『新・人間革命』第27巻 激闘の章 272p~
伸一は、利安の話に頷いた。「ともかく、何があったとしても、決して臆することなく、勇気をもって仏法を語り抜いていくことが、地域広布の根本です」「奄美の同志は、学会として打ち出した運動は、中途半端に終わらせず、徹底して行ってきました」
「鋭い視点です。他には、どんなことが奄美の発展の力になってきたと思いますか」利安は、言葉を継いだ。「学会員一人ひとりが、大きく地域に貢献してきたことではないでしょうか。地域のために何もしなければ、口でどんなに立派なことを言っても、誰も信用してくれません」
「学会員は、先生のご指導の通りに、積極的に地域の人々のために身を粉にして働いてきました。ほとんどの方が、集落の区長や、農業委員、民生委員、PTA、消防団、老人クラブ、婦人会の役員として活躍しております」
伸一は言った「『仏法即社会』です。これからは、「広宣流布即地域貢献」と考えるべきでしょう。学会員が、本腰を入れて地域貢献に尽くしていくならば、地域の皆さんにとっては大きな力になるでしょう。いつも学会員だけで集まって、何かしているというのでは、社会での信頼を勝ち取ることはできません」
伸一は、利安に県総会などの予定を聞く。「いつでも同じことだけをやって、良しとしていたのでは、その組織は、時代遅れの白黒テレビのようなものです。希望が膨らむ大きな行事を考えていけば、皆が楽しく、いかんなく力を発揮し、組織の総合力も強まっていくんです」
「行うとなれば、多彩な人材必要になる。それを機に、人材を掘り起こし、一歩踏み出した活動を展開していくことができる。これが大事なんです。皆が、唱題にも真剣に励み、新たな挑戦を開始することができる。
学会の活動というのは、一人ひとりの信心の活性化につながるものであるし、また、そうさせていかなければなりません。各人が、自身の成長と境涯革命、また、功徳を実感していくための催しなんです」
伸一が第三代会長に就任して18年で、日本の広宣流布の盤石な基盤が整い、学会は世界へと飛翔した。また、人間主義を基調とした平和・文化運動の潮流も大きく広がった。それを可能にしたのは、彼の柔軟にして迅速な決断と、電光石火の行動であったといえよう。
思えば、伸一が出席して鹿児島会館落成の式典が開かれたのは、1963年(昭和38年)11月23日のことであった。この日の朝、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が銃弾に倒れた。この時、伸一は、人類の平和実現への誓いを、一段と深く心に刻んだのである。
あいさつに立った伸一は、常識豊かな行動が大切であることを訴えた「周囲の人から見て、『あの人は、本当に日々楽しそうに生きている』『あの人のところへ行くと、なんとなく信心をしたくなってしまう』と言われる人生を歩むことこそ、仏法が真実であることの証明なんです」
その日から14年半の歳月が流れていた。
彼が向かったのは、鹿児島県婦人部長の宮中直子の家であった。
宮中栄蔵の妻・直子は、何不自由ない家庭に育ち、結婚後も暮らしは豊であった。直子は、信心によって事業の倒産の危機を乗り越えた自分の両親から学会の話を聞かされ、親孝行のつもりで入会した。しかし、夫は信心には大反対だった。
彼女は、信心を始めたものの、御本尊を安置することもできなかったが、夫が出勤したあと、御本尊を出して、勤行し、学会活動にも参加した。学会活動が楽しくて仕方なかった。夫は、厄介な嫁さんをもらったと思った。
一人娘でわがまま放題に育ち、家事は、ほとんどせず、買い物好きでデパート通いをし、今度は信心を始めた。直子は 夫が「離婚するか、信心を辞めさせるしかない」と真剣に思っていることを知り、自分が主婦として、妻としていかに失格であったかに気づく。
“夫が信心をしないのは、私が悪かったからだ”直子は、自身の人間革命を御本尊に誓い、真剣に唱題し始めた。直子は、根は純粋であった。学会の指導を実践し、良き主婦、良き妻、良き母をめざした。その目覚ましい変化に、夫の栄蔵も目を見張った。そして、彼は信心への態度を改め、直子の入会から一年後に、信心を始めたのである。
伸一は、利安の話に頷いた。「ともかく、何があったとしても、決して臆することなく、勇気をもって仏法を語り抜いていくことが、地域広布の根本です」「奄美の同志は、学会として打ち出した運動は、中途半端に終わらせず、徹底して行ってきました」
「鋭い視点です。他には、どんなことが奄美の発展の力になってきたと思いますか」利安は、言葉を継いだ。「学会員一人ひとりが、大きく地域に貢献してきたことではないでしょうか。地域のために何もしなければ、口でどんなに立派なことを言っても、誰も信用してくれません」
「学会員は、先生のご指導の通りに、積極的に地域の人々のために身を粉にして働いてきました。ほとんどの方が、集落の区長や、農業委員、民生委員、PTA、消防団、老人クラブ、婦人会の役員として活躍しております」
伸一は言った「『仏法即社会』です。これからは、「広宣流布即地域貢献」と考えるべきでしょう。学会員が、本腰を入れて地域貢献に尽くしていくならば、地域の皆さんにとっては大きな力になるでしょう。いつも学会員だけで集まって、何かしているというのでは、社会での信頼を勝ち取ることはできません」
伸一は、利安に県総会などの予定を聞く。「いつでも同じことだけをやって、良しとしていたのでは、その組織は、時代遅れの白黒テレビのようなものです。希望が膨らむ大きな行事を考えていけば、皆が楽しく、いかんなく力を発揮し、組織の総合力も強まっていくんです」
「行うとなれば、多彩な人材必要になる。それを機に、人材を掘り起こし、一歩踏み出した活動を展開していくことができる。これが大事なんです。皆が、唱題にも真剣に励み、新たな挑戦を開始することができる。
学会の活動というのは、一人ひとりの信心の活性化につながるものであるし、また、そうさせていかなければなりません。各人が、自身の成長と境涯革命、また、功徳を実感していくための催しなんです」
伸一が第三代会長に就任して18年で、日本の広宣流布の盤石な基盤が整い、学会は世界へと飛翔した。また、人間主義を基調とした平和・文化運動の潮流も大きく広がった。それを可能にしたのは、彼の柔軟にして迅速な決断と、電光石火の行動であったといえよう。
思えば、伸一が出席して鹿児島会館落成の式典が開かれたのは、1963年(昭和38年)11月23日のことであった。この日の朝、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が銃弾に倒れた。この時、伸一は、人類の平和実現への誓いを、一段と深く心に刻んだのである。
あいさつに立った伸一は、常識豊かな行動が大切であることを訴えた「周囲の人から見て、『あの人は、本当に日々楽しそうに生きている』『あの人のところへ行くと、なんとなく信心をしたくなってしまう』と言われる人生を歩むことこそ、仏法が真実であることの証明なんです」
その日から14年半の歳月が流れていた。
彼が向かったのは、鹿児島県婦人部長の宮中直子の家であった。
宮中栄蔵の妻・直子は、何不自由ない家庭に育ち、結婚後も暮らしは豊であった。直子は、信心によって事業の倒産の危機を乗り越えた自分の両親から学会の話を聞かされ、親孝行のつもりで入会した。しかし、夫は信心には大反対だった。
彼女は、信心を始めたものの、御本尊を安置することもできなかったが、夫が出勤したあと、御本尊を出して、勤行し、学会活動にも参加した。学会活動が楽しくて仕方なかった。夫は、厄介な嫁さんをもらったと思った。
一人娘でわがまま放題に育ち、家事は、ほとんどせず、買い物好きでデパート通いをし、今度は信心を始めた。直子は 夫が「離婚するか、信心を辞めさせるしかない」と真剣に思っていることを知り、自分が主婦として、妻としていかに失格であったかに気づく。
“夫が信心をしないのは、私が悪かったからだ”直子は、自身の人間革命を御本尊に誓い、真剣に唱題し始めた。直子は、根は純粋であった。学会の指導を実践し、良き主婦、良き妻、良き母をめざした。その目覚ましい変化に、夫の栄蔵も目を見張った。そして、彼は信心への態度を改め、直子の入会から一年後に、信心を始めたのである。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋