこうとするのが日蓮仏法である。
そして、その原理を解き明かしたのが、この「立正安国論」であった。
「実乗の一善に帰せよ」とは、「偏頗な生命観、人間観を排して、生命の尊厳に立ち返れ」「エゴを破り、慈悲を生き方の規範にせよ」「真実の人間主義に立脚せよ」との指南といってよい。
ここに、人類の繁栄と世界の平和のための、普遍の哲理がある。
時頼は日蓮の主張に真摯に耳を傾けることはなかった。しかも、側近たちによって、その内容は歪曲され、誹謗されて、念仏をはじめとする、他宗の僧らに伝えられたのである。
鎌倉の地にあって、日蓮が他宗派の誤りを正してきたことを、諸宗の僧は、いまいましく思っていた。
そのうえ、時頼にまで諫暁の書を送り、自分たちを批判したと思うと、彼らの怒りは頂点に達した。
日蓮の身に危険が迫りつつあった。
この「立正安国論」の上程から40日が過ぎた、8月27日の夜、鎌倉の松葉ケ谷にあった日蓮の草庵が、念仏者たちによって襲われるという事件が起こった。松葉ケ谷の法難である。
日蓮の予想は現実となった。それは、彼の本格的な迫害に次ぐ迫害の人生の始まりであった。
太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋
山本伸一は 夏期講習会で「立正安国論」を講義することになっていた。
新たな気持ちで 講義の前に研鑽に励む。
立正安国論が書かれた背景に、正嘉の大地震がある。
大聖人が この地震に遭遇したのは、36歳の時、鎌倉の松葉ケ谷の草庵にいたころである。
このころ、毎年のように飢饉が続き、疫病が蔓延していた。
正嘉の大地震のあとも、余震は長く続き、大地震が 再び起こる。
翌年には、真冬のような冷え込みが続き、8月には大風、京都には暴風雨が遅い、穀類に大被害が出る。
そして、10月になると、鎌倉は大雨による洪水で民家が流失し、多数の犠牲者を出した。
さらに、疫病が流行し、諸国に大飢饉が広がっていった。
幕府は、事態の打開のために、真言の僧による加持祈祷などを命じていたが、なんの効果もなかった。
“なぜ、これほどくるしまなければならないのか?”それが人々の共通の思いであった。
しかし、それに答えられる人は、誰もいなかったのである。
日蓮は岩本実相寺を尋ね、一切経をひもとき、根本原因を経文のうえからも、また、道理のうえからも
あきらかにしようとした。
それらの経々から、彼は国中を覆っている不幸の原因は、世をあげて、正法である法華経に背いているがゆえであると、明確に確信することができた。
人間は、何を信じるかによって、大きな影響を受ける。友人でも、悪友を善友と信じて、ともに行動していれば、いつしか悪の道に入ってしまう。
ましてや、宗教は人間の考え方、生き方の根本の規範である。したがって、誤った宗教を信じれば、人間の心は濁り、欲望に翻弄され、あるいは、生命の活力も奪われてしまう。
さらに、人心、社会の乱れは、依正は不二であり、一念三千であるがゆえに、大自然にも必ず波及していく。本来、宇宙は、それ自体が一つの生命体であり、主体である人間と、自然を含めた環境世界とは、互いに関連しあっていると教えているのが仏法である。
人びとが塗炭の苦しみを脱するには、誤った宗教を捨て、正しい教えを根本とする以外にないー
それが日蓮の結論であった。
当時、天台宗をはじめ、真言、華厳、律等の既成宗派は、鎮護国家の仏教に安住し、念仏や禅の新興の宗派も、幕府の要人に取り入ることに腐心していた。
そして、各宗派は法論を避け、教えの正邪を論議することもなく、お互い馴れ合い、権力に寄生し、庇護という美酒に酔っていた。
また、幕府は、宗教の庇護と引き換えに、政策への協力を要請するなど、政治権力と宗教とが、完全に癒着していたのである。
日蓮は、救世のために、諫暁の書「立正安国論」を認めた。
そして、事実上の最高権力者である北条時頼に、この書を上程した。文応元年7月16日のことである。
日蓮は、時頼こそ、国主として諫暁するに足る人物と見たのであろう。
「立正安国論」は、社会の惨状と民衆の苦悩から書き起こされている。
この民衆の苦しみという現実こそが、仏法の出発点であり、苦悩からの解放こそが、仏法の目的である。
「立正安国論」で、日蓮は、客と主人との問答形式を用いた。
それは、正法流布といっても、権威や権力による強制ではなく、どこまでも人間対人間の条理を尽くした対話による、触発と合意に基づくものであることを表している。
日蓮が、北条時頼を諫暁したのも、為政者の立場にあって、悩み苦しむ、一人の人間としての時頼に、真実の仏法を教えるためであった。
さらに、それによって時頼が、まことの人間の道に目覚め、“民のための政治”を行っていくことを願ってのことであった。
何よりも、これ以上、不幸な事態を、絶対に引き起こしてはならないという、大慈大悲ゆえの警鐘でもあった。
「立正安国論」で、日蓮は、こう結論する。
「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」
不幸と苦悩に覆われた社会を変革し、「国を安んずる」直道は何か、日蓮は、それは、一人の人間の心のなかに「正を立てる」ことから始まるのだと呼びかけている。
つまり、時代、社会の創造の主体である、一人ひとりの人間の内発性の勝利を打ち立て、社会の繁栄と平和を創造していこうとするのが日蓮仏法である。
そして、その原理を解き明かしたのが、この「立正安国論」であった。
「実乗の一善に帰せよ」とは、「偏頗な生命観、人間観を排して、生命の尊厳に立ち返れ」「エゴを破り、慈悲を生き方の規範にせよ」「真実の人間主義に立脚せよ」との指南といってよい。
ここに、人類の繁栄と世界の平和のための、普遍の哲理がある。
時頼は日蓮の主張に真摯に耳を傾けることはなかった。しかも、側近たちによって、その内容は歪曲され、誹謗されて、念仏をはじめとする、他宗の僧らに伝えられたのである。
鎌倉の地にあって、日蓮が他宗派の誤りを正してきたことを、諸宗の僧は、いまいましく思っていた。
そのうえ、時頼にまで諫暁の書を送り、自分たちを批判したと思うと、彼らの怒りは頂点に達した。
日蓮の身に危険が迫りつつあった。
この「立正安国論」の上程から40日が過ぎた、8月27日の夜、鎌倉の松葉ケ谷にあった日蓮の草庵が、念仏者たちによって襲われるという事件が起こった。松葉ケ谷の法難である。
日蓮の予想は現実となった。それは、彼の本格的な迫害に次ぐ迫害の人生の始まりであった。
太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋