『新・人間革命』第26巻 奮迅の章 343p~
伸一は、学会伝統の、"一段とび指導"について言及していた。「活動の軸となるリーダーを育成、強化し、組織を発展させる原則として、"一段とび指導"は大事な観点といえます。ともあれ、誰が責任をもって後輩を指導し、育んでいくかを、明確にすることが大事です。指導、激励の網の目からこぼれてしまう人を出しては絶対になりません」
支部という活動推進の大切な要となる組織のリーダーとして、広宣流布を担っている支部長、支部婦人部長の苦労は、並大抵のものではあるまい。しかし、一生成仏に至る仏道修行が、容易ではあろうはずがない。
「皆さんの組織のなかには、愚痴や文句ばかり言う方もいるでしょう。入会しているのに、学会に反感をいだいている方もいるかもしれない。また、なかなか、こちらの誠意が通じない方もいるでしょう。なかには、隣近所や一族からも疎んじられている、孤独な方もいるかもしれない。
そのなかで、わが地域に仏法の人間共和の都をつくろうと、広宣流布の指揮を執る皆さんのご苦労を、私はよくわかっているつもりです。その方々を、三世十方の諸仏が守護しないわけがない」参加者は伸一の大確信に触れ、込み上げる歓喜のなか、新しき法戦への決意を固めた。
2月1日山本伸一は、3月末に落成する、荒川区町屋の荒川文化会館周辺を車で視察した。同乗していた幹部が、伸一に尋ねた。「先生は、昭和32年の夏季ブロック指導で荒川を担当し、わずか1週間で区の会員世帯の1割を超える二百数十世帯の弘教を成し遂げられました。その戦いの原動力は、なんだったんでしょうか」
山本伸一は、言下に答えた。「みんなに、絶対にしあわせになってもらいたいという一念です。あのころ、どの人も貧しく、失業や病、家庭不和など、さまざまな悩みを抱え、宿命に押しつぶされそうだった。それを打ち破り、宿命を転換していく道は、皆が地涌の使命を自覚し、広宣流布の戦いを起こす以外にないーー私は、同志と会っては、そのことを叫び抜いたんです。
期間は短かったが、皆が、"この戦いで、弘教を成し遂げ、悩みを乗り越えてみせる"と懸命に唱題した。勇気をもってぶつかり、必死になって戦った。誰かに言われての戦いではなく、自身の生命のうちから噴き上がる闘魂の実践になっていったんです。
学会の勝利の歴史といっても、同志が仏法への確信を深め、歓喜と幸せを実感してこその勝利であることを、リーダーは決して忘れてはならない」
「さらに、私が荒川区で力を出し尽くすことができた最大の理由は、"広宣流布の後事は、すべて大丈夫です"と言える拡大の実証を、戸田先生にご覧いただこうと、決意していたことです」
「あの年の夏、先生が生涯の願業とされた75万世帯達成の頂は見え始めていた。その達成は、戸田先生の人生総仕上げとなる戦いだった。なんとしてもの昭和32年中には、それを成し遂げ、先生に安心していただきたかった。そして、私は、その原動力になろうと思ったんです。
師匠の総仕上げの戦いというのは、弟子の大成を見届けることなんです。つまり、弟子が、『先生!わが勝利を、ご覧ください!』と、師匠に胸を張って報告できる実証を示すことなんです。それが師弟不二です。私は、そう心を定めたからこそ、力が出せた。勇気と知恵を沸かせることができた。
"広宣流布の師匠に応えよう!"と、弟子が燃え立つとき、師匠の師子王の生命が、わが胸中に脈打つんです。つまり、師弟不二の自覚に立てば、師と共に広宣流布の大使命を担う、久遠の自身の生命が脈動する。そこに、最大の力がみなぎるんです」
学会の草創期を担ってきた先輩幹部たちが、支部長をいかに支えるかに、勝敗の大きなカギがあると考えた伸一は、そのメンバーの集いにも、万難を排して出席するようにしていた。
2月9日には、草創の足立支部出身の代表からなる「足立会」の初会合に臨んだ。
1951年、草創の12支部がスタートした時、足立は B級支部であり会員世帯数は500であった。しかし、足立支部は、着実に弘教の力をつけ、それから1年半後には、4200世帯を超え、大支部に発展。さらに、1957年3月には、"弘教日本一"の栄冠に輝くのである。
伸一は、学会伝統の、"一段とび指導"について言及していた。「活動の軸となるリーダーを育成、強化し、組織を発展させる原則として、"一段とび指導"は大事な観点といえます。ともあれ、誰が責任をもって後輩を指導し、育んでいくかを、明確にすることが大事です。指導、激励の網の目からこぼれてしまう人を出しては絶対になりません」
支部という活動推進の大切な要となる組織のリーダーとして、広宣流布を担っている支部長、支部婦人部長の苦労は、並大抵のものではあるまい。しかし、一生成仏に至る仏道修行が、容易ではあろうはずがない。
「皆さんの組織のなかには、愚痴や文句ばかり言う方もいるでしょう。入会しているのに、学会に反感をいだいている方もいるかもしれない。また、なかなか、こちらの誠意が通じない方もいるでしょう。なかには、隣近所や一族からも疎んじられている、孤独な方もいるかもしれない。
そのなかで、わが地域に仏法の人間共和の都をつくろうと、広宣流布の指揮を執る皆さんのご苦労を、私はよくわかっているつもりです。その方々を、三世十方の諸仏が守護しないわけがない」参加者は伸一の大確信に触れ、込み上げる歓喜のなか、新しき法戦への決意を固めた。
2月1日山本伸一は、3月末に落成する、荒川区町屋の荒川文化会館周辺を車で視察した。同乗していた幹部が、伸一に尋ねた。「先生は、昭和32年の夏季ブロック指導で荒川を担当し、わずか1週間で区の会員世帯の1割を超える二百数十世帯の弘教を成し遂げられました。その戦いの原動力は、なんだったんでしょうか」
山本伸一は、言下に答えた。「みんなに、絶対にしあわせになってもらいたいという一念です。あのころ、どの人も貧しく、失業や病、家庭不和など、さまざまな悩みを抱え、宿命に押しつぶされそうだった。それを打ち破り、宿命を転換していく道は、皆が地涌の使命を自覚し、広宣流布の戦いを起こす以外にないーー私は、同志と会っては、そのことを叫び抜いたんです。
期間は短かったが、皆が、"この戦いで、弘教を成し遂げ、悩みを乗り越えてみせる"と懸命に唱題した。勇気をもってぶつかり、必死になって戦った。誰かに言われての戦いではなく、自身の生命のうちから噴き上がる闘魂の実践になっていったんです。
学会の勝利の歴史といっても、同志が仏法への確信を深め、歓喜と幸せを実感してこその勝利であることを、リーダーは決して忘れてはならない」
「さらに、私が荒川区で力を出し尽くすことができた最大の理由は、"広宣流布の後事は、すべて大丈夫です"と言える拡大の実証を、戸田先生にご覧いただこうと、決意していたことです」
「あの年の夏、先生が生涯の願業とされた75万世帯達成の頂は見え始めていた。その達成は、戸田先生の人生総仕上げとなる戦いだった。なんとしてもの昭和32年中には、それを成し遂げ、先生に安心していただきたかった。そして、私は、その原動力になろうと思ったんです。
師匠の総仕上げの戦いというのは、弟子の大成を見届けることなんです。つまり、弟子が、『先生!わが勝利を、ご覧ください!』と、師匠に胸を張って報告できる実証を示すことなんです。それが師弟不二です。私は、そう心を定めたからこそ、力が出せた。勇気と知恵を沸かせることができた。
"広宣流布の師匠に応えよう!"と、弟子が燃え立つとき、師匠の師子王の生命が、わが胸中に脈打つんです。つまり、師弟不二の自覚に立てば、師と共に広宣流布の大使命を担う、久遠の自身の生命が脈動する。そこに、最大の力がみなぎるんです」
学会の草創期を担ってきた先輩幹部たちが、支部長をいかに支えるかに、勝敗の大きなカギがあると考えた伸一は、そのメンバーの集いにも、万難を排して出席するようにしていた。
2月9日には、草創の足立支部出身の代表からなる「足立会」の初会合に臨んだ。
1951年、草創の12支部がスタートした時、足立は B級支部であり会員世帯数は500であった。しかし、足立支部は、着実に弘教の力をつけ、それから1年半後には、4200世帯を超え、大支部に発展。さらに、1957年3月には、"弘教日本一"の栄冠に輝くのである。
太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋