小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

平和の旗

オーストリア、イタリアへ

『新・人間革命』第30巻(上) 暁鐘の章(前半) 378p

伸一の一行は、一路オーストリアの首都ウィーンへ向かった。伸一は、思った。“文化交流と友情の苗は、大地に深く根を張り、幹を伸ばし、21世紀の大空に、大きく枝を広げるにちがいない。また、やがて、この国にも、御請訓に照らして、地涌の菩薩が陸続と出現する時が来るはずだ。時代は変わる。ブルガリア広布の朝は、きっとくる!”

三年後の1984年(昭和59年)創価大学とソフィア大学との学術交流協定が調印される。また、92年には、伸一の写真展が、首都ソフィアの文化宮殿で開催され、開幕式にはジェリュ・ジェレフ大統領も出席している。

また、特筆すべきは、伸一の初訪問から20年後、2001年5月3日を記念し、ブルガリアにSGIの支部が結成されたことである。まさに、御請訓のままに、時代は動き始めたのだ。

5月25日、山本伸一たちは、ウィーンの空港に到着した。伸一がオーストリア入りするのは、20年ぶりであった。当時、メンバーは誰もいなかったが、今では、支部が誕生し、支部長の永村嘉春らが出迎えてくれた。

永村は27歳の時、世界広布に生きようと、オーストリアに渡った。仕事もなく、就職できなければ日本に送還される。懸命に祈った。翌日、荷物をまとめて部屋を出た。隣室から現れた中年の男性が、いきなり、「君、仕事は?うちで仕事をしないか」と言われた。永村は窮地を脱した。強気一念の祈りある限り、行き詰まりはないと確信した。 

永村は伸一がパリを訪問するたびに、列車に18時間も揺られ、訪ねてくるのであった。ウィーンの空港で伸一は、「あなたに会いにきました。弟子が必死に奮闘しているんだもの。精一杯応援したいんだよ」

26日、イギリスのオックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソン社会学教授と会談し、対談集『社会と宗教』の発刊に向けて、最終的な打ち合わせを行った。夜、信心懇談会が開かれた。この席で待望のオーストリア本部が結成された。

27日は、ウィーン国立歌劇場を訪問し、エゴン・ゼーフェルナー総監督と会談した。前年秋に民音の招聘で行われた日本公演に対して、民音の創立者として御礼を述べたかったのである。友好の核心は誠意を尽くすことにある。この日は、文部省も表敬訪問し、フレッド・ジノワツ副首相と会談した。彼は、後に首相となる。

ハイリゲンシュタットにある楽聖ベートーベンの記念館を訪れた。二階の二部屋だけの小さな記念館である。伸一は丹念に見て回った。

このあと、メンバーと夕食を共にしながら懇談し、オーストリア本部の出発を祝った。永村に言った。「広宣流布は、長い戦いだ。無理は長続きしないものだよ。知恵を働かせて、よく睡眠をとるように心がけ、体に気をつけるんだよ」

伸一は、永村が昼間は一向に同行し、夜遅く職場に戻り、仕事をしていたことを知っていた。しかし、永村はそんなことはおくびにも出さなかった。中心者の彼に、この誠実さがある限り、オーストリアSGIは、やがて大きく発展していくだろうと思った。長い目で見た時、勝利を収めるのは誠実の人である。人生にあっても、広布にあっても。

5月28日、イタリアのピサ国際空港に到着した。大勢のイタリアの青年たちが伸一を迎えてくれた。20年前ローマの空港に出迎えてくれたのは、仕事でイタリアに赴任していた一組の日本人夫妻だけであった。以来20年、はつらつと集った多くの青年たちの姿に、彼は新しい世界広布の時代の到来を感じ、胸が高鳴るのを覚えた。

メンバーとの懇談会のなかで伸一は、ルネサンスに言及していった。伸一は、人類史という大きな流れの中で、広宣流布の意味を確認しておこうと思った。人間の生命を変革し、民衆を蘇生させる創価の人間革命運動の真価は、歴史を俯瞰するなかでこそ、より鮮明になるからだ。

ルネサンスは、人間を「神」と「教会」の軛から解き放ち、その限りない可能性を開花させていった。それは、まぎれもないヒューマニズムの勝利であり、人間的自由の賛歌であった。「しかし、人間は真の自由を手にすることができただろうか!残念ながら、違うといわざるを得ない。

ルネサンスによって解き放たれた人間は、自身の心を師とし、欲望や感情に翻弄され、片や、それを抑え込もうとする外なる力に縛りつけられ、求め続けた幸福から、著しくかけ離れた時代をつくってしまった」仏典には『心の師とはなるとも心を師とせざれ」とある。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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ブルガリア初訪問

『新・人間革命』第30巻(上) 暁鐘の章(前半) 356p

伸一の一行はフランクフルト市内にある「ゲーテの家」を訪れた。伸一は、文豪たちの住居を訪ね、その生活環境を知ることで、人間像と作品への洞察をさらに深め、機械があれば、青年たちに人物論や作品論を講義したいと考えていたのだ。

トルストイもゲーテも、当時としては、かなりの長寿であり、共に82歳で他界するが、生涯、ペンを執り続けた。伸一は、今、自分は53歳であることを思うと、まだまだ若いと感じた。“人生の本格的な闘争は、いよいよこれからである。世界広布の礎を築くため、後継の青年たちの活躍の舞台を開くために、命ある限り行動し、ペンを執り続けなければならない”と、自らに言い聞かせた。

22日、フランクフルトを発って約二時間半、山本伸一たちの一行は、東欧の社会主義国であるブルガリア人民共和国の首都ソフィアの空港に到着した。この訪問はブルガリア文化委員会の招聘によるものであり、伸一にとっては初めてのブルガリアであった。

N・ババゾフ議長を訪ねた。議長は病後で、健康が懸念された。伸一は、両国の交流に全力を尽くすことを述べて、辞去しようとイスから立った。議長は両手を出して止めようとする。何か必死なものが感じられた。「駐日大使の時代から、山本先生にわが国に来ていただくことを、強く望んでおりました。

わが国は、バルカン半島にあって交通の要路にあたり、文明の交差点となってきました。それゆえに、古くから戦いが繰り返され、辛酸もなめました。ですから、世界平和の実現は、私の、いやすべてのブルガリア人の悲願なんです。それだけに平和のために戦ってこられた先生の行動に期待を寄せ、大きな成果を収められるように望んでおります」

午後、ソフィア大学を訪問した。この日、大学から伸一に、名誉教育学・社会学博士の学位が贈られ、彼は記念講演を行うことになっていた。式典では、I・アポストロワ哲学部長が推挙の辞を述べたあと、I・ディミトロフ総長が立ち、古代ブルガリア語で認められた名誉博士の学位記を伸一に手渡し、握手を交わした。

集っていた学部長や教授など、約百人の参加者から、盛んな拍手が起こった。引き続いて、「東西融合の緑野を求めて」と題する伸一の講演となった。彼は、ブルガリアは、地理的にも、歴史的にも、精神面においても、“西”と“東”とが交わり、拮抗してきた大地であり、西洋文明と東洋文明を融合・昇華させ、新たな人類社会を構築していくカギともいうべき可能性があることを訴えた。

最後に、ブルガリアのシンボルが獅子であることに触れ、自分も一仏法者として獅子のごとく、人びとの幸福と平和のために世界を駆け巡っていきたいと決意を披歴。

記念講演を終えた山本伸一が訪れたのは、文化宮殿であった。今回の招聘元である文化委員会のリュドミーラ・ジフコワ議長(文化大臣)と会談するためである。伸一は、メキシコを訪問した折、ジフコワ議長が偶然にも同じホテルに宿泊していることがわかり、会っていた。

「文化は橋です。国と国だけでなく、体制と体制の間にも橋を架けてくれます。私は文化で戦争と戦いたいのです」彼女の断固たる言葉に、伸一は、美しき花を貫く芯を見る思いがした。「芯」とは、生き方の哲学であり、信念といえよう。

22日、山本伸一たちは、ブルガリア国家評議会に、国家元首であるジフコフ議長を表敬訪問した。そして、黒海の汚染が進みつつあることを憂慮していた伸一は、沿岸諸国が協力し、浄化を進めていくことを提案した。

黒海の海はつながっている。しかし、沿岸諸国の背景にある東西両陣営の対立が、国と国との結束を阻み、環境破壊を放置させる結果になっているのだ。イデオロギーが人間の安全に優先するーーその転倒を是正する必要性を訴え、伸一は世界を巡ってきたのである。

伸一は、23日夕刻、ジフコワ議長の招きを受け、「文化の日」の前夜祭として行われた「平和の旗」の集いに出席した。「平和の旗」の集いは、1979年(昭和54年)の「国際児童年」を記念して始まったものである。

24日には、ブルガリア建国千三百年を祝賀する「文化の日」のパレードが、盛大に行われた。伸一も招待され、ブルガリアの政府閣僚らと共に、この祭典に出席した。翌25日、伸一の一行はブルガリアを発った。



太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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