小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

広宣流布

皆が主役、今世の使命、広宣流布

『新・人間革命』に学ぶ 番外編①-1

「新・人間革命」につづられた名言をテーマごとに紹介

テーマ「皆が主役」
「広宣流布の大河も、日蓮大聖人お一人から始まりました。創価学会も、最初は牧口先生と戸田先生のお二人であったが、今では、世界に広まりました。ヨーロッパも、(中略)大発展することはまちがいありません。だが、それには、互いに人を頼るのではなく、皆が一人立たなければならない。

"私がいる限り、たとえ自分一人になっても、絶対に広宣流布をしてみせる。必ず勝つ!"と、師子となって戦い続ける人が、何人いるかです。その一人の発心、一人の勝利が積み重なってこそ、大勝利がある。

したがって、"時代を開く""歴史を創る"といっても、特別なことではない。一人ひとりが自分の決めた課題に挑み、今日を勝ち抜くことです。(中略)

それぞれが広布の主役であることを自覚し、信心のヒーロー、ヒロインとして、果敢なる挑戦のドラマをつくっていただきたいのであります」
(第12巻「新緑の章」p63~64)


テーマ「今世の使命」
「日蓮大聖人は、『須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ今生人界の思出
なるべき』
と言われています。つまり、一心に唱題と折伏に励み抜いていくことこそ、人間として生まれてきた、今世の最高の思い出となると、御断言になっているんです。

私たちは、人間として生まれたからこそ、題目を唱え、人に仏法を語ることができる。一生成仏の千載一遇のチャンスを得たということです。ゆえに、地涌の菩薩として、今世の使命を果たし抜いていくんです」皆、真剣な眼差しで、伸一を見ていた。

「人生の総仕上げとは、それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです。"私は最高に幸せだ。こんなに楽しい、人生はない"と、胸を張って言える日々を送っていただきたいんです」
(第25巻「共戦の章」p151~152)


テーマ「広宣流布」
「広宣流布とは決してゴールではありません。何か特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思います。(中略)日蓮大聖人が『末法万年尽未来際」と叫ばれたこと自体、広宣流布の流れは悠久にして、とどまるところがないことを示されたものといえます。広宣流布は流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります。」

広宣流布が「流れそれ自体」ということは、間断なき永遠の闘争を意味する。ゆえに、広布に生きるとは永遠に戦い続けることだ。そこに生命の歓喜と躍動と真実の幸福がある。


さらに伸一は、「宗教は文化の土台であり、人間性の土壌である」と述べ、広宣流布とは"妙法の大地に展開する大文化運動"であると定義づけたのである。
(第14巻「大河の章」p297~298)


太字は 聖教新聞 小説『新・人間革命』番外編①より 抜粋

奄美諸島の同志

『新・人間革命』第8巻 布陣の章 P71~


ハルは、もともと体が弱く、月の半分は床に伏すような生活であり、健康になることが願いであった。3児が早世し、死産や流産を繰り返し、子供は娘一人だけだった。

一人娘が鹿児島の高校に進学し、入会を決意した。母親のハルは、娘を変な宗教に取られたら困ると思い、自分が監視しようとの親心から、一緒に入会したのである。

決して熱心に活動するわけではなかったが、奄美に帰ってきた時、教学の任用試験を受けることになり、受験者のために、鹿児島から先輩幹部が、毎週、奄美に来て、教学を教えてくれた。彼女は、後輩たちのために、船で20時間もかけて、自費で奄美まで来て、無償で勉強を教えてくれる、献身的な姿に感動を覚えた。

さらに、御書を拝し、教学を学んでいくなかで、宗教は皆、迷信じみた、いかがわしいものという認識が、全く覆されていった。仏法への確信をもったハルは、勇んで活動を始めるようになり、その溌剌とした姿を見て、夫の恵介も信心を始め、彼女の活動を支えてくれた。

ハルは、肝臓、腎臓を病み、坐骨神経痛や高血圧に苦しんできたが、いつの間にか、その持病が治まってきた。これが、ますます、彼女の信心への確信を深めさせ、次第に布教の闘士となっていった。

頭から、塩をまかれても“負けるものか、どんなことがあっても、日本のどこよりも早く、この奄美の広宣流布をし、日本一幸せな地域にしなくては・・・”と心に誓ってきた。この思いは、奄美の同志に共通した決意であったといってよい。

奄美では、地域の神事をつかさどる女性司祭者のノロ(祝女)や、神の心を伺い、神がのりうつるとされるユタへの信仰が盛んで、それに逆らえばタタリがあるとされてきた。

メンバーはそのなかで、旧習を打ち破り、宗教の正邪を訴え、布教の旗を高らかに掲げたのである。

ハルの甥の茂原三郎が弘教拡大していた時、彼の祖母に続き、いとこ、叔母、弟、父と、三か月の間に5回の葬式を出すことになり、「学会に入ると死ぬ」と噂が広まる。皆、入会後の他界であったからだ。学会員の間にも動揺が起こった。 

しかし、茂原は動揺しなかった。一人ひとりの臨終の相が、素晴らしく、彼は、むしろ、“やはりこの信心は正しかった”との、強い強い確信をいだいた。

「この、信心はすごいぞ!」茂原の微動だにしない姿に、皆の動揺は収まった。まさに、中心者の一念、信心の確信いかんが、組織の団結と勝利を決定づけるといってよい。

待望の奄美大島会館の落成式が挙行され、そのあとで、奄美総支部結成に伴う人事面接が行われた。野川は支部長としての責任も十分果たしきれていないと辞退したいと話した。

「できないことはない。私は32歳で、全世界を引き受けた。それを考えれば、奄美諸島が広いといっても、たかがしれてるじゃないか」伸一にこう言われると、野川は何も言えなかった。腹は決まった。

名瀬港に面した塩浜海岸の埋め立て地では、「奄美総支部結成大会」に参加する6千人のメンバーで埋まった。皆、ムシロを敷いて座り、朝食をとりながら開会を待っていた。

総支部の結成と人事が発表されると、「ウォー」という海鳴りのような歓声と拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。


太字は 『新・人間革命』第8巻より

奄美総支部誕生

『新・人間革命』第8巻 布陣の章 P65~

奄美は宿命の島だ。圧政の歴史だった。江戸時代には、薩摩藩の過酷な支配、戦後は、アメリカによる軍政の時代もあった。その宿命を転換し、自立していくためにも、早く総支部をつくりたかった。

奄美大島支部、名瀬支部、古仁屋支部の三支部で奄美総支部の布陣で出発することに決まった。

総支部長は、野川高志、総婦人部長は、藤沢ハルが就任することになった。

野川は、奄美大島で雑貨店を営む、30代後半の一途な性格の人物である。戦後復員し、雑貨店を開くが、結核に侵される。幼少期に父母、16歳の姉を失くし、一家の短命の宿命を感じて、自分に迫る死魔の影に怯えた。

病のためにやせ細っていた時、仏法の話を聞き、病が治るならと家族で信心を始めた。野川は病気を治したい一心で懸命に信心に励んだ。すると日増しに元気になり、一年ほどしたころには レントゲンの胸部の影が消えて、医師も驚く。

この体験は、野川に信心への大確信を与え、学会活動に拍車がかかった。彼は、信仰による宿命の転換の手応えをつかんだのである。

入会三年が過ぎたころ、支部長の任命を受けるかどうか悩みに悩んだ。奄美大島支部は、奄美大島、喜界島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島など、奄美諸島全域になる。支部長として責任を全うしていくには、全生活を支部員のために捧げる覚悟がなくては不可能であると知っていたからである。

島内の道路事情も悪く、奄美諸島を回るとなれば、定期船に乗り継ぐか、小舟に揺られて行かなくてははらない。定期船だと、順調にいっても 往復で32時間かかる。

野川の妻は、この奄美の宿命を転換し、皆が幸福になっていくには、誰かが支部長につかなければならないと思うと、覚悟を決めて、「店のことは私がやる!」と夫に言った。この妻の言葉が、野川の心を決めさせた。“俺の命は、信心で救われた。それならば、この命を、広宣流布に捧げよう!”

支部長になった野川は身を粉にして広布に走り抜いた。ひとたび、島々を巡るとなれば、一週間や二週間帰れず、天候次第で いつ帰ってくるかわからない。彼は、いつも雨ガッパをバイクに積んで、眠くなるとカッパを被って道端で休むこともあった。

道路わきで横になっている時、腹の上をハブが通り過ぎることもあった。特にハブに襲われる夜道が
危険であったため、彼は常に唱題を心がけ、絶えず心の中で題目を唱え続けていた。

彼は口癖で「俺は小学校しか出ていないし、頭が悪いから、しっかり勉強しないと、人並みにはなれない。広宣流布をするには、人を納得させる力が必要だ。それには、人一倍、学ぶしか道はない」と言って、船での移動中は、学会の出版物をむさぼるように読み、御書を拝した。

彼が、島々を巡り、動けば動くほど、当然、家計の支出も増していった。妻の好美は、生活費を切り詰めに切り詰め、いつも、やりくりに四苦八苦していた。しかし、“奄美の人たちの幸福のために、夫は働いている。家ぐらいは、私が守らなければ・・・”それが彼女の誓いでもあった。

夫妻は、ひたすら、広宣流布の大願に生きることを使命とし、誉れとしてきたのである。

一方、総婦人部長の藤沢ハルは、50過ぎの、聡明さと優しさを備えた女性であった。夫の恵介は、高校の教師をしており、郷土史の研究家でもあった。


太字は 『新・人間革命』第8巻より

広宣流布の方程式

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P311~

バンコクのレストランで女性従業員が 声をかけてきた。
学会員であった。

今回の訪問地には、まったく学会員のいない国もあると思っていたが、
これまでのところどの国にもメンバーがいたことになる。

アメリカやブラジルと比べれば、タイには広宣流布の小さな種が
蒔かれたにすぎなかった。それは、わずかな雨風にも流され、
吹き飛ばされかねなかった。

しかし、その一つ一つの種子を大切に育み、社会に根づかせていってこそ、
広宣流布の花園が開かれる。


学会の広宣流布は、国力をバックにしての布教でもなければ、
宣教師を送り込んでの布教でもない。

その地に生きる人が信仰に目覚め、使命を自覚するところから始まる、
民衆の内発性に基づいている。


ゆえに、一人ひとりが使命に奮い立つことに、伸一は全力を注いだのである。


アジアを歩けば、いずこの地にも、日本軍による戦争の傷跡がある。

日本人は、二度とこんな愚行を繰り返さぬために、
決して、この歴史の事実を忘れてはならない。
謙虚にならなくてはならない・・・。


そして、伸一は、一人の日本人として、アジアの人びとと同苦しながら、
今度は「幸福の道」「平和の道」を開いていこうと、決意するのであった。



太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

あとがき

『新・人間革命』第1巻 「あとがき」 P347

あとがきで 池田先生は つづっている。


命の続く限り、私は書き続ける。
正しい仏法とは何か。
正しい人生とは何か。
そして、何が歴史の「真実」か。人間にとっての「正義」の戦いとは何かを。
そこに、人類の未来を開く、一筋の道があるからだ。


創価学会の歴史は、まさに、迫害の連続であった。・・・


日本は民主主義の時代となった。しかし、・・・


民衆の自立のための、確かな哲学・宗教がなかった。
ゆえに、たやすく国家の権力や世の中の大勢に迎合する付和雷同の風土も、
なんら変わることがなかったといってよい。

創価学会は、その「哲学なき社会」のなかで、民衆の時代を築くために、
仏法の生命の哲学を掲げ、「正義」と「良心」の叫びをあげたのである。・・・



何も行動しょうとせず、ひたすら傍観者を決め込むならば、批判されることはあるまい。
しかし、民衆のため、平和のために生きることは、信仰者の使命である。
また、そこに創価の仏法の不滅の精神がある。

私は、その「真実」を書き残すために、小説『人間革命』、そして、
『新・人間革命』の筆を執ってきたのである。・・・



師の偉大な「構想」も、弟子が「実現」していかなければ、すべて幻となってしまう。
師の示した「原理」は「応用」「展開」されてこそ価値を持つ。
ならば、師なき後の弟子の生き方を書きとどめてこそ、
広宣流布の永遠の方程式を記すことができると考えたからである。

また、私とともに、弟子として立ち上がり、人びとの幸福と世界の平和のために、
広宣流布の聖業に献身し抜いてくれた同士のことを、「民衆の英雄」のことを、
断じて書き記しておきたかったからでもある。




『新・人間革命』を執筆されることによって、池田先生は
創価三代の精神を命がけで 後世に、永遠にとどめようとされた。


そして、1993年 8月6日 長野研修道場で、最初の原稿を
書き始められたのである。

その時、池田先生は 65歳。


それから30巻を書きあげるまでには
限りある命の時間との壮絶な闘争となるに違いない。
しかし、自身のこの世の使命を果たし抜いてこそ、まことの人生である。




1993年11月18日 聖教新聞連載開始。
1998年1月2日 『新・人間革命』1巻が発刊された。
池田先生が 70歳 古希を、迎えた日。


「70歳まで・・・新しき人間主義の哲理を確立
 80歳まで・・・世界広布の基盤完成なる哉 このあとは、
 妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」 
と「随筆 新・人間革命」で、語っている。




太字は 『新・人間革命』第1巻「あとがき」より抜粋




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