小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

戸田城聖

メキシコ広布の始まり

『新・人間革命』第10巻 幸風の章 P139~

1965年(昭和40年)8月17日 伸一は、日達法主とともに、メキシコに飛んだ。
伸一にとって、メキシコの訪問は、特別な意味をもっていた。戸田城聖が、逝去の直前、「伸一、昨日は、メキシコへ行った夢を見たよ、待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めて、行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に・・・」と語っていたからである。

「伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ・・・」「伸一、生きろ、うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ。」その言葉は、今も、伸一の胸にこだまし、新たなる闘志を燃え上がらせるのであった。

メキシコの人びとの幸福を願う戸田の、この強い思いが、死の直前に、メキシコに行った夢を見させたのであろう。

伸一の訪問時、メキシコ支部は、わずか26世帯。メキシコ広布は、まさに始まったばかりの時だった。
空港には、メキシコ支部長のラウロ・イワダテらが出迎えてくれた。イワダテは、メキシコの名士の一人であった。イワダテは、“世界を見てみたい”という青年らしい、大胆な発想をもって、日本を飛び出し、1、2年過ごすだけの軽い気持ちでメキシコに向かったが、ここがイワダテの人生ドラマの、終生の大舞台となったのである。

イワダテは成功するも、妬みをかい、店に放火されたり、騙されて莫大な借金をつくったり、不運に襲われる。体も壊し、“俺は、成功したかと思うと、すぐ落とし穴にはまるように、行き詰まってしまう。努力に努力を重ねても、最後は、それが実らない。なぜ、こうなってしまうんだろう”思い悩んで学会員であった親戚に、手紙を出した。

親戚から、聖教新聞や、『大白蓮華』などが送られてきて、イワダテはむさぼるように読み、そのなかで語られていた、「宿命」「福運」という言葉が、彼の胸に痛いほど響いた。そして、彼は、進んで信心を始めた。初心の功徳で以上に高かった血圧も安定し、抱えていた借金も完済することができた。

伸一一行は、イワダテの案内で、正本堂の建設の参考にしようと 丹念に市内を視察した。
伸一は、戸田城聖が夢にまで見たメキシコの街を、今、自分が、師に代わって歩いていると思うと、深い感慨を覚えた。“先生、このメキシコにも、必ず、幸福の花園をつくってまいります!”彼は、心で誓っていた。

夜、イワダテの家で、座談会が行われ、イワダテの妻のチサコがメキシコ支部の婦人部長に任命された。この婦人部の人事には、メキシコに広布の花園を開かんとする、伸一の願いがこめられていた。

さらに、男子部の責任者として、中田恒光が紹介された。彼は、21歳。3か月前にメキシコに渡ってきたばかりであった。

彼は、山本会長の「青年よ世界の指導者たれ」の指導を読み、自分もいつか海外に雄飛したいと夢を持つ。そんなある日、知人から メキシコの会社で働いてみないかとの話がもちかけられ、英語もスペイン語も全くできなかったが、即座に行くことを決めたのだった。彼は、御本尊の功力を実感した。

しかし、実際に生活を始めてみると、言葉の壁はもちろんのこと、海抜1,200mを超す高地にあるメキシコ市は、少し走ると、呼吸も苦しくなり、めまいに襲われた。また、会社の経営状態はひどく、半ば倒産状態で、給料さえも満足に支払われなかった。住まいは、社長の自宅の物置であった。

日本に帰ろうと思ったが、そんな彼をとどまらせたのは、「8月に山本先生が来てくださるよ!」という、イワダテ支部長の言葉であった。


太字は 『新・人間革命』第10巻より 抜粋

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人間革命執筆開始の決意

『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P376~

公明党のめざす政治がいかなるものかを、人びとに正しく理解してもらうのは、決して、容易ではないはずである。たとえば、結党宣言や綱領にうたっている、「王仏冥合」や「仏法民主主義」という言葉にしても、人びとの理解を得るには、長い歳月を必要とするに違いない。

「王仏冥合」とは、一切衆生の幸福を願う仏法の慈悲や、生命の尊厳の哲理を根底にした政治であり、宗教が直接、政治権力に関与していうことでは、決してない。しかし、「王仏冥合」といっても、「祭政一致」「政教一致」と同じように考え、古代の女王卑弥呼や戦前の国家神道と軍部政府の関係を連想する人がほとんであった。

学会と公明党の関係を、いかに訴えても、マスコミ関係者の多くは、どうしても自分たちの先入観から、脱却できなかったようだ。たとえば、「朝日新聞」には、「公明党の発足に望む」と題する社説では、「『王仏冥合』が結局は特定の信仰の政治的強制につながりはしまいか、などの疑問が起こる」としている。

何を根拠に、「王仏冥合」が「特定の信仰の政治的強制」につながるというのか、それこそ疑問だが、これが当時の社会の認識であったのである。理念なき、哲学なき世辞が、「常識」となってしまった日本にあっては、政治の根底に指導理念が必要であるという「常識」さえ、通じなかったのである。

1946年12月山本伸一は沖縄訪問をする。今回の訪問では、伸一は密かに心に決めていた仕事があった。
12月2日朝から、沖縄本部の二階の和室で、机に向かう伸一。彼は、この日、この朝、小説『人間革命』の筆を起こそうと心に決め、この沖縄にやって来たのである。

思えば、伸一が、戸田の生涯を書き残そうとの発想をもったのは、19歳の時であり、入会して3か月過ぎたころであった。軍部政府の弾圧と戦い、投獄されても、なお信念を貫き、人民の救済に立ち上がった戸田城聖という、傑出した指導者を知った伸一の感動は、あまりにも大きかった。

伸一は、“わが生涯の師と定めた戸田先生のことを、広く社会に、後世に、伝え抜いていかなくてはならない”と、深く深く決意していた。その時の、炎のごとき思いは、生命の限りを尽くして、師弟の尊き共戦の歴史を織り成していくなかで、不動の誓いとなっていくのである。

彼は、戸田が妙悟空のペンネームで、聖教新聞に連載することになった、小説『人間革命』の原稿を見せられた時、“いつの日か、この続編ともいうべき戸田先生の伝記を、私が書かねばならない”と直感したのであった。

さらに、戸田と一緒に、師の故郷の北海道・厚田村を訪ねた折、「厚田村」と題する詩をつくった。その時、自分が“戸田先生の伝記を、必ず書き残すのだ”と改めて、心に誓ったのである。それから、3年後、師の逝去の8か月前、軽井沢で、戸田の小説『人間革命』が話題になった。

戸田は、照れたように笑いを浮かべて言った。「牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先にたってできないということだよ」その師の言葉は、深く、強く、伸一の胸に突き刺さった。

伸一は、この軽井沢での語らいのなかで、広宣流布に一人立った、その後の戸田の歩みを、続『人間革命』として書きつづることこそ、師の期待であると確信したのである。そして、1964年(昭和39年)4月の戸田の七回忌法要の席で、いよいよ小説『人間革命』の執筆を開始することを、深い決意をもって発表したのである。

法悟空のペンネームで、伸一がつづる、この『人間革命』は、聖教新聞からの強い要請もあって、明65年の元日付から、聖教紙上に連載されることになった。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

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ベートーベン 「交響曲第9番」

『新・人間革命』第5巻 歓喜の章 P119~

チューリッヒを発ち、オーストリアのウイーンに到着した、山本伸一一行。
絨毯やシャンデリアなどの買い付けにでかけたり、大客殿に埋納するドナウ川の石を採取した。

ウィーンの中央墓地に立ち寄り、ベートーベンの墓の前にたたずむ。
ベートーベンほど、多くの苦悩と戦い、壮大な精神の勝利を収めた音楽家はいないだろうと思う。

音楽家として、聴覚を失うという死を意味するに等しい苦悩に自殺も考えたベートーベン。
しかし、彼は負けなかった。絶望の闇のなかに、使命の光を見いだしていく。

彼は作曲に挑戦の炎を燃やし、次々と傑作を世に送り出し、名声を博す。
しかし、王侯・貴族にへつらうことを嫌った彼は、経済苦など、生活上の苦労が絶えなかった。

その後も、スランプや 弟の死、恋愛の破局など苦しみが怒涛のように彼を襲った。
そうした苦悩に次ぐ苦悩の激浪を見にうけながら、「交響曲第9番」に取り組んでいくのである。

「第9」のラストでは 大衆の歌声“歓喜の歌”を響かせ、歓喜の渦の中でのクライマックスを迎える。

「第九」は、時代の闇を突き抜けた、自由と民主の光彩。精神の英雄の凱歌。人類の交響曲。
未来に永遠の響きを放つ、“希望の曲”であった。

56歳で亡くなるまで、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」という彼の言葉通りの生涯であった。

本伸一にとって、ベートーベンの音楽は、彼の青春の曲であり、魂の調べであった。
なかでも、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」と呼びかけるかのような「第九」は、どれほど彼の魂を燃え上がらせたか、計り知れない。

師匠の戸田が、最大の窮地に立たされ、土下座する光景を目の当たりにしたこともあった時、その悔しさ、悲しさを伸一は決して忘れることはできなかった。

戸田がともした、広宣流布という民衆救済の火を絶やさぬために、彼は走りに走った。

苦闘のなかで、後継の弟子としての自己の使命を自覚していた。そして、
その使命に生き抜こうと決意した時、彼は、苦悩の雲を破って、歓喜の太陽が胸中に昇りゆくのを感じた。

ある時、伸一は、戸田に「これほどの苦難に遭われながら、いつも堂々としていらっしゃいます。他の人ならば、おそらく自殺をしているにちがいありません」と感服すると話した。

戸田は、
「夜も眠れぬほど、悩み考えている。ただ、負けるわけにはいかないだけだ。
 それに、ぼくには、君がいる。本当の弟子がいる。
 だから、何があっても、最後は安心していられるのだよ」

その言葉は深く伸一の胸を射た。熱い感動が全身に走った。
弟子として俺ほどの栄誉はなかった。

戸田は静かに言葉をついだ。
「もし、ぼくが、人より多少は強い精神の持ち主のように見えるとしたら、それは、戦争中に牢獄のなかで、自分の使命を知ったからだね。使命を知るとは、自分の生涯を捧げて悔いない道を見つけたということだ。そうなれば人間は強いぞ。恐れも不安もなくなる。」

獄中での唱題が200万遍に達するころ、彼は法華経の真意を悟り、地涌の菩薩として自分がこの世ではたすべき大使命を知ったのであった。

「これで俺の一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!」それは、同時に、戸田城聖という一人の人間が、万人に人間革命の道を開いた瞬間でもあった。

苦悩を離れて、人間はない。苦悩するがゆえに人間である。その苦悩に挑み、乗り越えていくところに、真実の人間の偉大さがあり、ヒューマニズムの勝利がある。

山本伸一は、ベートーベンの墓碑の前にたたずみながら思った。
“わが学会のリーダーとして、万人の幸福と世界の平和を実現しなければならない自分の人生は、苦悩の連続であろう。しかし、私は、敢えて、その道を征こう。戸田先生の誉れある弟子なれば・・・”

伸一は、苦悩を突き抜けて歓喜へと至る、あのベートーベンの「第九」も、この仏法の大原理の一次元を、表現したものではないかと思えてならなかった。




太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

創価学会組織に流れる信心の血脈

『新・人間革命』第4巻 凱旋の章 P90~


群馬県桐生市に生む宮田は 古くからの日蓮正宗の信徒であったが、
脊椎カリエスで悩んでいた。
戸田から、宿命転換のためには 折伏が大切であると指導を受け、
広宣流布に生きる決意を固めた。


彼は、日蓮正宗寺院の信徒と、学会員で構成した「正法会」という組織を立ち上げ、
会長となった。


戸田城聖が、創価学会第二代会長に就任するにあたり、就任式への参加を促す
ハガキを受け取った。しかし、「正法会」では、
「同じ御本尊を拝んで、同じように折伏している。我々は、我々で頑張ればよいのではないか」
と言って 誰も就任式に参加しようというものはなかった。


戸田城聖は「今、この戸田とともに旗揚げすることができなければ、一生、
後悔することになる。」と何度も 連絡するよう伝えたが、返事はなかった。


宮田は、戸田を尊敬し、感謝もしていたし、戸田に反発しているつもりもなかった。
しかし、広宣流布の使命を自覚した戸田の獄中の境涯も、
仏意仏勅による創価学科の組織の意味も わからなかった。


つまり、まことの「信心の血脈」がわからなかったのである。


「正法会」のメンバーには、“自分たちの組織も発展してきたのだから
学会と同じことができる。なにも、学会に入り、戸田に指導を仰ぐ必要などない”
という思い上がりが生じていたのである。


だが、やがて「正法会」には、ほころびが出始めていった。

「正法会」の雰囲気は、暗く、重苦しいものになっていった。
功徳の体験も聞かなくなった。


宮田は焦り始めた。
“何かが、違う。どこかがおかしい・・・”
彼は神経をすり減らし、体調も崩してしまった。


そのころ、「正法会」の青年部長の寺田が 創価学会の会合に参加した。
寺田は会合の迫力、明るさに圧倒され、宮田に報告した。


戸田の言った意味が わかりかけてきた宮田は「やはり広宣流布は、戸田先生にしか
できないことなのだろう。決して、私が考えていたような、甘いものではなかった。」 
と、繰り返しのつかない失敗をしてしまったことに気づく。


「正法会」の会長の宮田は 会のメンバーに創価学会に入会することを伝えた。
副会長らは 寺の住職らと新たな会の結成に着手し、メンバーが 学会に行くのを、
躍起になって阻止しようとした。

しかし、最終的には 100人余りが 学会員となった。

以来、黙々と信心に励む宮田は、学会を深く知るにつれ、その不思議さを実感していった。

そして、戦時中、宗門が軍部政府の弾圧を恐れ、謗法にまみれていくなかで、
正法正義を守り、初代会長牧口常三郎が殉教していったことの重さを、
ひしひしと感じた。また、その弟子の戸田が獄中にあった、法華経を身読し、
地涌の菩薩の使命を悟り、ただ一人、広宣流布に立ち上がったことの偉大さに、
深い感動を覚えるのであった。


宮田は、創価学会こそ日蓮大聖人の「信心の血脈」を受け継ぐ、唯一の
仏意仏勅の教団であることを 命で感じていった。


さらに、戸田の獄中の悟達に発する、不惜身命の実践と大確信が、
学会の精神の基軸となっているからこそ、金剛不壊の団結があることに気づいた。

また、その戸田がいてこそ、初めて広宣流布が成し遂げられることを確信したのである。

後に、宗門の一部僧侶による、学会への理不尽な攻撃が続いた時、
宮田は真実がわからず、心が揺れる人びとの家を訪ねては、懸命に学会の正義を訴えぬいた。

彼には、かつて、自分が犯してしまった過ちを、
絶対に、同志たちに繰り返させてはならないという、
人一倍、強い思いがあったにちがいない。


ともあれ、こうしたいきさつから、桐生は、草創期にあって、戸田が指導に力を注いだ
地域であったにもかかわらず、広宣流布は紆余曲折をたどらなけらばならなかったのである。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

組織とは

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P264~

山本伸一の宿泊するカルカッタのホテルに 戸田が懇意にしていた実業家が訪ねてきた。
戸田の思いで話をする彼は、戸田が創価学会を組織化したことをほめる。

これからは 組織の時代であるから、学会を組織化したことで学会は 発展したと話す。


伸一は、
「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。」と話す。


「組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、
組織化すれば、すべてうまくいくかといえば、逆の面もあります。
組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです。」


「組織というのは 人間の体にたとえれば、骨格のようなものではないでしょうか。
必要不可欠なものですが、それだけでは血は通いません。」


「戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、
 人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。
 具体的にいえば、会員一人ひとりへの励ましであり、指導です。」


「苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、
 信心によって立ち上がることができたという事実ーこれこそが学会の発展の源泉です。」


「同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。
 先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、
 皆に深い尊敬の念をいだかせていたんです。」


「ゆえに、それぞれが、戸田先生を自身の師匠と決めて、
 喜々として広宣流布の活動に励んできたんです。」


「ですから、もしも、戸田先生が会長をお辞めになっていても、先生は常に皆の先生であり、
 仏法の指導者であり、人生の師であったはずです。」


実業家は、驚いたように伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、静かな声で言った。
「確かにそうかもしれない。私も、学会のことはよくわかっているつもりでいたが、
 そこまではわからなかった。」
「正直なところ、私だって嫉妬したいくらいだ。今の世の中、金の力で動かせぬもはない。
 しかし、学会は、金の力なんかではびくともしない。
 偉大な精神の世界をつくってしまったんだから・・・」


「こんなことは、誰もできやしないだろう。だから、ほかの勢力にしても、
 また、為政者にしても、悔しいし、怖いようにも感じるのだろうね。」


「もう一つ、戸田さんのすごさは、あなたという後継者を育てたことではないかと思う。」
「あなたのような後継者をもった戸田さんがうらやましい。いや実にうらやましい・・・。」
この実業家は伸一と二時間ほど懇談すると、「勉強になった。ありがとう」と言い残して、
ホテルの自分の部屋に帰って行った。


太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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