小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

教育

グルントウィとコルのフォルケホイスコーレ

『新・人間革命』第4巻 大光の章 P305~

10月5日、ヨーロッパ訪問の最初の地 デンマークのコペンハーゲンに到着した山本伸一。


伸一は、デンマークの色とりどりの家並みを見て、デンマークのユニークな教育の一環を垣間見た思いがした。

彼は、牧口常三郎の「創価教育学体系」の「緒言」に書かれた、デンマークの復興の父グルントウィと、その若き後継者コルのことを思い出した。

この二人の教育者については、かつて、戸田城聖が何度となく、伸一に語ってくれた。

グルントウィは、デンマークが世界に誇る大教育者であり、「フォルケホイスコーレ(国民高等学校)」の創設者として知られている。


激動の時代に成長したグルントウィは、本の知識を、ただ丸暗記するだけの、暗記中心の詰込み主義の学校教育に大きな疑問をいだいた。後に、彼は、自分の教育理念をつづった著作「生のための学校」のなかで、そうした学校教育を、“死の学校”だと批判している。

グルントウィは、大地に根を張った民衆を蔑視し、民族の文化を軽く見る大学出の都会のエリートたちに強く反発した。

グルントウィの人生は、迫害の連続であった。しかし、彼は、信念を曲げなかった。

“民衆自身が目覚めて、政治を監視し、自由に発言できる力をもってこそ、真の民主であり、真の祖国の復興になるはずだ。民衆を聡明にしよう!民衆を勇敢にしよう!民衆を雄弁にしよう!”

そのために、彼が構想したのが、「フォルケホイスコーレ」であった。

最初の「フォルケホイスコーレ」がオープンしたのは、1884年のことであった。

そして、この「フォルケホイスコーレ」が、デンマーク社会に深く根を張り、大発展していく原動力となったのが、後継者のクリステン・コルである。

コルは、グルントウィよりも30歳以上も若い、少壮気鋭の教育者であった。
コルも、若くして教育者となったが、やはり、詰め込み教育になじめず、精神的にも落ち込んでしまった。そんな時、偶然、グルントウィの思想を知るのである。

その後コルは、グルントウィの「フォルケホイスコーレ」の構想に共鳴し、それを実践しようと、学校の設立に奔走する。しかし、決して裕福ではない彼は、資金的に行き詰まり、グルントウィに援助を求めた。

一面識もない青年の依頼ではあったが、グルントウィは、並々ならぬ情熱を感じたのであろう。
コルに対する援助を快諾するのである。

こうして、コルの「フォルケホイスコーレ」が開校する。1851年のことであった。

グルントウィの共鳴者はたくさんいた。しかし、グルントウィを師と定め、彼の「生きた言葉」を、師の心を教育の現場で、そのまま実践していったのは、コルをおいてなかったといわれている。

コルは、生涯、質素な作業着で、青年との対話、庶民との対話を続けた。その姿から、「野良着のソクラテス」と呼ばれ、人びとに慕われたのである。

この時、デンマークは、「外で失ったものを内で取り戻そう」と、祖国復興を目指して、未開拓の荒れ地の多かったユトランド半島で、植林運動を開始している。

そして、「フォルケホイスコーレ」という、グルントウィが種を植えた、“教育の森”も、デンマークの各地に広がり、祖国復興を担う人間の大樹を育てる力となったのである。

牧口常三郎は「創価教育学体系」の「緒言」で、この書の発刊は、愛弟子・戸田城聖の奮闘なくしてはありえなかったと述べ、その感謝の心情をグルントウィとコルの師弟の姿に重ね合わせている。

牧口、戸田の教育観、学校観も、「人間をつくる」「民衆を聡明にする」という点など、グルントウィに近いものがあった。

山本伸一は、コペンハーゲンの街を車窓からながめながら、自分もコルのように、先師牧口常三郎、恩師戸田城聖の教育の理想を受け継ぎ、一刻も早く、創価教育を実現する学校を、設立しなければならないと思った。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

成長の要件

『新・人間革命』第4巻 青葉の章 P153~

「青葉の章」スタート


青葉には、青年の輝きがある。
青葉茂る青年の森をつくるーそこに山本伸一の広宣流布の大構想があった。


伸一は 会長就任2年目のテーマを青年部の育成に掲げ、「青年の年」とした。


青年が成長する要件3点


1点目は 自身の使命を自覚すること

戸田先生の時代、青年部は学会の全責任を担い、常に学会の発展の原動力になっていた。
戸田先生の言われた75万世帯は、
誰がやらなくとも、青年部の手で成就しようという気概があった。


何か問題が生じた時に、真っ先に飛んで行き、対処してきたのも青年部であった。


しかし、学会が大きくなり、組織が整ってくるにつれて、
青年が壮年や婦人の陰に隠れ、十分に力が発揮されなくなってきているように思えてならない。


青年部の時代から、全学会の責任をもつ決意で、私とともに必死になって働いてきた。
その自覚と行動があったからこそ、学会の首脳として、立派に指揮をとることができるのです。


戸田の弟子として、師の心をわが心とし、学会のいっさいを自己の責任として考えてきた。
それゆえに、戸田の薫陶も生かされ、大いなる成長もあったのである。
この見えざる無形の一念こそが、成長の種子といってよい。



2点目は、師匠を定めることです。

九州男子部の川中は、伸一に言った。
「人間が自分を高めようとすれば、人生の師が必要です。私は、山本先生の弟子として、
 生涯、戦い抜いていこうと思います。これは、私が自分で決めたことです。」


「山本先生の振る舞いから、師の構想を実現していくのが弟子だとういうことは、
 私にもわかります。ですから、私は、山本先生の示された広宣流布の目標は、すべて成就し、
 勝ち取っていこうと思います。その勝利の結果をもって、先生にお応えしていくつもりです」


彼の行動は、師と仰ぐ伸一を基準にし、伸一の側に立って物事を考えていた。
自分を「皆さん」の一人ととらえて、師と向かい合うのではなく、
師と同じ方向を見ながら、師とともに生きようとしていたのである。



3点目は、両立に挑むということです。


仕事と学会活動に悩む青年の質問に答える伸一。
「結論を先に言えば、いかなる状態にあっても、必ず、すべてをやりきると決め、
 一歩も退かない決意を持つことです。」


「人間は、厳しい状況下に置かれると、ともすれば、具体的にどうするかという前に、
 もう駄目だと思い込み、諦めてしまう。つまり、戦わずして、
 心で敗北を宣言しているものなんです。実は、そこにこそ、すべての敗因がある。」


「自分は仕事も学会活動もやりきるのだと決め、時間を見つけて、ともかく真剣に祈ることです。
 そして、生命力と知恵をわかせ、工夫していくことです。」


「いかなる場合でも、青年時代に、仕事も、学会活動もやりきったといえる戦いをすべきです。
 それが人生の基盤になるからです。
 戸田先生も、よく『信心は一人前、仕事は人の三倍働きなさい』と言われていた。」


「一日は24時間しかないし、体も一つしかないのに、仕事も頑張れ、学会も頑張れというのは、
 矛盾しているのではないかと思う人もいるでしょう。」


「何事にも両面があり、一方に偏らないからこそ、人間的なんです。
 つまり、人間が生きるということは、相反する課題を抱え、その緊張感のなかで、
 バランスを取りながら、自分を磨き、前へ、前へと、進んでいくということなんです。」


「だから、仕事な仕事だけに一本に絞れば、すっきりすると思うかもしれませんが、
 何かを投げ出そうとするのは誤りです。」


「苦労して、それをやり遂げていくところに、本当の修行があり、鍛えがある。また、
 その苦労が、諸君の生涯財産になるんです。苦しいな、つらいなと思ったら、
 寸暇を見つけて祈ることです。祈れば、挑戦の力がわいてくるし、
 必ず事態を開くことができます。」


「そして、やがては、自由自在に、広宣流布のため、活動に励める境涯になっていきます。
 皆、苦労をすることは損だと思っているが、長い目で見れば得です。
 それが、全部、人生の財産になる。だから、うんと苦労し、苦労を楽しもうよ」


青年に知識や技術を教える学校はある。
しかし、人生や生き方を教え、生命を錬磨する教育機関はない。
だが、そこにこそ、人間教育の基本がある。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋
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