小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

慈悲の医師

現代の四条金吾 ドクター部

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 319p 

四条金吾の生き方に一貫しているのは、勇気と誠実であった。不誠実は、人の信頼を裏切るばかりでなく、自身の心に、悔恨の暗い影を残す。誰に対しても、何事に対しても、自分は誠実に行動し抜いたと、晴れやかに胸を張れる、日々の生き方のうえに、人生の勝利はある。

「2月騒動」が起こった文永9年2月、日蓮大聖人は流罪の地・佐渡にあって、人本尊開顕の書である「開目抄」を著される。四条金吾は、大聖人の安否を気遣い、心を痛め続けてきた。そして、供養の品々を、佐渡に大聖人のもとに送った。大聖人は、その使者に「開目抄」を託されたのである。

烈々たる御本仏の大確信と御決意が綴られた「開目抄」を、四条金吾は、感涙にむせび、身を震わせながら、拝したにちがいない。「開目抄」をいただいた四条金吾は、はるばると山海を越えて、鎌倉から、佐渡の大聖人を訪ねた。

込み上げる歓喜に、居ても立ってもいられなかったのだ。主君に仕える身でありながら、流罪された大聖人を訪ねることは、容易なことではなかったはずである。大難という烈風は、欺瞞の信仰者の仮面をはがす、誰が、真の信仰者か、本当の弟子かを明らかにしていくものだ。

自分という存在の、最も根源的な意味は、末法の一切衆生を救済するために出現した地涌の菩薩であるということだ。それが法華経の思想である。武士であることも、医術に秀でていることも、自分が本源的な使命を果たしていく、一つの側面にすぎない。

どんなに称賛されようが、地涌の菩薩としての広宣流布の使命を忘れ去ってしまえば、所詮は、砂上の楼閣を築いているにすぎない、本末転倒の人生である。大事なことは、広宣流布に生き抜き、そして、武士や医師としても、人格、技量ともに立派であると言われる人になっていくことである。

現代でいえば、創価学会員として胸を張り、その使命に生き抜き、それぞれの道にあって、称賛を勝ち取ることができるかどうかが、勝負となるのだ。

ビクトル・ユゴーは、こう記している。「戦闘の最後の勝利は、つねにもぎとるようにしてかちえられるものなのだ」

大聖人は持続の信心を強調されている。将来、四条金吾の身に迫害が起こることを、予見されていたかのように、信心を貫き通すことを訴えられたのである。

四条金吾は、主君の江間氏を折伏する。そのため、四条金吾の忠義から発した折伏は、主君の不興を買い、さらには、同僚からも迫害されることになる。江間氏は四条金吾に、「法華経の信仰を捨てるという起請文を書け。さもなくば、所領を没収する」と迫ったのである。

所領を没収されたならば、武士としての暮らしは成り立たない。一家一族が路頭に迷うことになる。しかし、彼は屈しなかった。彼が決意の手紙を送ると、直ちに大聖人から返信が届いた。その冒頭には「仏法は勝負」であることが述べられていた。正法を持った者は、最後は必ず勝たねばならない。そこに仏法の正義の証明があるからだ。

江間氏は、やがて悪性の流行病にかかり、四条金吾が治療に当った。誠心誠意、全力を尽くし、主君の病は快方に向かい、勘気も解けたのである。彼は、主君の出仕の列にも加えられるようになり、以前の三倍の所領を与えられる。彼の人生の海原に、勝利の太陽は燦然と昇ったのだ。

現代の四条金吾ともいうべき勇者たちーーそれがドクター部である。ドクター部の第三回総会で伸一は「医学と仏法」の関係について言及していった。「『医学』は、病気の原因を客観的に認識し、治療していくのに対して、『仏法』は、病の根底にある生命そのものを把握し、そこから、病気の原因をとらえ、変革していく立場であります」

そして、伸一は「崇峻天皇御書」の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」の一節を拝した。巨額の富も、使えばいつかなくなるし、災害などで、一瞬にして失ってしまうこともある。しかし、健康でさえあれば、また働いて、富を手に入れることができる。

だが、「身の財」である肉体も、やがて老い、病にもかかる。「身の財」も永遠ではない。人間の幸福のために、最も必要不可欠なものは「心の財」である。

「心の財」は、今世限りではない。三世にわたり、永遠にわが生命を荘厳していく。それはまた、「蔵の財」「身の財」をもたらす源泉ともなる。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

命宝を守るドクター部結成

『新・人間革命』第22巻 命宝の章 307p 
<命宝の章 開始>

この世で元も尊厳な宝は、生命である。それゆに「命宝」と言う。生命を守ることこそ、一切に最優先されなければならない。本来、国家も、政治も、経済も、科学も、教育も、そのためにこそ、あるべき者なのだ。「立正安国」とは、この思想を人びとの胸中に打ち立て、生命尊重の社会を築き上げることといってよい。

1975年(昭和50年)9月15日、山本伸一は、ドクター部の第3回総会に出席した。仏法を根底にした「慈悲の医学」に道を究め、人間主義に基づく医療従事者の連帯を築くことを目的として、1971年9月に発足した部である。

このころ、医療保険の改正をめぐって厚生省と日本医師会の対立が続いていた。医療費が急増し、その大部分は、薬代、注射代などが占めていて、医師の医療技術は、ほとんど評価されず、薬漬け、検査漬けと言われる医療を加速させていた。

厚生省は、打開策として、医療費はそのままに、診療報酬体系の見直しを図る。医師会は「医師の犠牲のもとに低医療費政策を押しつけるもの」として猛反発し、保険医総辞退の方針を決議。おおくのサラリーマン家庭が一時、医療費の全額立て替え払いを余儀なくされ、新料金との差額が 患者の自己負担となった。それにより、医療費が払えず、治療を中断したり、自殺する人が出るなどがおこる。

保険医辞退は、1か月で終わったが、医師会と厚生省の対立は続いていた。伸一はそうした状況を見ながら、医師の良心という問題を考え、"人命を預かる医師という仕事は、聖職である。医師が生命の尊厳を守ろうとする信念をもち、慈悲の心を培うことこそ、再重要のテーマではないか・・・"山本伸一はドクター部の結成を提案した。

伸一は、本来、医療の根本にあるべきものは「慈悲」でなければならないと考えていた。「慈悲」とは、抜苦与楽ということである。一切衆生を救済せんとして出発された、仏の大慈悲に、その究極の精神がある。医療従事者が、この慈悲の精神に立脚され、エゴイズムを打ち破っていくならば、医療の在り方は大きく改善され、「人間医学」の新しい道が開かれることは間違いない。いわば、医療従事者の人間革命が、希望の光明となるといってよい。

ドクター部では、その伸一の激励に応えるために、自分たちに何ができるのか、協議を重ねた。そして、住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」を組織し、医師のいない地域などに、派遣することにしたのである。

「黎明医療団」は各地に赴き、無料健康相談を重ねていった。その数は10年間で、120回に達している。この活動には、学会のドクター部以外の医師たちも、共感、賛同し、加わるようになっていった。ドクター部のメンバーは、自分たちの進めている運動に、自身と誇りをもち、なぜ、「黎明医療団」を組織し、無料健康相談を行うのかを、語っていったのだ。

慈悲の医学の体現者たる使命を自覚した、ドクター部員の活躍は目覚ましかった。それぞれの職場にあって、各人が人間的な医療の在り方を探求していった。体に負担の少ない治療法の研究に取り組む人もいれば、病院の環境改善に力を注いだ人もいた。さらに、健康セミナーの講師や、仏法と医学についての講演なども積極的に引き受け、地域にも、広宣流布の運動にも大きく、貢献していった。

医学は諸刃の剣ともなる。多くの人びとの生命を救いもするが、副作用をはじめ、さまざまな弊害を生みもする。特に医師をはじめ、医学にかかわる人たちが、誤った生命観に陥れば、医療の大混乱を招くことにもなりかねない。それだけに、正しい生命観を極めていくことは、必要不可欠な意思の要件といえよう。

「医学の分野に、慈悲の赫々たる太陽光線を差し込む作業は、単なる社会の一分野の改革にとどまるものではない。生命を慈しみ、育て、羽ばたかせる思想が、人びとの心の隅々にまで染み込んだ時に、初めて現代文明が、機械文明から人間文明へ、物質の世紀から生命の世紀へと転換され、人類が光輝ある第一歩を踏み出すのであります」

"ドクター部よ、現代の四条金吾たれ!"それが、伸一の心からの叫びであった。

太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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