『新・人間革命』第28巻 革心の章 308p~
毛沢東、朱徳、そして周恩来らの第一方面軍は、党職員や、その家族など合わせて8万6千余人であり、女性も、老人も、傷病者もいた。鄧頴超は、病に侵されながら、この長征に加わった。担架で運ばれての行軍であった。
鄧頴超は、病と戦いながらも、努めて明るく振る舞い、自身が体験してきた闘争の数々を語り、皆を勇気づけ、希望の光を注いだ。闘争を開始した“初心”を確認し合い、同志の心を鼓舞した。彼女の人生の勝因は、自分に負けずに戦い続けてきたことにあったといえよう。病に侵され、担架に身を横たえ、窮地に立たされても、その心は、決して屈しなかった。
彼女には、自身の闘争を先延ばしにして、“状況が好転したら、何かしよう”という発想はなかった。「今」を全力で戦い抜いた。いつか、ではない。常に今の自分に何ができるのかを問い、なすべき事柄を見つけ、それをわが使命と決めて、果たし抜いていくのだ。そこに、人生を勝利する要諦もある。
長征は肉体の限界を超えた行軍であった。食料もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も超えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。そして、遂に、「長征」に勝利したのだ。
1937年7月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。
鄧頴超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。彼女は、娘にこう語ってきた。「あなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、頴超として尊敬される人になりなさい」独立した人間であれーーそれが、母の教えであった。
フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」
1945年、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。周恩来と鄧頴超は、国民党との和平交渉を行った。だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。
そして、共産党が国民党を制圧し、49年10月、中華人民共和国が成立するのである。一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。
伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。「お二人が“夫婦”というだけでなく、“同志”の絆に結ばれていたからだろうね」二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく“同志”の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。
続いて訪中団一行が訪れたのは、紫金山であった。まず伸一たちが訪れたのは、廖承志会長の両親の墓所「廖陵」であった。中国の要人たちの誰もが、激闘の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。
革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花し、冥福を祈り、題目を三唱した。
夕方には、空路、北京へ向かったのである。翌日、もう主席記念堂へ向かった。その後、定陵を巡りながら、伸一と趙樸樸初副会長と仏教について意見交換した。
17日夜、人民大会堂で歓迎宴が行われた。廖承志が紹介したのは、全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周総理の夫人として大中国を担う柱を支え続けてきた鄧頴超その人であった。
答礼のあいさつに立った伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。「私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。その軸となる根本は、「信義」の二字であると申し上げたいのであります!」
信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋
鄧頴超は、病と戦いながらも、努めて明るく振る舞い、自身が体験してきた闘争の数々を語り、皆を勇気づけ、希望の光を注いだ。闘争を開始した“初心”を確認し合い、同志の心を鼓舞した。彼女の人生の勝因は、自分に負けずに戦い続けてきたことにあったといえよう。病に侵され、担架に身を横たえ、窮地に立たされても、その心は、決して屈しなかった。
彼女には、自身の闘争を先延ばしにして、“状況が好転したら、何かしよう”という発想はなかった。「今」を全力で戦い抜いた。いつか、ではない。常に今の自分に何ができるのかを問い、なすべき事柄を見つけ、それをわが使命と決めて、果たし抜いていくのだ。そこに、人生を勝利する要諦もある。
長征は肉体の限界を超えた行軍であった。食料もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も超えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。そして、遂に、「長征」に勝利したのだ。
1937年7月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。
鄧頴超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。彼女は、娘にこう語ってきた。「あなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、頴超として尊敬される人になりなさい」独立した人間であれーーそれが、母の教えであった。
フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」
1945年、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。周恩来と鄧頴超は、国民党との和平交渉を行った。だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。
そして、共産党が国民党を制圧し、49年10月、中華人民共和国が成立するのである。一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。
伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。「お二人が“夫婦”というだけでなく、“同志”の絆に結ばれていたからだろうね」二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく“同志”の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。
続いて訪中団一行が訪れたのは、紫金山であった。まず伸一たちが訪れたのは、廖承志会長の両親の墓所「廖陵」であった。中国の要人たちの誰もが、激闘の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。
革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花し、冥福を祈り、題目を三唱した。
夕方には、空路、北京へ向かったのである。翌日、もう主席記念堂へ向かった。その後、定陵を巡りながら、伸一と趙樸樸初副会長と仏教について意見交換した。
17日夜、人民大会堂で歓迎宴が行われた。廖承志が紹介したのは、全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周総理の夫人として大中国を担う柱を支え続けてきた鄧頴超その人であった。
答礼のあいさつに立った伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。「私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。その軸となる根本は、「信義」の二字であると申し上げたいのであります!」
信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋