小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

文京支部

個人指導ノート

『新・人間革命』第27巻 激闘の章 228p~

同志のなかへ、生命のなかへ。今こそ、一人でも多くの法友と会い、広宣流布への新しき誓願と共線の旅立ちをしようーー山本伸一は走った。5月9日には、練馬文化会館の開館記念勤行会に出席した。かつて彼が支部長代理を務めた文京支部で、一緒に活動に励んだ金田都留子に声をかけた。

彼女は、伸一が担当していた座談会に参加した。文京支部長の田岡治子が「人は、信じる対象によって大きな影響を受けます。詐欺師を信用したら、お金などをだまし取られます。間違った地図を信じると道に迷い、目的地にはつけません。宗教はその人の生き方の根本の教えであり、幸福を目指す地図です。もし、誤った教えを信じてしまえば、人生を根本から狂わせてしまうことになりかねません。」と話した。

「頑張ったからといって、皆が皆、必ずしも幸福になれるとは限らない。それは、福運によるんです。」伸一から「福運」という言葉を聞いた時、28歳で亡くなった兄が、「人生をよりよく生きるための、正しい宗教を探してほしい」と死を前にして語ったのを思い出した。

金田は伸一という初対面の青年に、真心と信仰への強い確信を感じ、「信心をさせてください」と思わず、言っていた。伸一は、語った。「この信心をすると、必ず周囲の反対に遭います。魔が競い起こってきます。…勇気がなければ、信心を貫いていくことはできません。その覚悟はおありですか」

「はい」都留子は、“毎日、死にたいと思っているような人生ではないか。それが転換できるのなら、だれに反対されようが、絶対に信心を貫いてみせる!”と、固く、心に誓った。都留子は、真剣に信心に励んだ。ほどなく、長男の結核の進行が止まった。学校にも通えるようになった。そこに、仏法の力を感じた。欣喜雀躍して、日々、勇んで学会活動に飛び出していった。

功徳の体験に勝る力はない。入会して間もなく、彼女は、伸一の「立正安国論」講義を聴いた。大きな衝撃を受けた。目の覚める思いがした。都留子は、自分の世界が、大きく広がっていく思いがした。これまで、考えもしなかった壮大な歴史の流れのなかに、自分がいることを感じた。人は広宣流布の使命を自覚する時、境涯革命の扉が開かれるのだ。

彼女は、自分も広宣流布の大理想を担う一人であると思うと、胸は高鳴り、体が打ち震える思いがした。その胸に、広宣流布への使命の灯火が、明々ととともされたのである。彼女は、いつも”死にたい”
と思っていた自分が、日々、歓喜に燃えて生きていることを、誰かに語らずにはいられなかった。


伸一が、第三代会長に就任した60年5月3日、大発展を遂げた文京支部は、三支部に分割され、
金田は、新設された新宿支部の婦人部長となったのである。当時、彼女は板橋区に住んでいた。新宿区の支部事務所を拠点として活動に励んだ。

タテ線時代のことであり、支部員は、目黒、世田谷をはじめ、東京各区や、千葉、神奈川など近県に存在し、長野県にもいた。支部員宅の訪問も、電車やバスを乗り継がねばならず、日に、2、3件を回るのがやっとであった。日々の交通費を工面するのも悩みの種であった。生活費は、節約に節約を重ねた。家には電話がないため、連絡、報告も一苦労であった。公衆電話の順番を待つこともあった。

彼女は、個人指導ノートを作り、会った人たちの状況や指導した内容などを、克明に記していった。そして、一人ひとりが、かかえている悩みを克服できるように、真剣に題目を送るとともに、定期的に連絡を取った。

“本人が苦労を乗り越え、見事な信心の実証を示してこそ、個人指導が完結する!”支部員の幸せを祈って生きていくなかで、彼女自身がたくさんの功徳を受けた。電話付きの大きな家に転居し、家族も皆、健康になっていった。また、何より笑いの絶えない家庭になった。

彼女の個人指導ノートに記載された人の数は、優に千人を超えていた。それは、幸せの大輪を咲かせた数でもあった。この個人指導ノートは、彼女の誇らかな宝物となっていたのである。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

一班10闘争

『新・人間革命』第25巻 福光の章 60p~

活動の目標が打ち出されても、幹部など一部のメンバーだけが活動に取り組んでいるのでは、人材も育たなければ、広宣流布の本当の広がりもない。全会員が、共に責任を分かちもち、主体者となって、活動の大舞台に躍り出てこそ、新しい活力にあふれた、新しい前進があるのだ。

皆が地涌の菩薩である。皆が尊き使命をもった如来である。その力が十全に発揮される流れを開いていくことこそ、広宣流布のリーダーの大切な要件といえよう。

1957年(昭和32年)6月、山本伸一は、北海道にいた。夕張での炭坑労働者組合問題に対処するためである。その最中伸一から"一班10闘争"の電報が届いたのだ。北海道での闘争が終わったら、帰りに浜通りの磐城に寄るとの伝言に、皆は喜びに沸き返った。

同じ炭鉱で働く同志のことを心配してのことだとの伸一の心をくみ、緒戦を大勝利で飾って迎えようとの、島寺地区部長の呼びかけに全参加者から、元気な声がはね返ってきた。

戦いの勝敗を決する大きな要因は、指導者の一念、行動にある。断じて勝つという、燃え盛るリーダーの闘魂が全軍に波及し、皆を勇猛果敢な闘士にしていくのだ。

しかし、7月2日、室長が行かれなくなったとの連絡が入る。参議院大阪地方区の補欠選挙で、違反者が出てしまい、小西理事長が逮捕され、山本室長が責任者として逮捕されるかもしれないとのことだった。田岡治子が大阪へ向かう室長に会って何か伝言をと言った時、「『夜明けが来た、と伝えてください』とおっしゃっていました。」との電話が入る。

さらに、7月3日夜遅く、田岡治子から、憤怒がほとばしる電話が入る。「山本室長は、大阪府警に出頭し、そのまま逮捕されました。何も悪いことなどしていないのに、無実の罪で不当に逮捕されたんですよ。いよいよ権力の魔性が牙をむいたんです。室長は、『夜明けが来た』と言われましたが、その意味を私は考えてみました。

創価学会という、民衆の力を結集した新しい団体が、社会的に、大きな力をもってきたから、今のうちに、それを躍起になってつぶそうとしたのが、今回の夕張炭労事件であり、室長の不当逮捕であるから、この弾圧をはね返し、学会が不屈の力を発揮していくならば、民衆の新しい時代が訪れる。それで、室長は『夜明けが来た』と、私たちに伝言してくださったと思うんですよ」

田岡は、叫ぶように言った。「島寺さん、何があっても、なんとしても"一班10闘争"を大勝利しましょう。これは、支部長代理の山本室長が熟慮の末に提案された戦いなんですから、この闘争に勝つことが、山本室長との共戦であり、"夜明け"を開くことになると思うんですよ」一人の婦人の懸命な訴えに、闘将の心は烈火となった。必死の一念から発する言葉が、生命を射貫くのである。

翌朝、同志に、山本伸一が不当逮捕されたことを発表したのである。誰もが驚きを隠せなかった。"なんで、あの山本室長が逮捕されなければならないのだ…"というのが、皆の疑問であった。

「私は、山本室長と共に、大阪の支援に行きました。その時に、口が酸っぱくなるほど、『無事故であることが大事です。違反行為など、絶対にしてはならない』と言われ続けていた。その室長が、違反行為を指示するわけがないではありませんか!」誰もが、"そうだ!"と思った。誰もが、正義感の強い伸一の人柄を、よく知っていたからである。

「戸田先生が言われた、その大難が遂に競い起こったんです。しかし、今、大阪府警に乗り込んで行った所で、混乱をきたすだけです。私たちは、権力の魔性に対して"学会は弾圧なんかに負けないぞ!民衆の力をなめるな!"というものを、見せつけてやらねばならない。それにはこの試練のなかで、大拡大の実証を示すことです、まず、この闘争を大勝利するんです。今こそ、"まことの時"が来たのだと腹を決めて、強盛の大信力をいだして、大折伏を敢行しようではありませんか!」

闘魂の雄叫びは、皆の勇気を呼び覚まし、心を一つにする。島寺は、心で泣きながら、悔しさをバネに情熱を燃え上がらせ、福島の浜通りで、"一班10闘争"の指揮を執ったのである。


文京支部員としての活動

『新・人間革命』第25巻 福光の章 46p~

伸一は、県・圏幹部ら80人との懇談会に出席した。県指導長の鈴村アイと常磐圏指導長の菅田歌枝に声をかけた。「80歳になろうが、90歳になろうが、命ある限り戦い、人びとを励まし続けるんです。『生涯青春』でいくんですよ。」

「あなたたちは、生涯、自らの行動を通して、皆に学会精神を伝え抜いていってほしいんです。私と一緒に、文京支部員として戦った同志ではないですか!」

鈴村は、肺結核にかかり、死の不安に怯え、断崖にたたずんだこともあった。夫の裕孝も、病んだ妻をかかえ、仕事と子育てに追われ、心身ともに疲弊していった時、兄から創価学会のことを聞く。「この信心で必ず乗り越えられます!」との確信の言葉に、入会する。

アイは、クリスチャンで、実家には教会が建てられ、兄は牧師だったことから大反対するが、自宅に来るメンバーの話を聞くうちに、その確信に打たれ、入会する。

地区部長から「自行化他」と言って、自分が勤行し、題目を唱えるとともに、人にも信心を教えていかなければならない。自分の幸せばかりを祈るならば、それは利己主義の信心だとの話を聞く。

自分はまだ、悩みを解決できたわけではないので、解決したら頑張るというと、「病気で苦しんでいる時、動くのが辛いから、病気が治って元気になったら病院に行こうと思うか」と言われ、「今の苦しみを乗り越えたいと思うなら、いつか頑張ろうと考えるのではなく、今すぐに行動を起こすことだ。体調が悪いなら、無理をする必要はない。折伏は、家に来た人や近所の人に、仏法の話をしていけばいいんです。ともかく、みんなを幸せにしようとの一念で、正法を語り抜いていくことが大事なんです」

「自分にできることから、やればいいんです。なぜ、自分が信心してみようと思ったかを語ることも立派な折伏です。ご主人と一緒に折伏に行って、ご主人が話をしたら、『そうなんです。おの通りですよ』と、一生懸命に相づちを打つだけでもいいんですよ」


"日々、悩み苦しんでいる、こんな自分の宿命を変えたい!"アイは、その一身で、近隣の知人を訪ね、仏法を語った。驚いたのは、知人たちであった。いつも陰鬱な顔をして、床に就いてばかりいた彼女が、自ら訪ねてきては、一生懸命に信心の話をするのだ。周囲の人々は、生気のなかった鈴村アイが、布教に歩く姿に驚き、彼女の話に熱心に耳を傾けた。この鈴村を励まし続けてきたのが、菅田歌枝であった。

菅田は、宗教の勧誘にきた婦人たちに、「ご主人を亡くし、三人のお子さんも早世するでしょう」と言われ、不安を覚え、その宗教の布教に積極的に歩き、多額の布施もしたが、夫病状は悪化していった。自分は、騙されたと思い、もう宗教はこりごりだと思った。

病に苦しんでいた夫の留太郎は、学会の書籍を読み、宗教には、高低浅深があることを知り、創価学会に入会した。歌枝は、憤慨し、大反対したが、夫は、日増しに健康を回復し、一方、歌枝は、原因不明の頭痛に悩まされ、眠れぬ日が続いていった。夫の病は、3年かかると言われたが、半年で回復し、職場復帰した。その実証を前に、歌枝も入会する。

彼女は、東京での会合にも 福島県から勇んで出かけて行った。文京支部長代理の山本伸一ともしばしば顔を合わせる機会があった。鈴村が入会した直後の6月、山本伸一は、7月の活動として、1班10世帯の弘教の目標を打ち出す。

戸田会長が掲げた会員75万世帯達成が間近に迫っていた。伸一は、"この75万世帯体制の大闘争に加わるということは、広宣流布の前進に、燦然たる自身の足跡を刻むことになる。子々孫々までも誇り得る歴史となる。その意義は、どれほど大きく尊いことであろうか・・・" 

そう思うと、一人でも多くの同志を、その戦列に加えたかった。そして、班10世帯の弘教を提案したのだ。特に、これまで折伏を実らせずにいた人や、新入会の同志などに、弘教の大歓喜の闘争史を創ってほしかったのである。



世界広布第二章の暁鐘

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 306P~ 

記念撮影のあと会場に設置された展示を鑑賞した。そこには、伸一が入会したばかりのころに使用していた厨子や、文京支部の支部長代理としての激闘の渦中に、支部員に送った激励の葉書などが展示されていた。

文京支部での日々は、獅子奮迅の闘争の明け暮れであった。彼は徹底して支部員の個人指導を行い、また、毎月の幹部会などでは必ず皆の希望となる新しい目標や指針を示してきた。そして、支部長代理就任から1年三か月後、豊島公会堂で行われた文京支部総会では、2500人の大結集を果たしたのである。

全精魂を注いできたからこそ、懐かしさが込み上げるのである。広布の美しき思い出とは、わが生命に刻印された汗と涙の敢闘なのだ。豊島区での激闘の三日後、伸一はヨーロッパ訪問に出発した。

今回の訪問国は、フランスとイギリスの二か国である。10日には、パリ郊外のバンセンヌの森にある「バルク・フロラル」で、フランスのメンバーが主催して行われた、第二回「第三文明絵画・華展」に出席した。総合テーマは「欧州に太陽を」であった。

"第三文明展"は大好評であった。各マスコミも取り上げた。また、テレビも、この展覧会を紹介した。
翌11日には、パリ大学ソルボンヌ校を訪問し、教授らと懇談したあと、総長と対談した。その際、伸一は、創価大学の"建学の精神"である「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」のモットーを紹介した。

総長は「本当にすばらしい。共感し、感動しました」と頬を紅潮させて語った。創価大学への、世界の知性の称賛であった。まさに、このモットーには、本来、大学のめざすべき使命が集約されていたといえよう。

5月12日、「ヨーロッパ会議」の設立準備会議が開かれた。当時、ヨーロッパの統合化は、社会的にも、未来の大きなテーマとなっていた。したがって、人類の幸福と平和をめざす精神の結合ともいうべき「ヨーロッパ会議」の設立は、次元は異なるものの、時代を先取りする価値ある第一歩であったといってよい。

議長には、川崎が就任した。13日、欧州各国の代表3百人が参加して、パリ本部で行われた世界平和勤行会で、正式に発表された。それは、「世界広布第二章」の暁鐘となったのである。

14日には、イギリスのロンドンに移り、翌日からは、アーノルド・トインビー博士との対談が始まった。トインビー博士は高齢である。博士は、伸一に遺言を託すがごとく、真摯に語り続けた。

17日には、ロンドン市内に開設されたロンドン事務所の開所式に出席したのである。山本伸一は、イギリスの広宣流布のために、幾つかの指針を示した。

事務所といっても二間しかないアパートであった。仏間も20人ほど入ればいっぱいになってしまう小さな部屋である。伸一は、妻の峯子に「この事務所は、国の中心となる場所としては世界で一番、小さいかもしれない。」

「たゆまず、黙々と頑張り続けていくならば、10年先、20年先には、イギリスにも、立派な王城のような会館ができるよ。それが仏法の因果の理法だもの・・・」事実、この時から16年後に、ロンドン郊外のテムズ河畔に、池や古墳、由緒ある館を擁する、広大なタプロー・コート総合文化センターがオープンしている。

26日、パリを出発し、経由地オランダのアムステルダム空港では、飛行機トラブルで4時間ほど出発が遅れた。その時、到着ゲートには、十数人のメンバーが待っていた。オランダのメンバーが伸一が来ることを祈り続けていたと知り、皆で、空港近くの公園へ行き座談会を行う。

オランダにも着実に新しいメンバーが誕生していた。伸一は訴えた。「皆さんこそ、人びとの苦悩の闇を晴らす、希望の太陽なんです。さあ、出発しましょう。広宣流布の旅へ!」

<民衆城の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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