『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 339p
使命に生き抜く人は、人生の勝利者である。広宣流布の高き峰をめざして、常に前へ、常に未来へと進みゆくなかに、歓喜あふれる、真の幸福の大道がある。
「鹿児島の奄美群島にある喜界島から、婦人が来られています。草創期から頑張ってこられた富島トミさんという方です」「お会いしよう。一緒に勤行しましょう」
喜界島は、奄美大島の東方約25キロに位置する、美しい珊瑚礁の島である。富島トシの夫は、終戦を迎える5月、9歳、6歳、2歳の子どもを残して他界した。トシは4人目の子どもを身ごもっていた。トシはがむしゃらに働いた。長男次男が中学を卒業し、ホッとしたのも束の間、次男が自ら命を絶つ。トシは生きて行く希望を失った。その時、信心を始めた。
鹿児島から来た青年部の幹部に、「宿命転換し、幸福になるためには、懸命に題目を唱え、折伏することです。自分だけの幸せを願う信仰は、本当の信仰じゃなかです。みんな一緒に幸せになってこそ、自分の幸せもある」
自他供の幸せを実現していくーーこれまでの宗教では、聞いたこともない教えである。トシは奮起した。彼女は、真剣に唱題に励み、弘教を開始した。
子どもたちは、信心を始めた母親が、日ごとに明るく、元気になっていく姿に目を見張った。2時間、3時間と歩いて折伏に出かけた。仏法の話をすると、相手が怒りだして、水をかけられたり、塩をまかれたりすることもあった。鎌を持って追いかけられたこともある。でも、彼女はめげなかった。
教学を学び御書の通りだと、実感したからだ。といっても、富島は、あまり読み書きができなかった。学会活動に励むなかで、読み書きの必要性を痛感し、漢字を覚えていった。広宣流布の使命に生きようという一念が、自分の苦手の壁を打ち破っていたのだ。
「第二室戸台風」が奄美群島を襲った時、トタン屋根のトシの家は、吹き飛ばされてしまった。彼女は、こう考えていた。「泊まってもらえば、いろいろと指導を受けることができる。また、今の貧しい暮らしをよく見ておいてもらえば、功徳を受けた時、信心の実証が、よくわかってもらえる」
彼女は、喜界島まで指導に来てくれた人が、ゆっくり休めるために、広い家が欲しいと思った。また、何よりも、島の広宣流布のために、会合などに仕える立派な会場がほしかった。懸命に祈った。すると、東京に出ていた息子が、「母ちゃんのために家を建てる」と言ってくれた。
その家が完成した。会場として使用できる部屋は20畳を超す。立派なトシの家は、地域の評判になり、多くの人が家を見に来た。その見事な実証によって、さらに折伏も進んだ。
広宣流布のためとの一念が込められた祈りは、願いを成就させる大力となる。御聖訓にも「題目を唱え奉る音は十方世界にとどかずと云う所なし」と仰せである。
同志の激励となれば、相手が納得し、立ち上がるまで、何度も、何度も、足繁く通った。決してあきらめようとはしなかった。"皆、尊い使命をもって、この世に生まれてきた仏子だ。皆が幸せになれるんだ!そのことを自覚させずに、途中でやめてしまうとしたら、あまりにも無慈悲だ"それが、彼女の信念であった。
彼女は、家を建てる時、玄関を二つ造ってもらった。その一つの玄関は、直接、客間につながるようになっていた。伸一夫妻が来島した時に、宿泊するための部屋として用意していたのだ。彼女の心には、広宣流布の師匠として、常に伸一がいた。"いつ先生を迎えても、勝利の報告ができるように"と日々、真剣勝負で活動に取り組んできた。
彼女は、よく、悩みをかかえ、苦労している島の同志に、こう語って励ました。「苦しいと思った時が勝負だよ。厳しい冬の次に待っているのは春なんだ。信心で打開できない問題なんてないよ」それは、幾つもの体験を通して、生命でつかんだ、彼女の実感であり、確信であった。
"山本先生とお会いして、喜界島のことをご報告したい・・・"トシは、朝な夕な、そう御本尊に祈り続けてきた。そして、山本伸一と会うことができたのである。
伸一は、一人の人の励ましに、最大の力を注いだ。一人が立ち上がり、一人が燃えてこそ、広宣流布の幸の火は燃え広がっていくからだ。
功徳の体験という実証に裏づけられた信仰への「確信」と「生命力」と「教学」ーーそこからほとばしる、人びとを救わんとする情熱こそが、われらの広宣流布運動の原動力なのだ。
太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋
「鹿児島の奄美群島にある喜界島から、婦人が来られています。草創期から頑張ってこられた富島トミさんという方です」「お会いしよう。一緒に勤行しましょう」
喜界島は、奄美大島の東方約25キロに位置する、美しい珊瑚礁の島である。富島トシの夫は、終戦を迎える5月、9歳、6歳、2歳の子どもを残して他界した。トシは4人目の子どもを身ごもっていた。トシはがむしゃらに働いた。長男次男が中学を卒業し、ホッとしたのも束の間、次男が自ら命を絶つ。トシは生きて行く希望を失った。その時、信心を始めた。
鹿児島から来た青年部の幹部に、「宿命転換し、幸福になるためには、懸命に題目を唱え、折伏することです。自分だけの幸せを願う信仰は、本当の信仰じゃなかです。みんな一緒に幸せになってこそ、自分の幸せもある」
自他供の幸せを実現していくーーこれまでの宗教では、聞いたこともない教えである。トシは奮起した。彼女は、真剣に唱題に励み、弘教を開始した。
子どもたちは、信心を始めた母親が、日ごとに明るく、元気になっていく姿に目を見張った。2時間、3時間と歩いて折伏に出かけた。仏法の話をすると、相手が怒りだして、水をかけられたり、塩をまかれたりすることもあった。鎌を持って追いかけられたこともある。でも、彼女はめげなかった。
教学を学び御書の通りだと、実感したからだ。といっても、富島は、あまり読み書きができなかった。学会活動に励むなかで、読み書きの必要性を痛感し、漢字を覚えていった。広宣流布の使命に生きようという一念が、自分の苦手の壁を打ち破っていたのだ。
「第二室戸台風」が奄美群島を襲った時、トタン屋根のトシの家は、吹き飛ばされてしまった。彼女は、こう考えていた。「泊まってもらえば、いろいろと指導を受けることができる。また、今の貧しい暮らしをよく見ておいてもらえば、功徳を受けた時、信心の実証が、よくわかってもらえる」
彼女は、喜界島まで指導に来てくれた人が、ゆっくり休めるために、広い家が欲しいと思った。また、何よりも、島の広宣流布のために、会合などに仕える立派な会場がほしかった。懸命に祈った。すると、東京に出ていた息子が、「母ちゃんのために家を建てる」と言ってくれた。
その家が完成した。会場として使用できる部屋は20畳を超す。立派なトシの家は、地域の評判になり、多くの人が家を見に来た。その見事な実証によって、さらに折伏も進んだ。
広宣流布のためとの一念が込められた祈りは、願いを成就させる大力となる。御聖訓にも「題目を唱え奉る音は十方世界にとどかずと云う所なし」と仰せである。
同志の激励となれば、相手が納得し、立ち上がるまで、何度も、何度も、足繁く通った。決してあきらめようとはしなかった。"皆、尊い使命をもって、この世に生まれてきた仏子だ。皆が幸せになれるんだ!そのことを自覚させずに、途中でやめてしまうとしたら、あまりにも無慈悲だ"それが、彼女の信念であった。
彼女は、家を建てる時、玄関を二つ造ってもらった。その一つの玄関は、直接、客間につながるようになっていた。伸一夫妻が来島した時に、宿泊するための部屋として用意していたのだ。彼女の心には、広宣流布の師匠として、常に伸一がいた。"いつ先生を迎えても、勝利の報告ができるように"と日々、真剣勝負で活動に取り組んできた。
彼女は、よく、悩みをかかえ、苦労している島の同志に、こう語って励ました。「苦しいと思った時が勝負だよ。厳しい冬の次に待っているのは春なんだ。信心で打開できない問題なんてないよ」それは、幾つもの体験を通して、生命でつかんだ、彼女の実感であり、確信であった。
"山本先生とお会いして、喜界島のことをご報告したい・・・"トシは、朝な夕な、そう御本尊に祈り続けてきた。そして、山本伸一と会うことができたのである。
伸一は、一人の人の励ましに、最大の力を注いだ。一人が立ち上がり、一人が燃えてこそ、広宣流布の幸の火は燃え広がっていくからだ。
功徳の体験という実証に裏づけられた信仰への「確信」と「生命力」と「教学」ーーそこからほとばしる、人びとを救わんとする情熱こそが、われらの広宣流布運動の原動力なのだ。
太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋