小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

挑戦

「母」の曲に託す 母の心

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 49p

父は、信心はしなかったが、「伸一は、戸田先生に差し上げたもの」と言って、彼を温かく見守ってくれていた。伸一は、父が、最高峰の日蓮仏法に帰依することを、朝な夕な祈念し、機の熟するのを待っていた。

戸田は、伸一に言った。「君が強情な信心に立つことだ。大きく、立派な傘ならば、一つに何人も入ることができる。同じように、家族で、まず誰か一人が頑張れば、みんなを守っていくことができる。君が必死になって頑張り抜いた功徳、福運は、お父さんにも回向されていくよ」

父は、戸田に絶対の信頼を寄せていたし、学会のことも深く理解していた。それでも、父が信心せずに一生を終え、最高の親孝行ができなかったことが、伸一は、やはり、心残りであった。その後、兄弟たちも、次々と信心を始めた。

母は子に、無尽蔵の愛を注いで育ててくれる。子どもは、大威張りで、母に甘える。母が老いたならば、今度は、子どもが親孝行し、恩返しをする番である。子どもに、その「報恩」の自覚がなくなってしまえば、最も大切な人道は失せてしまうことになる。

伸一は、自分にできる、せめてもの親孝行として、母を背負って、坂道を歩こうと思った。小柄な母は、年老いて、ますます小さく、軽くなっていた。親孝行とは、何も高価なものを贈ることではない。親への感謝の思い、真心を伝えることである。親と遠く離れて暮らし、なかなか会えない場合には、一枚の葉書、一本の電話でも、心は通い合う。

苦労に、苦労を重ねてきた母である。しかし、健気に信心に励み、最後に「日本一の幸せ者」と言い切れる母は、人生の勝利を満喫していたに違いない。伸一は、病床の母に、日寛上人の「臨終用心抄」を簡潔に、講義した。母は、病床に伏しながら「うん、うん」と、目を輝かせて頷き、伸一の話を聴いていた。

仏の使いとして生きた創価の母たちは、三世永遠に、勝利と幸福の太陽と共にあるのだ。海よりも広く、深い、母の愛は、正しき人生の軌道へと、人を導く力でもある。

母たちが人間革命し、さらに聡明になり、この母性の美質を、思想化していくなかに、確かなる平和の大道が開かれるというのが伸一の信念であったのである。彼は、この「母」の詩にメロディーをつけて、わが母を、婦人部員を、そして、世界のすべての母たちを讃えたかったのである。

この「母」の歌は、国境を越え、多くの人に愛されていくことになる。1992年(平成4年)2月、インドを訪問した伸一と峯子は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを持参した。どうしても贈りたい人がいた。故ラジブ・ガンジー元首相の妻ソニア夫人である。

伸一は、ソニア夫人に、家族のためにも、インドの民衆のためにも、苦難に負けずに、強く、強く、生き抜いてほしかった。ソニア夫人は、伸一の贈り物のオルゴールを、気に入ってくれたようであった。

再開した折、ソニア夫人は言った。毎日、聴いていたため、遂にオルゴールは壊れてしまったというのである。"インドの母"の心は、「母」の歌と、共鳴の調べを奏で、あのオルゴールに愛着をいだいていてくれたのだ。

創価大学のロサンゼルスキャンパスで、創価女子短大生が、米国の人権運動の母ローザ・パークスと懇談する機会を得た。短大生が尋ねた。「模範とされるのは、どなたでしょうか」「母です。」懇談のあと、短大生たちは、感謝の気持ちを込めて「母」を合唱した。彼女は感動した面持ちで歌に聴き入っていた。その目が涙で潤んでいた。

1994年初めての来日を果たし、創価大学で講演した。この時、パークスは、あの時の女子学生たちと会うことを希望していた。「母」の合唱が忘れられなかったのであろう。

中華全国青年連合会のメンバーが「母」の歌を歌いましょうと提案した。彼らも、この歌が好きなのだという。さらに、フィリピン国立リサール・システム大学のデレオン学長は、創価世界女性会館で、「母」の歌の合唱を聴いた。学長は、感動を噛み締めて語った。「魂を揺さぶられました。『母』に歌われている心は世界共通です」


太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

民衆文化の優先こそが人類の行き詰まりを打開する

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 38p

山本伸一は、側にいた男子部の幹部に言った。「やったね!壮挙だね!みんな負けなかった。それが、すごいことなんだ。負けないことが、勝つということなんだ!」

そして、彼は、メンバーに、こう伝言を託したのである。「倒れても、倒れてもまた立ち上がれーーこれが、学会精神です。獅子の心です。ここにこそ、人生の勝利があります。心から『おめでとう!』『万歳!』と申し上げます」

文化祭終了後、メンバーは、この伸一の伝言を涙で聞いた。そして、互いに抱き合い、「不倒の人生」を固く誓い合うのであった。

人間革命の大合唱が始まった。勝利と感動と歓喜の大合唱となった。皆が、人間革命をめざしての文化祭であった。自己自身への挑戦の文化祭であった。そして、それぞれが、"自分に勝った!"との実感と、その感動を噛み締めながらのフィナーレとなった。

伸一が、御礼のあいさつをした。「今日、人類は、あらゆる面で、行き詰まりの様相を呈しております。・・・今日の人間疎外をはじめ、現代の行き詰まりは、人類が政治優先、経済優先に陥り、人間を失ってしまった帰結であると、私は、申し上げたいのであります。

今こそ、人類は、『人間』という原点に返り、政治優先主義、経済優先主義から人間性の発露である、文化の復興を優先しなければなりません。全人類は、人間文化の復興を希求しています。戦争という武力の対極に立つのが文化であり、文化、芸術は生命の歓喜の発露であると、私は考えております」

伸一は、その人間文化の一つの結実が、この文化祭であると語った。「こうした民衆文化の運動が、日本のみならず、全世界に広がっていくならば、人と人の心は結ばれ、新たなルネサンスの夜明けが訪れると、確信いたします。この文化祭に象徴される大文化運動が、広宣流布という人間復興の運動なのであります」

母の容体が急変したとの連絡が入った。今日一日の彼の戦いを、母が見守っていてくれたような気がした。伸一は、平凡ではあるが、人間として最も大切なことを、母から教わったと、深く感謝している。

終戦の年となる1945年(昭和20年)春、空襲による類焼を防ぐため、家の取り壊しが決まり、近くの親戚の敷地に一棟を建て、越すことにし、家具も運び、皆で暮らそうとした時、空襲でその家が全焼してしまい、長持ち一つを運び出すのがやっとだったが、そこに入っていたのは、雛人形と一本のコウモリ傘だった。

その時母は、快活に言った。「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ」この言葉に、皆、どれだけ元気づけられたことか。


空襲を受けた時、撃墜されたB29から脱出した米兵が落下傘で降りてきた。自分とそれほど年齢も違わない20歳ぐらいの色白の少年の面影が残る若い米兵だった。その話を母に伝えると、「かわいそうに!怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう」母の口から、真っ先に出たのは、若い米兵の身を案ずる言葉であった。

米英への憎悪を煽り立てられ、婦人たちも竹槍訓練に明け暮れていた時代である。しかし、4人の息子の生還を願い、心を痛めていた母は、米兵の母親に、自分を重ね合わせていたのであろう。わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。

その母の心に立ち返る時、どんなに複雑な背景をもち、もつれた国家間の戦争の糸も、必ず解きほぐす手がかりが生まれよう。伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない。

明るく、忍耐強かった母。どんな時も、笑顔を失わなかった母。伸一は、その母が、声を押し殺し、背中を震わせて、すすり泣く後ろ姿を目にしたことがあった。長兄・喜久夫が、ビルマで戦死したとの公報が届いた時である。

悲嘆にくれる母の姿に、伸一は、残酷な戦争への激しい憤怒が込み上げてきた。とともに、子を思う母の愛の深さを、まざまざと感じ、兄の分まで自分が母孝行しなくてはと、固く心に誓った。


太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

不可能への挑戦 五段円搭

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 20p

9月5日、山本伸一は、東京・八王子市にある創価大学の中央体育館にいた。’76東京文化祭に出席していたのである。「創価桜」と題した第一景で、伸一が作った詩「母」に曲をつけた、「母」の歌が流れた。ピアノとマリンバを演奏しているのは、「母」の作曲者の植村真澄美と松山真喜子である。

彼は、胸に込み上げる熱いものを感じながら、日本中、そして、世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げた。とともに、彼の母である幸を思い、心で題目を唱えた。実は、この日、老衰のために床に就いていた母の容体があまり思わしくないとの連絡があったのである。

2か月余り前、母は、一度、危篤状態に陥った。しかし、奇跡的に一命を取り留めた。母は、伸一にきっぱりと、「私は、大丈夫。皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」

東京文化祭は、男子部による組体操「青年の譜」が始まった。組体操の圧巻ともいうべき、5段円搭への挑戦が始まった。5段目の一人が立ち上がりかけた。その時、円筒は、崩れ落ちた。
5段円搭の演技指導責任者石上雅雄は、頭が真っ白になった。

学会の文化祭で、5段円搭は何度かつくられていたが、準備に約1か月は要してきた。しかし、今回は、わずか5日しかない。まさに、不可能への挑戦であった。

石上は、在日二世として、東京で生まれ育った。物心ついたころから、何度となく、理不尽な差別を受けてきた。小学生時代に入った少年野球チームの監督が学会の男子部員であった。監督だけは差別したりすることはなく、石上は監督の後について学会の会合にもついていった。彼は学会が好きになり、家族全員が学会員となった。

高校時代親善試合で韓国を訪れた時、在日である自分は、日本人でも韓国人でもないと、自分の存在への疑問が芽生えた。大学3年の時、伸一に会って、その悩みを打ち明けると「君は地球人として生きなさい。広々とした心で生きるんだ。」と言われ、自分の小さな境涯が打ち破られる思いがした。

その時、"先生と共に、世界の平和と人類の幸福のために生きよう"と誓った。山本伸一が出席した文化祭の舞台で、5段円搭は完成直前に崩れたのだ。次の瞬間、"このまま、終わらせてなるものか!"皆がそう思った。石上雅雄を中心軸に、下段の20人が、スクラムを組み、再挑戦への体制がつくられていった。

4段目の3人が立ち始めた時、一人が片足を肩から滑らせた。それを手で受けとめ3段目で懸命に支えたのが森川武志であった。"立ってくれ!"と、心で叫び、唱題しながら、自分の限界に挑み続けた。"自分に挑み、自分に勝つ"それが、彼の信条であった。

彼は、何事にも自信がなかった。母親がいない。中学しか行けなかった。家が貧しかったことなどが、劣等感を募らせ、"どうせ、俺なんかだめなんだ"という思いが、いつも心のどこかにあった。

男子部の先輩が「どうして君は、人と比べて、自分はだめだとか、不幸だとか、考えるんだ!結局、それは、見栄があるからだよ。君は、なんのために信心しているんだ。誰も、君の代わりはできない。この世の中に、たった一人しかいない、かけがえのない存在なんだ!

要は、自分の大生命を開けばいいんだ。挑戦すべきは、人に対してではない。自分自身に対してだ。自分に勝っていくんだよ。君自身の使命に生き抜いていくんだ!」森川は"その通りだ"と思った。以来、彼は、自分に挑み、自分に勝つことを目標に、すべてに挑戦してきた。そして、自分をさらに、磨き、鍛えようと、東京文化祭に勇んで出演したのである。

円搭の頂で、青年は、体を伸ばした。胸を張った。そして、大きく両手を広げた。立った!奇跡は起こった!二度目の挑戦という、著しく体力を消耗し、疲弊しきった体で、見事に、5段円搭を組み上げたのだ。

皆が、自分に挑んだ。あきらめの心に、無理だという心の弱さに、懸命に挑戦した。そして、それぞれが、自身の心の壁を破って、五段円搭は打ち立てられたのだ。



太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

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