『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 363P~

沖縄、平尾島、長崎と進められた青年部の反戦出版は、1979年(昭和54年)には一都一道二府24県に
広がり、56巻を数えた。さらに、81年からは「戦争を知らない世代へⅡ」として、再び出版を開始。85年までには、新たに24巻が発刊され、全47都道府県を網羅するに至った。

この12年間にわたる青年の地道な取り組みによって、全80巻、3千2百人を超える人びとの平和への叫びをつづった"反戦万葉集"が完結したのである。各県の青年部は、テーマを絞り込んでいった。

和歌山県の青年部は『中国大陸の日本兵』を上梓した。"日中友好を考えるならば、たとえ目を背けたい歴史であっても、真摯に凝視しなければならない"と、青年たちは考えたのである。証言は、永久に自らの胸の内に秘めておこうと決めてきた、兵士の"忌まわしい過去"である。

取材に応じてくれた一人の元兵士は、取材を契機に、やめていた酒を飲み始め、夜ごと、苦悶の叫びをあげるようになった。彼の妻は、そのたびに馬乗りになって、彼をおさえつけなければならなかった。青年たちは加害者のもつ、心の傷の深さをあらためて知った。加害者もまた、軍国主義の被害者であることを痛感したのである。

熊本県の青年部も、加害者の側からの視点で反戦出版を行っている。残忍な行為に加担した人も、会って話を聞いてみれば、皆、好々爺であった。「出征前は、鶏一羽も殺すこともできなかった」という人もいた。"なぜ、そんな人が無感覚に人を殺せるようになってしまったのか"そこに、戦争というものの魔性の仕組みがあることに気づく。

「自分が死にたくないという本能を、逆に利用して人を殺させるのだ。ひとたび戦場に押し出されたら、もはや、その流れに逆らうことはできないものだ」そして、「戦争になってからでは遅い。その前に、戦争なんかさせないために、諸外国との友好の推進など、政治を、平和の方向に動かすことだ」というのが、青年たちの結論であった。

「青年は心して政治を監視せよ」とは戸田城聖の叫びである。メンバーは、その言葉の重さをかみしめるのであった。

外地での抑留や引き揚げを反戦出版のテーマとした県もあった。引き揚げの道もまた、悲惨であった。
満州の開拓民として入植した婦人は、突然、避難命令が出され、家財道具を売り払い、逃げた。盗賊団にも襲われた。ソ連軍の爆撃も受けた。機銃掃射の標的にもなった。ソ連軍の収容所に入ると、女性は、次々と暴行された。彼女は頭を丸坊主にし、顔に墨を塗って難を逃れた。女児を出産するが、母乳も出ず、赤ん坊は、44日目に死んだ。

舌を噛みきっても死ぬことはできなかった。彼女が九死に一生を得て、帰国したのは1946年であった。戦争の最大の犠牲者は女性と子どもである。だからこそ、女性は、平和を守るために立ち上がらなければならない。社会の主役として、正義の声をあげるのだ。

反戦出版では、子どもたちの被害に焦点を当てたものも少なくない。戦争がその国の"今"を破壊するだけでなく、"未来"をも破壊する非道な行為であることを、様々な角度から訴えている。滋賀県の青年部は、戦時中の教育者を中心に取材を進めた。

志願して予科練に入り、終戦を迎えた少年に、教師が「志願して兵隊に行った馬鹿者がいる」と冷淡に言い放った。それを聞いていた同じ予科練帰りの少年が教師に殴りかかった。信頼してくれた大人たちに裏切られた、悲憤であったにちがいない。


この軍国主義教育が行われていった時代のなかで、「教育は児童に幸福なる生活をなさしめるものを目的とする」として、教育改革を叫び続けてきたのが、牧口常三郎であり、創価教育学会であった。

反戦出版に携わった青年たちは、人びとの証言から、国家神道を精神的支柱とした軍国主義思想の恐ろしさを、痛感するのであった。守るべき中心は国民ではなく国家とし、国のために勇んで死んでいける人間をつくることが教育であったのだ。

青年たちは、この反戦出版を通して、一人ひとりの胸中に生命尊厳の哲理を確立する広宣流布こそ、恒久平和の直道であることを深く自覚していった。また、人間の生命を制御し、善の方向に変えていく人間革命なくして、平和の創造はないことを強く実感したのだ。



太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋