『新・人間革命』第17巻 緑野の章 325P~
<緑野の章 開始>
"次は、各方面、各県の強化だ!これまであまり訪問できなかった地域に光を当てて、一県一県、堅固な牙城に仕上げていこう!"伸一は、ヨーロッパ訪問から帰国して9日後の6月5日には、早くも福井県の武生市を訪れたのである。一年ぶり5度目の福井訪問である。
伸一は、福井県には特別な思いがあった。福井県は幾度となく、災害に見舞われてきた地であったからだ。1945年(昭和20年)7月には、大空襲によって敦賀・福井市内は焦土と化し、3年後、福井地震に襲われ、地震の揺れの激しさから、気象庁は震度階級に最強の揺れとして、「震度7」を追加している。
その1か月後、豪雨によって九頭竜川左岸の堤防が決壊し、福井市内に濁流が流れ込んでいる。1950年、53年にも、台風による水害で多くの犠牲者を出したほか、3百戸以上が全焼するという大火もあった。
伸一は、その悲惨な災禍を思うと、傷ましくて仕方なかった。また仏法で説く「国土」というものの宿命を痛感せざるをえなかった。
福井県幹部会の会場になった武生市の体育館には、6千人のメンバーが詰めかけ、場外にも人があふれていた。山本伸一が指導に立った。ここで、伸一は、福井の歴史に言及していった。
福井地方はかつて大繁栄した地であり、福井人は誇りと気概にあふれ、優れた力を有していた事実を論証していった。さらに、彼は、その本来の活力が生かされずに、"消極性""保守王国"のレッテルが張られてしまった原因について考察していった。
福井県には、曹洞宗の大本山となった永平寺がある。だが、より広く福井の人びとに浸透しているのは、"浄土教"すなわち念仏の教えである。念仏の教えは、この世は穢れた穢土であるとし、ただ念仏を唱えることによって、死んで後に極楽に行けるとする教えである。
それは、現実の社会で、建設の主体者として、永続的な改革に挑む生き方とは相反する思想である。そうした教えが、福井人の活力にあふれた積極的な生き方を、消極的な他力本願的なものへと変質させてきたことを、伸一は鋭く指摘していったのである。
伸一は、訴えた。「この"保守王国"といわれる現実を転換し、バイタリティーを復興する道は何か。大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と断言されている。生命の大法たる日蓮大聖人の仏法によって、必ず、この郷土の本質的な大改革ができるということを、私は宣言しておきたいのであります。それは、ひとえに、皆さんの勇気と活動にかかっているのであります。」
さらに、伸一は、福井地方からは『蘭学事始』の著者・杉田玄白や、蘭学の振興に努めた橋本佐内などが出たことをあげて、福井の進取性に言及していった。
「このような観点から見れば、福井県は潜在力に満ちた地域性です。皆さん方は、自分の郷土に大いに将来性を見いだしてください。そして、過去の"仏教王国"なるものを、新しき真実の"仏教王国"につくり直していっていただきたいのであります」
伸一は、各地を訪問する際には、その地の歴史や風土、直面している問題等等々を徹底して調べ、分析し、仏法の視座から地域の発展と人びとの幸福のために何が必要かを熟慮し、意見や提案を述べていった。
"妙法による郷土のルネサンスを!"ーーこの山本会長の渾身の指導は、福井の同志にとって、郷土の新しき建設のための永遠の指針となったのである。
伸一は、昭和35年に敦賀の駅で伸一を待っていた同志が会場にいるか呼びかけた。夜行列車で金沢に向かう途中、午前二時半ごろ敦賀駅で6分間ほど停車した時、50人ほどの同志が、伸一の指導を求めて、駅のホームで待っていたが、深夜でもあり、周囲に迷惑をかけないよう、伝言を託して、あえて会うことはしなかった。胸が張り裂ける思いだったが、社会に迷惑はかけられないと熟慮の末、決めたことではあったが、自分を責めた。
「悔恨がないのは、前進がないからである」とは、トルストイの達観である。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋
<緑野の章 開始>
"次は、各方面、各県の強化だ!これまであまり訪問できなかった地域に光を当てて、一県一県、堅固な牙城に仕上げていこう!"伸一は、ヨーロッパ訪問から帰国して9日後の6月5日には、早くも福井県の武生市を訪れたのである。一年ぶり5度目の福井訪問である。
伸一は、福井県には特別な思いがあった。福井県は幾度となく、災害に見舞われてきた地であったからだ。1945年(昭和20年)7月には、大空襲によって敦賀・福井市内は焦土と化し、3年後、福井地震に襲われ、地震の揺れの激しさから、気象庁は震度階級に最強の揺れとして、「震度7」を追加している。
その1か月後、豪雨によって九頭竜川左岸の堤防が決壊し、福井市内に濁流が流れ込んでいる。1950年、53年にも、台風による水害で多くの犠牲者を出したほか、3百戸以上が全焼するという大火もあった。
伸一は、その悲惨な災禍を思うと、傷ましくて仕方なかった。また仏法で説く「国土」というものの宿命を痛感せざるをえなかった。
福井県幹部会の会場になった武生市の体育館には、6千人のメンバーが詰めかけ、場外にも人があふれていた。山本伸一が指導に立った。ここで、伸一は、福井の歴史に言及していった。
福井地方はかつて大繁栄した地であり、福井人は誇りと気概にあふれ、優れた力を有していた事実を論証していった。さらに、彼は、その本来の活力が生かされずに、"消極性""保守王国"のレッテルが張られてしまった原因について考察していった。
福井県には、曹洞宗の大本山となった永平寺がある。だが、より広く福井の人びとに浸透しているのは、"浄土教"すなわち念仏の教えである。念仏の教えは、この世は穢れた穢土であるとし、ただ念仏を唱えることによって、死んで後に極楽に行けるとする教えである。
それは、現実の社会で、建設の主体者として、永続的な改革に挑む生き方とは相反する思想である。そうした教えが、福井人の活力にあふれた積極的な生き方を、消極的な他力本願的なものへと変質させてきたことを、伸一は鋭く指摘していったのである。
伸一は、訴えた。「この"保守王国"といわれる現実を転換し、バイタリティーを復興する道は何か。大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と断言されている。生命の大法たる日蓮大聖人の仏法によって、必ず、この郷土の本質的な大改革ができるということを、私は宣言しておきたいのであります。それは、ひとえに、皆さんの勇気と活動にかかっているのであります。」
さらに、伸一は、福井地方からは『蘭学事始』の著者・杉田玄白や、蘭学の振興に努めた橋本佐内などが出たことをあげて、福井の進取性に言及していった。
「このような観点から見れば、福井県は潜在力に満ちた地域性です。皆さん方は、自分の郷土に大いに将来性を見いだしてください。そして、過去の"仏教王国"なるものを、新しき真実の"仏教王国"につくり直していっていただきたいのであります」
伸一は、各地を訪問する際には、その地の歴史や風土、直面している問題等等々を徹底して調べ、分析し、仏法の視座から地域の発展と人びとの幸福のために何が必要かを熟慮し、意見や提案を述べていった。
"妙法による郷土のルネサンスを!"ーーこの山本会長の渾身の指導は、福井の同志にとって、郷土の新しき建設のための永遠の指針となったのである。
伸一は、昭和35年に敦賀の駅で伸一を待っていた同志が会場にいるか呼びかけた。夜行列車で金沢に向かう途中、午前二時半ごろ敦賀駅で6分間ほど停車した時、50人ほどの同志が、伸一の指導を求めて、駅のホームで待っていたが、深夜でもあり、周囲に迷惑をかけないよう、伝言を託して、あえて会うことはしなかった。胸が張り裂ける思いだったが、社会に迷惑はかけられないと熟慮の末、決めたことではあったが、自分を責めた。
「悔恨がないのは、前進がないからである」とは、トルストイの達観である。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋