『新・人間革命』第14巻 大河の章 P353~
1970年(昭和45年)9月28日東京・信濃町に完成した聖教新聞社の新社屋落成式が行われた。
聖教新聞は、この前日27日付で、ちょうど3000号となり、発行部卯も400万部を超え、当時、既に、朝日、読売、毎日の三大紙に続く存在になっていた。
伸一は、出迎えた職員の代表に言った。「見事な言論の城が完成したね。心も一新して出発しよう。日々、自分の惰性を打ち破っていくことが、良い新聞をつくる最大の要件だ。一日一日が戦いだよ。人間はもうこれでよいのだと思い、挑戦の心を忘れた瞬間に惰性になり、保守になる。前進、前進、前進なんだ。」
"無冠の王者"伸一はかつて、この言葉を聖教新聞の関係者に贈った。そこには、権威も名声も求めることなく、いかなる権力も恐れず、民衆のために果敢に戦う勇者たれとの、彼の熱い期待が込められていた。
新聞人は、"無冠の王者"として、民衆のために立ち上がり、民衆とともに戦わなければならないというのが、伸一の信念であった。
伸一は、創刊当時に思いを馳せながら、新聞社の幹部たちに言った。「あの市ヶ谷ビルの狭い一室で、新聞をつくっていたころの苦労を忘れてはいけない。環境が整えば整うほど、創刊の頃の精神を、常に確認し合っていくことが大事ではないだろうか。」
伸一は、館内を巡りながら、師の戸田城聖と聖教新聞を創刊するに至った日々が、昨日のことのように、思い起こされてならなかった。
聖教新聞の創刊は、戸田が事業の失敗という窮地を脱し、第二代会長に就任する直前の、1951年4月20日である。
戸田が、自分が経営の指揮をとってきた信用組合の営業停止の影響が、学会に及ぶことを憂慮し、学会の理事長の辞任を発表した時、伸一に、広宣流布の壮大な展望を語り、確認するように、「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」と言った。
2月に新聞を出すことを宣言し、慌ただしく準備が始まった。種々検討を重ねて、結局、「聖教新聞」と名前が決まった。そこには、大宇宙の根本法たる仏法を、世界に伝えゆく新聞をつくるのだという、戸田の心意気がみなぎっていた。
新宿百人町にあった大東商工の事務所が聖教新聞創刊号の編集作業室にあてられた。この編集室で戸田は、すさまじい勢いで健筆を振るった。
山本伸一も創刊以来、懸命に筆を執った。戸田から、途中まで書かれた小説『人間革命』の原稿を渡され、「あとは君が書きなさい」と言われたこともあった。それは、戸田に代わって、伸一が戸田の思想と哲学を、後世につたえていくための訓練でもあった。
まさに、師弟共線のなかで、聖教新聞は誕生し、黄金の歴史を刻んでいったのである。伸一は、マスコミ各紙に誤解に基づく中傷や誤報があれば、すぐに関係者に会って、その誤りを正した。
時には、誤報や悪質なデマを打ち破るために、自ら勇んで正義の論陣を張った。広宣流布は言論戦である。横行する「悪」を見ながら、沈黙し、放置しておけば、「悪」は際限なく増長する。「正義」なれば、断じて「悪」と戦い、勝たねばならない。「正義」が敗北すれば、民衆が深い闇の底に突き落とされることになる。
戸田城聖も、山本伸一も"聖教新聞は、わが愛する同志への手紙だ"との思いで、生命を刻みつけるように、原稿を書きつづっていた。
「この新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい」というのが戸田の決意であったが、彼は、創刊5周年を迎える56年の年頭から、アジア諸国の指導者に、聖教新聞の贈呈を開始している。インドのネルー首相、フィリピンのマグサイサイ大統領、中国の毛沢東主席と周恩来総理など、10氏であった。
戸田は、聖教新聞をもって、東洋の平和と友好の道を開こうと考えていたのだ。
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋
1970年(昭和45年)9月28日東京・信濃町に完成した聖教新聞社の新社屋落成式が行われた。
聖教新聞は、この前日27日付で、ちょうど3000号となり、発行部卯も400万部を超え、当時、既に、朝日、読売、毎日の三大紙に続く存在になっていた。
伸一は、出迎えた職員の代表に言った。「見事な言論の城が完成したね。心も一新して出発しよう。日々、自分の惰性を打ち破っていくことが、良い新聞をつくる最大の要件だ。一日一日が戦いだよ。人間はもうこれでよいのだと思い、挑戦の心を忘れた瞬間に惰性になり、保守になる。前進、前進、前進なんだ。」
"無冠の王者"伸一はかつて、この言葉を聖教新聞の関係者に贈った。そこには、権威も名声も求めることなく、いかなる権力も恐れず、民衆のために果敢に戦う勇者たれとの、彼の熱い期待が込められていた。
新聞人は、"無冠の王者"として、民衆のために立ち上がり、民衆とともに戦わなければならないというのが、伸一の信念であった。
伸一は、創刊当時に思いを馳せながら、新聞社の幹部たちに言った。「あの市ヶ谷ビルの狭い一室で、新聞をつくっていたころの苦労を忘れてはいけない。環境が整えば整うほど、創刊の頃の精神を、常に確認し合っていくことが大事ではないだろうか。」
伸一は、館内を巡りながら、師の戸田城聖と聖教新聞を創刊するに至った日々が、昨日のことのように、思い起こされてならなかった。
聖教新聞の創刊は、戸田が事業の失敗という窮地を脱し、第二代会長に就任する直前の、1951年4月20日である。
戸田が、自分が経営の指揮をとってきた信用組合の営業停止の影響が、学会に及ぶことを憂慮し、学会の理事長の辞任を発表した時、伸一に、広宣流布の壮大な展望を語り、確認するように、「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」と言った。
2月に新聞を出すことを宣言し、慌ただしく準備が始まった。種々検討を重ねて、結局、「聖教新聞」と名前が決まった。そこには、大宇宙の根本法たる仏法を、世界に伝えゆく新聞をつくるのだという、戸田の心意気がみなぎっていた。
新宿百人町にあった大東商工の事務所が聖教新聞創刊号の編集作業室にあてられた。この編集室で戸田は、すさまじい勢いで健筆を振るった。
山本伸一も創刊以来、懸命に筆を執った。戸田から、途中まで書かれた小説『人間革命』の原稿を渡され、「あとは君が書きなさい」と言われたこともあった。それは、戸田に代わって、伸一が戸田の思想と哲学を、後世につたえていくための訓練でもあった。
まさに、師弟共線のなかで、聖教新聞は誕生し、黄金の歴史を刻んでいったのである。伸一は、マスコミ各紙に誤解に基づく中傷や誤報があれば、すぐに関係者に会って、その誤りを正した。
時には、誤報や悪質なデマを打ち破るために、自ら勇んで正義の論陣を張った。広宣流布は言論戦である。横行する「悪」を見ながら、沈黙し、放置しておけば、「悪」は際限なく増長する。「正義」なれば、断じて「悪」と戦い、勝たねばならない。「正義」が敗北すれば、民衆が深い闇の底に突き落とされることになる。
戸田城聖も、山本伸一も"聖教新聞は、わが愛する同志への手紙だ"との思いで、生命を刻みつけるように、原稿を書きつづっていた。
「この新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい」というのが戸田の決意であったが、彼は、創刊5周年を迎える56年の年頭から、アジア諸国の指導者に、聖教新聞の贈呈を開始している。インドのネルー首相、フィリピンのマグサイサイ大統領、中国の毛沢東主席と周恩来総理など、10氏であった。
戸田は、聖教新聞をもって、東洋の平和と友好の道を開こうと考えていたのだ。
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋