『新・人間革命』第28巻 革心の章 233p~
<革心の章 開始>
歴史は動く、時代は変わる。それを成し遂げていくのは、人間の一念であり、行動である。1978年(昭和53年)8月12日、日本と中国の間で「日中平和友好条約」が調印され、今、“日中”新時代の幕が開かれようとしていた。
9月11日、中日友好協会の招聘を受けた、山本伸一を団長とする第4次訪中団22人は、上海虹橋国際空港に到着した。伸一の訪中は、3年5か月ぶりである。
中日友好協会の孫平化秘書長らの笑顔が迎えてくれた。孫平化は、第一次訪中以来、誼を結ぶ、既に「老朋友」である。このころ、日中間の友好ムードは急速に高まり、それにともない、中日友好協会の秘書長である彼は、多忙を極めていたにちがいない。そのなかを、上海まで来てくれたのである。
“あの日中国交正常化提言から、ちょうど10年か…”伸一は、10年の来し方を振り返った。1968年9月8日、第11回学生部総会の席上、伸一は、日中問題について言及し、問題解決への方途として、三点を訴えたのである。
第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。第二に、中国の国連における正当な地位を回復すること。第三に、日中の経済的・文化的な交流を推進すること。
この提言に、大反響が広がった。激しい非難中傷の集中砲火を浴びた。日米安全保障会議の席でも、外務省の高官が、強い不満の意を表明している。しかし、提言はすべてを覚悟のうえでのことであった。命を懸ける覚悟なくして、信念は貫けない。
中国の周恩来総理は注目した。松村健三は、周総理と会見することを強く勧めた。しかし、伸一は、“宗教者の私が、今、訪中すべきではない“と考え、公明党の訪中を提案したのである。1971年6月公明党の訪中が実現し、周総理との会見が行われる。総理は、国交正常化の条件を示した。共同声明が、公明党訪中代表団と中日友好協会代表団との間で作成され、調印が行われたのである。
国交正常化への突破口が開かれたのだ。この共同声明は「復交5原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となっていった。政府間交渉は進み、遂に、72年9月、田中角栄首相、大平正芳外相と、周恩来総理、姫鵬飛外相によって、「日中共同声明」が調印されたのである。
そこでは、日中国交正常化をはじめ、中国の対日賠償請求の放棄、平和5原則による友好関係の確立などが謡われていた。伸一の提言は、現実のものとなったのだ。声を発するのだ!行動を起こすのだ!そこから変革への回転が開始する。
伸一が、周総理と会ったのは、12月の5日であった。総理は病床にあったが、医師の静止を押し切って会見したのだ。「中日平和友好条約の早期締結を希望します」その言葉は、遺言のように、伸一の胸に響いた。翌年1月、伸一はアメリカでキッシンジャー国務長官と会見、賛同の意思を確認した。そして、訪米中の大平正芳蔵相と日本大使館で会った際に、その旨を伝えた。
4月、伸一は3回目の中国訪問を果たし、鄧小平副総理と会談した。伸一は、忌憚なく反覇権条項についての中国の見解、鄧小平に尋ねた。これによって、中国の見解が確認されたのである。76年、周恩来総理が死去したのだ。「四人組」により鄧小平が失脚するが、毛沢東主席が死去すると、文化大革命は収束に向かっていく。鄧小平は、要職を担い、活躍していくことになる。
78年8月12日、遂に「日中平和友好条約」が北京で調印されたのである。調整が難航された覇権反対は、「第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と記された。ソ連への配慮である。
伸一の日中国交正常化提言から満10年にして“日中新時代”を迎えたのだ。歴史は変わる。人間と人間が胸襟を開き、真摯に対話を重ねていくならば、不信を信頼に変え、憎悪を友愛に変え、戦争を平和へと転じていくことができるーーそれが、彼の哲学であり、信念であり、確信であった。
今回の中国訪問には、創価学会側の通訳として周志英も参加していた。香港生まれで、創価大学の大学院生であった。人類の平和と繁栄を願い、世界の指導者との対話を進めるには、各国語の優れた通訳が必要である。ましてや伸一の場合、仏法について論じることが多いため、通訳には、仏法用語等の正しく深い理解が求められる。
未来を展望する時、それらを習得し、伸一の心を相手に伝えることができる通訳の育成が、極めて重要なテーマであったのである。周は、北京語の猛勉強を開始した。使命を自覚し、志という種子を胸中にもってこそ、向学心は燃え、才能の芽は急速に育ち、開花する。志のある人は強い。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋
<革心の章 開始>
歴史は動く、時代は変わる。それを成し遂げていくのは、人間の一念であり、行動である。1978年(昭和53年)8月12日、日本と中国の間で「日中平和友好条約」が調印され、今、“日中”新時代の幕が開かれようとしていた。
9月11日、中日友好協会の招聘を受けた、山本伸一を団長とする第4次訪中団22人は、上海虹橋国際空港に到着した。伸一の訪中は、3年5か月ぶりである。
中日友好協会の孫平化秘書長らの笑顔が迎えてくれた。孫平化は、第一次訪中以来、誼を結ぶ、既に「老朋友」である。このころ、日中間の友好ムードは急速に高まり、それにともない、中日友好協会の秘書長である彼は、多忙を極めていたにちがいない。そのなかを、上海まで来てくれたのである。
“あの日中国交正常化提言から、ちょうど10年か…”伸一は、10年の来し方を振り返った。1968年9月8日、第11回学生部総会の席上、伸一は、日中問題について言及し、問題解決への方途として、三点を訴えたのである。
第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。第二に、中国の国連における正当な地位を回復すること。第三に、日中の経済的・文化的な交流を推進すること。
この提言に、大反響が広がった。激しい非難中傷の集中砲火を浴びた。日米安全保障会議の席でも、外務省の高官が、強い不満の意を表明している。しかし、提言はすべてを覚悟のうえでのことであった。命を懸ける覚悟なくして、信念は貫けない。
中国の周恩来総理は注目した。松村健三は、周総理と会見することを強く勧めた。しかし、伸一は、“宗教者の私が、今、訪中すべきではない“と考え、公明党の訪中を提案したのである。1971年6月公明党の訪中が実現し、周総理との会見が行われる。総理は、国交正常化の条件を示した。共同声明が、公明党訪中代表団と中日友好協会代表団との間で作成され、調印が行われたのである。
国交正常化への突破口が開かれたのだ。この共同声明は「復交5原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となっていった。政府間交渉は進み、遂に、72年9月、田中角栄首相、大平正芳外相と、周恩来総理、姫鵬飛外相によって、「日中共同声明」が調印されたのである。
そこでは、日中国交正常化をはじめ、中国の対日賠償請求の放棄、平和5原則による友好関係の確立などが謡われていた。伸一の提言は、現実のものとなったのだ。声を発するのだ!行動を起こすのだ!そこから変革への回転が開始する。
伸一が、周総理と会ったのは、12月の5日であった。総理は病床にあったが、医師の静止を押し切って会見したのだ。「中日平和友好条約の早期締結を希望します」その言葉は、遺言のように、伸一の胸に響いた。翌年1月、伸一はアメリカでキッシンジャー国務長官と会見、賛同の意思を確認した。そして、訪米中の大平正芳蔵相と日本大使館で会った際に、その旨を伝えた。
4月、伸一は3回目の中国訪問を果たし、鄧小平副総理と会談した。伸一は、忌憚なく反覇権条項についての中国の見解、鄧小平に尋ねた。これによって、中国の見解が確認されたのである。76年、周恩来総理が死去したのだ。「四人組」により鄧小平が失脚するが、毛沢東主席が死去すると、文化大革命は収束に向かっていく。鄧小平は、要職を担い、活躍していくことになる。
78年8月12日、遂に「日中平和友好条約」が北京で調印されたのである。調整が難航された覇権反対は、「第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と記された。ソ連への配慮である。
伸一の日中国交正常化提言から満10年にして“日中新時代”を迎えたのだ。歴史は変わる。人間と人間が胸襟を開き、真摯に対話を重ねていくならば、不信を信頼に変え、憎悪を友愛に変え、戦争を平和へと転じていくことができるーーそれが、彼の哲学であり、信念であり、確信であった。
今回の中国訪問には、創価学会側の通訳として周志英も参加していた。香港生まれで、創価大学の大学院生であった。人類の平和と繁栄を願い、世界の指導者との対話を進めるには、各国語の優れた通訳が必要である。ましてや伸一の場合、仏法について論じることが多いため、通訳には、仏法用語等の正しく深い理解が求められる。
未来を展望する時、それらを習得し、伸一の心を相手に伝えることができる通訳の育成が、極めて重要なテーマであったのである。周は、北京語の猛勉強を開始した。使命を自覚し、志という種子を胸中にもってこそ、向学心は燃え、才能の芽は急速に育ち、開花する。志のある人は強い。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋