『新・人間革命』第22巻 命宝の章 334p
人間の本当の幸福は、蔵や身の財によって決まるものではない。心の豊かさ、強さによって決まるのだ。
どんな逆境にあろうが、常に心が希望と勇気に燃え、挑戦の気概が脈打っているならば、その生命には、歓喜と躍動と充実がある。そこに幸福の実像があるのだ。
日蓮大聖人の大境涯を知れ!また、獄中にあって「何の不安もない」「心一つで地獄にも苦しみがあります」と言い切る、牧口常三郎初代会長を思え!わが生命から込み上げてくる、この勇気、希望、躍動、充実、感謝、感動、歓喜・・・。これこそが「心の財」であり、私たちの信仰の目的も、その財を積むことにあるのだ。いわば、それは幸福感の転換であり、「幸福革命」でもあるのだ。
その「心の財」は、人びとの幸福のために、さらに言えば、広宣流布のために生きることによって、築かれるのである。
「人は、この『心の財』を積んでいくなかで、生きることの尊さを知り、エゴに縛られた自分を脱し、人びとの幸福という崇高な目的のために、生き生きと活動していくことができるのであります。しかも、こうした精神的な健康の確立が、どれほど大きな、身体上の健康回復、健康増進の力となっていくか、計り知れないものがあります。いな、心の健康なくしては、本当の健康はない。それを、広く、社会に認識させていくべきであると思うのであります」
また、伸一は、心の健康を確立していくという医学の在り方は、単に病気を治療するという"守りの医術"ではなく、健康を保持し、増進していく、"攻めの医学"の確立につながっていくと述べた。
そして、これからは、病気をしないという消極的な意味での健康ではなく、生き生きと活動し、生命が躍動しているという、積極的な意味での健康をつくりあげていくことこそが重要であり、そこに、ドクター部の使命があると力説。最後に、「『病気の医師』ではなく、『人間の医師』であっていただきたい」と呼びかけ、スピーチを結んだのである。
彼の話は、現代医学の進むべき道を示すものであった。それは、ドクター部の使命を再確認する、永遠の指針となったのである。
1975年(昭和50年)11月8日、山本伸一は、広島市にある平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の前に立った。広島市の荒木武市長らの出迎えを受け、慰霊碑に献花した伸一は、平和への深い祈りを込めて、題目を三唱した。
人間の本当の幸福は、蔵や身の財によって決まるものではない。心の豊かさ、強さによって決まるのだ。
どんな逆境にあろうが、常に心が希望と勇気に燃え、挑戦の気概が脈打っているならば、その生命には、歓喜と躍動と充実がある。そこに幸福の実像があるのだ。
日蓮大聖人の大境涯を知れ!また、獄中にあって「何の不安もない」「心一つで地獄にも苦しみがあります」と言い切る、牧口常三郎初代会長を思え!わが生命から込み上げてくる、この勇気、希望、躍動、充実、感謝、感動、歓喜・・・。これこそが「心の財」であり、私たちの信仰の目的も、その財を積むことにあるのだ。いわば、それは幸福感の転換であり、「幸福革命」でもあるのだ。
その「心の財」は、人びとの幸福のために、さらに言えば、広宣流布のために生きることによって、築かれるのである。
「人は、この『心の財』を積んでいくなかで、生きることの尊さを知り、エゴに縛られた自分を脱し、人びとの幸福という崇高な目的のために、生き生きと活動していくことができるのであります。しかも、こうした精神的な健康の確立が、どれほど大きな、身体上の健康回復、健康増進の力となっていくか、計り知れないものがあります。いな、心の健康なくしては、本当の健康はない。それを、広く、社会に認識させていくべきであると思うのであります」
また、伸一は、心の健康を確立していくという医学の在り方は、単に病気を治療するという"守りの医術"ではなく、健康を保持し、増進していく、"攻めの医学"の確立につながっていくと述べた。
そして、これからは、病気をしないという消極的な意味での健康ではなく、生き生きと活動し、生命が躍動しているという、積極的な意味での健康をつくりあげていくことこそが重要であり、そこに、ドクター部の使命があると力説。最後に、「『病気の医師』ではなく、『人間の医師』であっていただきたい」と呼びかけ、スピーチを結んだのである。
彼の話は、現代医学の進むべき道を示すものであった。それは、ドクター部の使命を再確認する、永遠の指針となったのである。
1975年(昭和50年)11月8日、山本伸一は、広島市にある平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の前に立った。広島市の荒木武市長らの出迎えを受け、慰霊碑に献花した伸一は、平和への深い祈りを込めて、題目を三唱した。
伸一は、献花台の先にある石棺に刻まれた文字を、じっと見つめた。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」実は、この碑文をめぐって、論争が繰り返されていたのである。伸一は、この碑文は、核戦争の過ちを二度と起こさないという、人類の誓いであるととらえていた。
誰が、加害者で、誰が被害者であるかを明らかにすることも必要であろう。だが、慰霊碑にとどめるべきは、平和への誓いである。また、被害者であるとの考えのみにとらわれ、加害者を糾弾しているだけでは、憎悪と報復の連鎖を繰り返すだけである。
世界の恒久平和を創造していくには、被害者・加害者という分断的な発想を転換し、地球上のすべての人が、同じ人類、世界市民としての責任を自覚することが必要である。伸一は、慰霊碑の言葉は、それを世界に明示するものとして、高く評価していたのだ。
その言葉を、広島の、日本の、そして、世界の人びとの誓いとしていくには、人類の心の結合が不可欠だ。それを可能にする生命尊厳の哲理こそが、日蓮仏法なのである。
「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです」
戸田は、1957年9月8日「原水爆禁止宣言」を発表した。その約2か月後の11月20日、広島指導に出発しようとして、自宅で倒れたのである。
伸一は、戸田の広島行きは、命にかかわりかねないと感じていた。しかし、世界最初の原爆投下の地・広島に赴き、「原水爆禁止宣言」の精神と使命を、一人ひとりの魂に深く打ち込まねばならないという戸田の思いも、痛いほどわかっていた。
死を覚悟しての広島行きであったが、出発の朝、戸田は倒れた。その戸田の心を思うと、平和への死力を尽くした戦いなしには、弟子として、広島の地は踏めぬというのが、伸一の心情であった。
太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋