『新・人間革命』第30巻(上) 雄飛の章 328p
5・3「創価学会の日」を祝賀する記念行事が、晴れやかに創価大学で開催された。伸一は、連日、記念勤行会、記念祝賀会等に出席した。創価の師弟の陣列は、薫風のなか、さっそうと21世紀への行進を開始したのだ。
伸一は、5月9日、休む間もなく、ソ連、欧州、北米訪問へと旅立っていった。最初の訪問国であるソ連は、世界から非難の集中砲火を浴びていた時であった。1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことから、80年夏のモスクワ五輪を、60を超える国々がボイコットし、ソ連は国際的に厳しい状況に追い込まれていたのである。
しかし、伸一は、すべてを政治的な問題に集約させ、対話の窓口を閉ざしてはならないと考えていた。そんな時だからこそ、文化・教育を全面的に掲げ、民衆の相互理解を促進する民間交流に、最大の力を注ぐべきであるというのが、彼の信念であった。
今回の伸一のソ連訪問は、ソ連高等中等専門教育省とモスクワ大学の招聘によるものであった。一行は、富士鼓笛隊、創価大学銀嶺合唱団など、総勢約250人という大訪問団となった。伸一は、8日間のソ連滞在中、ソ連の要人たちと平和・文化交流をめぐって、次々と語らいを重ねていった。
その間に、レーニン廟や、故コスイギン前首相の遺骨が納められているクレムリン城壁、無名戦士の墓を訪れて献花した。なかでも前首相の墓参は、今回の訪ソの大切な目的の一つであった。コスイギンが死去したのは、前年12月のことであった。伸一は、前首相とは、2回にわたってクレムリンで会見していた。
5月12日、伸一は、コスイギン前首相の息女であるリュドミーラ・グビシャーニが館長を務める、国立外国文学図書館を訪れ、会談した。伸一が、墓参の報告をし、弔意を述べると、彼女は、声を詰まらせながら応えた。
親から子へ、世代を超えて友情が結ばれていってこそ、平和の確かな流れが創られる。13日、伸一と峯子は、モスクワ大学のR・Ⅴ・ホフロフ前総長の追善を行ったあと、ホフロフ宅を訪問した。伸一たちは、エレーナ夫人、長男のアレクセイ、次男のドミトリーと、亡き総長を偲びながら、語らいのひとときを過ごした。一家との交流は、その後も重ねられていった。
伸一は、正午には、モスクワ大学を訪問し、ログノフ総長と対談した。伸一は、未来に平和の思想と哲学を残すために、対談を行うことに合意し、二人の語らいは13回に及び、その間に、対談集『第三の虹の橋ーー人間と平和の探求』を出版。1994年には、『科学と宗教』が発刊されている。
13日夕刻には、「日ソ学生友好の夕べ」が開催された。今、眼前で、日ソの青年らによる文化と友情の交流が行われ、確かに“精神のシルクロード”が結ばれようとしていることを、伸一は感じていた。
翌14日午後、伸一たちは、クレムリンを訪れ、ニコライ・A・チーホノフ首相と会見した。伸一は、チーホノフ首相に語った。「世界平和のために、ぜひとも首脳会議を呼びかけ、戦争には絶対反対するための話し合いを続け、安心感を全人類に与えていくことが大事です」伸一は、日ソ関係にも言及していった。
彼は、米ソ首脳会議について、1・26「SGIの日」記念提言でも訴えている。1985年ソ連にゴルバチョフ書記長が誕生すると、冷戦の終結へ舵が切られた。11月、レーガン米大統領との米ソ首脳会談が実現し、東西の対話は加速していった。90年、伸一は、ゴルバチョフと初会見した。二人は、その後も親交を結び、対談集『20世紀の精神の教訓』を発刊している。
伸一は、トルストイの家と資料館を訪れた。トルストイは、貧困を強いられる民衆の救済に力を注ぐ一方、ペンをもって、堕落した教会や政府などの、あらゆる虚偽、偽善と戦った。それ故に、彼の著作は厳しい検問を受け、出版を妨害され、彼は教会から破門されている。だが、激怒した民衆が彼を擁護し、澎湃たる正義の叫びをあげたのだ。
トルストイの家と資料館を見学した伸一は、大文豪の生き方に勇気を得た思いがした。彼は、トルストイが、最後の日記に残した言葉を噛み締めていた。ーー「なすべきことをなせ、何があろうとも…」
伸一の一行は、午後7時、モスクワ大学のログノフ総長らの見送りを受け、モスクワのシェレメチェボ空港を飛び立った。“欧州では、大勢の同志が待っている!”同志を思うと、伸一の胸は躍った。
<雄飛の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
伸一は、5月9日、休む間もなく、ソ連、欧州、北米訪問へと旅立っていった。最初の訪問国であるソ連は、世界から非難の集中砲火を浴びていた時であった。1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことから、80年夏のモスクワ五輪を、60を超える国々がボイコットし、ソ連は国際的に厳しい状況に追い込まれていたのである。
しかし、伸一は、すべてを政治的な問題に集約させ、対話の窓口を閉ざしてはならないと考えていた。そんな時だからこそ、文化・教育を全面的に掲げ、民衆の相互理解を促進する民間交流に、最大の力を注ぐべきであるというのが、彼の信念であった。
今回の伸一のソ連訪問は、ソ連高等中等専門教育省とモスクワ大学の招聘によるものであった。一行は、富士鼓笛隊、創価大学銀嶺合唱団など、総勢約250人という大訪問団となった。伸一は、8日間のソ連滞在中、ソ連の要人たちと平和・文化交流をめぐって、次々と語らいを重ねていった。
その間に、レーニン廟や、故コスイギン前首相の遺骨が納められているクレムリン城壁、無名戦士の墓を訪れて献花した。なかでも前首相の墓参は、今回の訪ソの大切な目的の一つであった。コスイギンが死去したのは、前年12月のことであった。伸一は、前首相とは、2回にわたってクレムリンで会見していた。
5月12日、伸一は、コスイギン前首相の息女であるリュドミーラ・グビシャーニが館長を務める、国立外国文学図書館を訪れ、会談した。伸一が、墓参の報告をし、弔意を述べると、彼女は、声を詰まらせながら応えた。
親から子へ、世代を超えて友情が結ばれていってこそ、平和の確かな流れが創られる。13日、伸一と峯子は、モスクワ大学のR・Ⅴ・ホフロフ前総長の追善を行ったあと、ホフロフ宅を訪問した。伸一たちは、エレーナ夫人、長男のアレクセイ、次男のドミトリーと、亡き総長を偲びながら、語らいのひとときを過ごした。一家との交流は、その後も重ねられていった。
伸一は、正午には、モスクワ大学を訪問し、ログノフ総長と対談した。伸一は、未来に平和の思想と哲学を残すために、対談を行うことに合意し、二人の語らいは13回に及び、その間に、対談集『第三の虹の橋ーー人間と平和の探求』を出版。1994年には、『科学と宗教』が発刊されている。
13日夕刻には、「日ソ学生友好の夕べ」が開催された。今、眼前で、日ソの青年らによる文化と友情の交流が行われ、確かに“精神のシルクロード”が結ばれようとしていることを、伸一は感じていた。
翌14日午後、伸一たちは、クレムリンを訪れ、ニコライ・A・チーホノフ首相と会見した。伸一は、チーホノフ首相に語った。「世界平和のために、ぜひとも首脳会議を呼びかけ、戦争には絶対反対するための話し合いを続け、安心感を全人類に与えていくことが大事です」伸一は、日ソ関係にも言及していった。
彼は、米ソ首脳会議について、1・26「SGIの日」記念提言でも訴えている。1985年ソ連にゴルバチョフ書記長が誕生すると、冷戦の終結へ舵が切られた。11月、レーガン米大統領との米ソ首脳会談が実現し、東西の対話は加速していった。90年、伸一は、ゴルバチョフと初会見した。二人は、その後も親交を結び、対談集『20世紀の精神の教訓』を発刊している。
伸一は、トルストイの家と資料館を訪れた。トルストイは、貧困を強いられる民衆の救済に力を注ぐ一方、ペンをもって、堕落した教会や政府などの、あらゆる虚偽、偽善と戦った。それ故に、彼の著作は厳しい検問を受け、出版を妨害され、彼は教会から破門されている。だが、激怒した民衆が彼を擁護し、澎湃たる正義の叫びをあげたのだ。
トルストイの家と資料館を見学した伸一は、大文豪の生き方に勇気を得た思いがした。彼は、トルストイが、最後の日記に残した言葉を噛み締めていた。ーー「なすべきことをなせ、何があろうとも…」
伸一の一行は、午後7時、モスクワ大学のログノフ総長らの見送りを受け、モスクワのシェレメチェボ空港を飛び立った。“欧州では、大勢の同志が待っている!”同志を思うと、伸一の胸は躍った。
<雄飛の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋