『新・人間革命』第22巻 波濤の章 246p
「尾道丸」の海難事故を受け、運輸省は、船の強度や三角波の実態など、本格的に研究が進めれた。その結果、コンピューターによる安全運行システムが開発され、船の設計基準も大きく変わっていった。それによって、"魔の海域"での海難事故は激減していくことになる。
「だんぴあ丸」による「尾道丸」の救助活動は、その後、何度か、テレビのドキュメンタリー番組などに取り上げられ、NHK総合テレビの「プロジェクトX~挑戦者たち~」が、この救出劇を取り上げた。それは日本中に大きな感動を広げた。
1982年(昭和57年)3月第1回の「波濤会総会」が開催された。伸一は、全精魂を傾ける思いでスピーチした。「行き詰ってしまい、もう自分の人生は駄目なのかと、思うこともあるかもしれない。しかし、何があろうが、信心から離れてはならない。苦境に陥った時こそ、祈って祈って、祈り抜くんです。広宣流布のために戦い切っていくんです。その時こそが、宿命打開のチャンスなんです」
伸一は必死であった。海運業界は、今後、ますます厳しくなっていくであろうことを、強く感じていた。1985年9月、ドル高修正に向けて協調介入をとっていく「プラザ合意」で1ドル240円前後から、2年後には、120円台になるという、急速な円高となっていった。
海運会社は日本人船員の削減を進め、5万5千人近かった日本人船員が、89年には1万1千となった。海運業界の前途は暗澹としていた。
"船員たちになんらかのかたちで、希望と勇気と誇りを与えることはできないものか"メンバーの間から「波濤会」のメンバーによる写真展の開催が提案された。
学会の週刊写真誌「聖教グラフ」では、「波濤を越えて」と題するメンバーが撮影したカラー写真と紀行文からなる連載を続けていた。なかなか行けない場所や、航海中でなければ出会えない珍しい光景が撮影され、迫力に富み、好評を博していたのである。
山本伸一に、メンバーの考えと決意を伝える手紙をしたためた。伸一は手紙を読むと「メンバーは、自分たちの明日が、どうなるかもわからないような状況のなかで、海運業界を元気づけようというのだ。その心意気が嬉しいね。これが、学会の精神だ。」
「学会の草創期、学会員は、みんな貧しく、病気や家庭不和などの悩みをかかえていた。しかし、そのなかで、自分たちが日本中の人を幸せにするのだといって、意気揚々と折伏に走った。自分の悩みなどを突き抜けて、友のため、社会のために、懸命に戦ってきた。大事なことは心意気だ」
写真展は「波濤を越えてーー働く海の男の写真展」のタイトルで、横浜にある、日本丸メモリアルパークの訓練センターで開催されることが決まった。彼らは会社の社長や上司、同僚、組合関係者、海運の各種団体などを回っては、写真展の趣旨を訴え、出席を呼びかけた。
海運会社のある重役の問いに、メンバーは胸を張って答えた。「仏法を持った者として、業界が大変な時だけに、なんらかのかたちでエールを送りたいと思いました」
開幕式には東京商船大学の学長や日本船長協会の会長をはじめ、多くの海運関係者が出席。鑑賞者は最終的に2千人を超えた。
第二回の写真展が開幕した1988年、伸一は 波濤会の代表を招いて懇談した。そして、「波濤会」の写真を、伸一の写真展と一緒にセットで 世界に巡回させることを伝えた。さらに、ソ連の海運大臣と会談した折、波濤会のメンバーの活躍を紹介し、交流を検討するよう話した。
それを知ったメンバーは"日ソ友好のために、力を尽くしていこう!"とさまざまな可能性を探った。ロシアを訪問する豪華客船の乗組員のなかにいた波濤会メンバーが、通訳にあたっていたロシアの極東国立総合大学の学生たちと友好を結び、個人的にも交流に努め、何度かウラジオストクを訪問した。
交流の種子が蒔かれた、丹精して育て上げることだ。誠実な交流を重ねてこそ、種は芽吹き、友情の花は開く。彼らは、学生たちからS・N・イリイン東洋学部長を紹介され、大学で、写真展を開催してはどうかと提案し、実現させようとの話がまとまった。
メンバーから報告を聞き、学会本部の首脳たちは戸惑った。大学に打診する前に、学会本部とよく連携を取り、一つ一つ判断を仰いで事を進めるのが、鉄則である。事は、創価学会と極東大学、創価学会とロシアという問題になるからだ。
当時、ロシアではソ連崩壊後の社会的な混乱が続いていた。そのなかにあって、極東大学で写真展を開催することに、学会本部の首脳たちは慎重にならざるを得なかったのだ。
太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋
「尾道丸」の海難事故を受け、運輸省は、船の強度や三角波の実態など、本格的に研究が進めれた。その結果、コンピューターによる安全運行システムが開発され、船の設計基準も大きく変わっていった。それによって、"魔の海域"での海難事故は激減していくことになる。
「だんぴあ丸」による「尾道丸」の救助活動は、その後、何度か、テレビのドキュメンタリー番組などに取り上げられ、NHK総合テレビの「プロジェクトX~挑戦者たち~」が、この救出劇を取り上げた。それは日本中に大きな感動を広げた。
1982年(昭和57年)3月第1回の「波濤会総会」が開催された。伸一は、全精魂を傾ける思いでスピーチした。「行き詰ってしまい、もう自分の人生は駄目なのかと、思うこともあるかもしれない。しかし、何があろうが、信心から離れてはならない。苦境に陥った時こそ、祈って祈って、祈り抜くんです。広宣流布のために戦い切っていくんです。その時こそが、宿命打開のチャンスなんです」
伸一は必死であった。海運業界は、今後、ますます厳しくなっていくであろうことを、強く感じていた。1985年9月、ドル高修正に向けて協調介入をとっていく「プラザ合意」で1ドル240円前後から、2年後には、120円台になるという、急速な円高となっていった。
海運会社は日本人船員の削減を進め、5万5千人近かった日本人船員が、89年には1万1千となった。海運業界の前途は暗澹としていた。
"船員たちになんらかのかたちで、希望と勇気と誇りを与えることはできないものか"メンバーの間から「波濤会」のメンバーによる写真展の開催が提案された。
学会の週刊写真誌「聖教グラフ」では、「波濤を越えて」と題するメンバーが撮影したカラー写真と紀行文からなる連載を続けていた。なかなか行けない場所や、航海中でなければ出会えない珍しい光景が撮影され、迫力に富み、好評を博していたのである。
山本伸一に、メンバーの考えと決意を伝える手紙をしたためた。伸一は手紙を読むと「メンバーは、自分たちの明日が、どうなるかもわからないような状況のなかで、海運業界を元気づけようというのだ。その心意気が嬉しいね。これが、学会の精神だ。」
「学会の草創期、学会員は、みんな貧しく、病気や家庭不和などの悩みをかかえていた。しかし、そのなかで、自分たちが日本中の人を幸せにするのだといって、意気揚々と折伏に走った。自分の悩みなどを突き抜けて、友のため、社会のために、懸命に戦ってきた。大事なことは心意気だ」
写真展は「波濤を越えてーー働く海の男の写真展」のタイトルで、横浜にある、日本丸メモリアルパークの訓練センターで開催されることが決まった。彼らは会社の社長や上司、同僚、組合関係者、海運の各種団体などを回っては、写真展の趣旨を訴え、出席を呼びかけた。
海運会社のある重役の問いに、メンバーは胸を張って答えた。「仏法を持った者として、業界が大変な時だけに、なんらかのかたちでエールを送りたいと思いました」
開幕式には東京商船大学の学長や日本船長協会の会長をはじめ、多くの海運関係者が出席。鑑賞者は最終的に2千人を超えた。
第二回の写真展が開幕した1988年、伸一は 波濤会の代表を招いて懇談した。そして、「波濤会」の写真を、伸一の写真展と一緒にセットで 世界に巡回させることを伝えた。さらに、ソ連の海運大臣と会談した折、波濤会のメンバーの活躍を紹介し、交流を検討するよう話した。
それを知ったメンバーは"日ソ友好のために、力を尽くしていこう!"とさまざまな可能性を探った。ロシアを訪問する豪華客船の乗組員のなかにいた波濤会メンバーが、通訳にあたっていたロシアの極東国立総合大学の学生たちと友好を結び、個人的にも交流に努め、何度かウラジオストクを訪問した。
交流の種子が蒔かれた、丹精して育て上げることだ。誠実な交流を重ねてこそ、種は芽吹き、友情の花は開く。彼らは、学生たちからS・N・イリイン東洋学部長を紹介され、大学で、写真展を開催してはどうかと提案し、実現させようとの話がまとまった。
メンバーから報告を聞き、学会本部の首脳たちは戸惑った。大学に打診する前に、学会本部とよく連携を取り、一つ一つ判断を仰いで事を進めるのが、鉄則である。事は、創価学会と極東大学、創価学会とロシアという問題になるからだ。
当時、ロシアではソ連崩壊後の社会的な混乱が続いていた。そのなかにあって、極東大学で写真展を開催することに、学会本部の首脳たちは慎重にならざるを得なかったのだ。
太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋