『新・人間革命』第10巻 新航路の章 P275~

10月24日アルプスを越え、山本伸一一行は、イタリアのミラノに到着した。秋月はスカラ座を訪ね、スカラ座を日本に招聘し、芸術の国際交流を図ろうというのが民音関係者の念願であった。民衆に最高の芸術に触れる機会を提供することが、民音を創立した目的の一つであったからである。

スカラ座全体を招聘するなど、日本のみならず、アジアでも例がなかった。日本の文化関係者や芸術関係者のなかには、「夢想」だといって、嘲笑し、民音創立者の伸一が、37歳の青年だと、甘く見ていた。
 
民音の専任理事である秋月は、ギリンゲッリ総裁と会うことができ、民音の目的や活動を話すと、賛同してくれ、68年以降に実施するとの仮契約を結ぶに至った。

しかし、実現するまでに、総裁がなくなったり、後任の総裁が病気で引退したりと事態は進展せず、交渉を開始してから16年後に実現することとなった。そして、総勢約500人という、世界的にも特筆すべき、壮大にして華麗なる日本初のスカラ座の“引っ越し大公演”が現実となったのだ。

10月25日には、伸一一行は、ミラノから南フランスのニースに移動し、27日には、ポルトガルのリスボンに向かった。リスボンでは、エンリケ航海王子の没後500年を記念し、建てられた、新航路発見の記念碑を見学する。

伸一は、エンリケ航海王子については、戸田城聖からも話を聞き、その生涯に大きな感動を覚えていた。14世紀、チムール帝国の興隆によって、シルクロードが閉ざされ、東洋との交通が遮断されたポルトガルは、新しき海の道の開拓を開始した。

エンリケは、ポルトガル国王の三男で、青年となった彼は、イベリア半島西南端のサグレスに、公開学校を創設したと言われている。荒涼たる地で、さまざまな一流の学者を招き、新しき人材の育成に取り組んだ。王子は、この事業のために、次々と財産を注ぎ込んでいった。

何度探索しても、新航路は発見できなかった。それは、ボジャドール岬より先は、「暗黒の海」で、怪物が済、海は煮えたぎり、通過を試みる船は二度と帰ることができないと信じていたからだ。

エンリケは「岬を越えよ!勇気をもて!根拠のない妄想を捨てよ!」と叫び、従士のジル・エアネスがそれに応え、岬を越えた。それは、小さな成功にすぎなかったが、意義は限りなく大きく、深かった。

岬の先は「暗黒の海」ではなく、普通の海であることが明らかになり、人びとの心を覆っていた迷信の雲が、吹き払われたからである。

「暗黒の海」は、人間の心のなかにあったのだ。エアネスは、勇気の舵をもって、自身の“臆病の岬”を越えたのである。

山本伸一は、しみじみとした口調で語った。「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の“臆病の岬”を越えることだ

「未来を築くということは、人間をつくることだ。それには教育しかない。そのために、私も、いよいよ、創価高校、そして、創価大学の設立に着手するからね。私の最後の事業は、教育であると思っている。大切なのは礎だ。輝ける未来を開こうよ。黄金の未来を創ろうよ」

彼は、自らに語りかけるように言った。「時は来ている。時は今だ。さあ、出発しよう!平和の新航路を開く、広宣流布の大航海に!」

<新航路の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第10巻より 抜粋

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