『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 256p
ゴルバチョフ大統領は、あの“ゴルビー・スマイル”を浮かべて語った。「私は深い敬意をいだいております。会長の理念は、わたしにとって、大変に親密なものです。会長の哲学的側面に深い関心を寄せています。ぺレストロイカ(改革)の『新思考』も、会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」
大統領との会談にあたって、伸一には、一つの宿題があった。戦後45年がたとうとしているのに、ソ連の国家元首が日本を訪れたことはなく、ゴルバチョフ大統領の訪日が実現するか、注目されていたのである。この二日前に日本の国会代表団との会見が行われたが、大統領が、訪日に言及することはなかった。
伸一は、大統領に「春の桜の咲くころか、秋の紅葉の美しい季節に、必ずおいでになっていただきたい、と願っています」「ありがとうございます。私のスケジュールに入れることにします」即答であった。
大統領は「絶対に実現させます」「できれば春に日本を訪れたい」と明言した。伸一と大統領の会見は、即刻、世界に打電された。日本では、その晩から、二人の会見と「ゴルバチョフ大統領訪日」のニュースが、テレビ、ラジオで流れた。また、全国紙などがこぞって、一面で報じた。大統領は、会見の翌年1991年(平成3年)4月、約束通り、日本を訪問した。伸一は、東京・迎賓館に大統領を表敬訪問した。
1990年10月31日、山本伸一は、南アフリカ共和国の反アパルトヘイト(人種差別撤廃)運動の指導者である、アフリカ民族会議のネルソン・マンデラ副議長を迎え、会談したのである。94年には、全人種が参加して行われた南ア初の選挙で、大統領に就任することになる。
伸一は、獄中闘争に言及した。「貴殿が牢獄を“マンデラ大学”ともいうべき学習の場に変えた事実に、私は注目したい。どこにいても、そこに『教育』の輪を広げていく。人間としての向上を求めてやまない。その情熱に打たれるんです」向上への不屈の信念がある人には、すべてが学びの場となる。
伸一は、反アパルトヘイトの運動を、末永く支援する意味から、次々と提案した。それは、教育・文化交流を通して、日本と南アフリカの友好を促進するとともに、人びとの意識を啓発し、日本に、世界に、人権擁護の波を大きく広げていくことが大切であるとの、強い思いからの提案であった。人びとの意識の改革がなされてこそ、「人権の世紀」は開かれる。
山本伸一の平和をめざしての人間外交は、その後も、ますます精力的に続けれらた。1990年11月には、ナイジェリアの元国家元首のヤクプ・ゴウォン博士、ザンビアのケネス・カウンダ大統領らと相次ぎ会見した。
さらに、同月には、ブルガリアのジェリュ・ジェレフ大統領、トルコのんトルグト・オザル大統領らと、また翌年には、フィリピンのコラソン・アキノ大統領、統一ドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー初代大統領、イギリスのジョン・メージャー首相らと対話を重ねていった。
伸一が会談したのは、学術・芸術・教育関係者など多岐にわたり、しかも、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、北・中・南米、アフリカと全世界に及んでいる。1990年の12月から、翌年前半にかけて語り合った主な識者だけでも次の方々がいる。
オスロ国際平和研究所のスベレ・ルードガルド所長、カナダ・モントリオール大学のルネ・シマー副学長、米・ハーバード大学のジョン・モンゴメリー名誉教授、ユネスコのフェデリコ・マヨール事務局長、フィリピンの大学のホセ・アブエバ総長、香港中文大学の高錕学長、アルゼンチン・バレルモ大学のリカルド・ポポスキー学長らである。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
ゴルバチョフ大統領は、あの“ゴルビー・スマイル”を浮かべて語った。「私は深い敬意をいだいております。会長の理念は、わたしにとって、大変に親密なものです。会長の哲学的側面に深い関心を寄せています。ぺレストロイカ(改革)の『新思考』も、会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」
大統領との会談にあたって、伸一には、一つの宿題があった。戦後45年がたとうとしているのに、ソ連の国家元首が日本を訪れたことはなく、ゴルバチョフ大統領の訪日が実現するか、注目されていたのである。この二日前に日本の国会代表団との会見が行われたが、大統領が、訪日に言及することはなかった。
伸一は、大統領に「春の桜の咲くころか、秋の紅葉の美しい季節に、必ずおいでになっていただきたい、と願っています」「ありがとうございます。私のスケジュールに入れることにします」即答であった。
大統領は「絶対に実現させます」「できれば春に日本を訪れたい」と明言した。伸一と大統領の会見は、即刻、世界に打電された。日本では、その晩から、二人の会見と「ゴルバチョフ大統領訪日」のニュースが、テレビ、ラジオで流れた。また、全国紙などがこぞって、一面で報じた。大統領は、会見の翌年1991年(平成3年)4月、約束通り、日本を訪問した。伸一は、東京・迎賓館に大統領を表敬訪問した。
1990年10月31日、山本伸一は、南アフリカ共和国の反アパルトヘイト(人種差別撤廃)運動の指導者である、アフリカ民族会議のネルソン・マンデラ副議長を迎え、会談したのである。94年には、全人種が参加して行われた南ア初の選挙で、大統領に就任することになる。
伸一は、獄中闘争に言及した。「貴殿が牢獄を“マンデラ大学”ともいうべき学習の場に変えた事実に、私は注目したい。どこにいても、そこに『教育』の輪を広げていく。人間としての向上を求めてやまない。その情熱に打たれるんです」向上への不屈の信念がある人には、すべてが学びの場となる。
伸一は、反アパルトヘイトの運動を、末永く支援する意味から、次々と提案した。それは、教育・文化交流を通して、日本と南アフリカの友好を促進するとともに、人びとの意識を啓発し、日本に、世界に、人権擁護の波を大きく広げていくことが大切であるとの、強い思いからの提案であった。人びとの意識の改革がなされてこそ、「人権の世紀」は開かれる。
山本伸一の平和をめざしての人間外交は、その後も、ますます精力的に続けれらた。1990年11月には、ナイジェリアの元国家元首のヤクプ・ゴウォン博士、ザンビアのケネス・カウンダ大統領らと相次ぎ会見した。
さらに、同月には、ブルガリアのジェリュ・ジェレフ大統領、トルコのんトルグト・オザル大統領らと、また翌年には、フィリピンのコラソン・アキノ大統領、統一ドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー初代大統領、イギリスのジョン・メージャー首相らと対話を重ねていった。
伸一が会談したのは、学術・芸術・教育関係者など多岐にわたり、しかも、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、北・中・南米、アフリカと全世界に及んでいる。1990年の12月から、翌年前半にかけて語り合った主な識者だけでも次の方々がいる。
オスロ国際平和研究所のスベレ・ルードガルド所長、カナダ・モントリオール大学のルネ・シマー副学長、米・ハーバード大学のジョン・モンゴメリー名誉教授、ユネスコのフェデリコ・マヨール事務局長、フィリピンの大学のホセ・アブエバ総長、香港中文大学の高錕学長、アルゼンチン・バレルモ大学のリカルド・ポポスキー学長らである。