小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

師の心

勝鬨

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 178p

仙北郡太田地域で、初代地区部長として戦ってきた、小松田城亮は、不幸続きの人生に、半信半疑ながら、入会した。信心への確信をつかむと、仏法の話をしたくてたまらず、親戚知人を折伏した。自宅が全焼し、家と家財をすべて焼失しても、「大丈夫、御本尊がある」と周囲の人びとを覆う、不安の暗雲も打ち破って、やがて、家も新築することができた。

一族の学会員からは、たくさんの社会貢献の人材が出ていた。学会にあっても、多くのメンバーがリーダーとして活躍している。城亮の人材輩出の秘訣は、自分が弘教した人は、独り立ちするまで、徹底して面倒をみることであった。

伸一は、深く思った。“学会の大発展は、こうした、人知れず苦労を重ねながら、誠実と忍耐で、家族、兄弟、親戚、そして、地域の友人たちと、強い信頼の絆を結び、それを広げてきた数多の無名の英雄がいたからこそ、築かれたのだ”

13日夜、伸一は、県青年部の最高会議に出席した。「青年は、常に、『皆が困っている問題は何か』『地域発展のために何が必要か』を考え、柔軟な発想で打開を探っていくんです。不可能だと思ってしまえば、何も変えることはできない。“必ずなんとかしてみせる”と決めて、思索を重ね、何度も何度も挑戦し、ねばり強く試行錯誤を重ねていく情熱があってこそ、時代を変えることができる。これが青年の使命です」

「何かを成し遂げよう、改革していくと思えば、必ず分厚い壁があり、矛盾に突き当たる。いや、現実は矛盾だらけだ。しかし、そのなかを、日々、聡明に、粘り強く、突き進むしかない。ましてや、世界広宣流布は、前人未到の新航路だ。誰もいないと思い、一人立つのだ!皆が“山本伸一”になるんです」

学会にあって「日本海の雄」「東北の雄」といわれてきた秋田が、今、未来へと大きく飛翔しようとしていた。1月14日夜、県内1500人の代表が、喜々として集い、第一回県青年部総会が開催されたのである。

「時間をどう使うかは、人生の大事なテーマです。仕事に力を注ぐことは当然だが、就業時間のあとに、自分の信条とする活動を成し遂げていくかどうかによって、人生に格段の違いが生ずることは間違いない。この時間は、私どもにとっては学会活動の時間です。

それは、自他共の永遠の幸福と繁栄のための行動であり、地域貢献の道であり、全世界の崩れざる平和を築く道でもある。

伸一は、“青年たちよ!学会を頼む。広布を頼む。21世紀を頼む”と心でよびかけていた。彼は、信じていたーーここに集った青年たちが、新世紀のリーダーとして立ち、友情と信頼のスクラムを社会に広げてくれることを!広布を担う人材の陣列を幾重にもつくってくれることを!

1979年(昭和54年)2月、鹿島地域の神栖に学会が建立寄進した寺院が落成した。同志は、この寺なら、清純な信心の話が聞けるだろうと希望をいだいた。しかし、落慶入仏式の席で、新任の住職から発せられたのは、学会を謗法呼ばわりする言葉であった。広宣流布を、僧俗和合を願っての赤誠は踏みにじられたのだ。

同志たちにとって、最も残念だったのは、つい先日まで一緒に広布に生きようと話し合ってきた友が、悪僧に踊らされていることが分からず、信心を狂わされ、人が変わったようになっていったことであった。

82年、山本伸一は、水戸婦人会館を視察したあと、茨城文化会館を訪問し、落成を祝う県代表者の集いに出席した。ここでは、学会の幹部でありながら、退転していったものの根本原因について言及していった。

「信心がむしばまれていってしまった人に共通しているのは、強い慢心があることです。そこに最大の原因があるといえます。慢心の人は、広布への責任をもたず、新しい挑戦や苦労を避けようとする。だから、進歩も成長もない。その結果、信心は淀み、心はエゴに支配され、憤懣があふれる。

また、慢心の人は、必ずといってよいほど、勤行を怠っている。傲慢さに毒され、信心の基本を軽く見ているんです。

結果としていえることは、“策の人”は長続きしない。“要領の人”は必ず行き詰っていく。“利害の人”は縁に紛動されてしまうーーということです」

その後も、伸一の力走は続いた。衣の権威による迫害に耐え、広宣流布の王道を歩み抜いた創価の勇者たちを讃え、励まし、師弟共戦の勝ち鬨をあげるために、全国津々浦々へ、尊き仏子のもとへ走った。
同志は勝った。また一つ、試練の峰を勝ち越えたのだ。希望の大空に凱歌が轟いた。

<勝鬨の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

騙されても

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 178p

11日夜、伸一は、秋田文化会館での県代表者会議に出席した。伸一は、まことの信仰者の生き方に言及していった。「それは、決して特別なことではありません。人生には、いろいろなことがあります。しかし、“何があっても、御本尊に向かい、唱題していこう!”という一念を持ち続け、堅実に、学会活動に邁進していくことです。そして、何よりも、自分の生き方の軸を広宣流布に定め、御書を根本に、法のために生き抜いていく人こそが、真実の信仰者です」

「私はずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられもしました。弟子を名乗る者の中にも、そうした人間がいることを知っていました。『あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい』と言ってくる人もいました。

それでも私は、寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気強く、対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。なぜかーー騙されも、騙されても、弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎ尽くすのが師であるからです。それが、私の心です。

しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、広宣流布を破壊するならばそれは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに、躊躇があってはなりません。

人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃するーーそれが、私の三十年間にわたる信仰生活の実感です。だが、すべては、因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。

歪んだ眼には、すべては歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」

田沢本部の婦人部長関矢都美子は、1978年(昭和53年)2月、御講のために訪れた学会員を入場させないために、檀徒たちが入り口に立って、追い返した時、本堂に入って、理由を問いただした。一歩も引かず、学会の正義を訴えた。“ついに障魔が襲い始めた!”と感じた関矢は、学会員の激励に奔走した。

3年がたっていた。伸一は、語りかけた。「学会を守ってくださっているのは、何があっても、“自分が、皆を幸せにしていこう!一切の責任を担い立っていこう!”という、私と同じ決意の人です。これが、学会の側に立つということです。

学会を担う主体者として生きるのではなく、傍観者や、評論家のようになるのは、臆病だからです。また、すぐに付和雷同し、学会を批判するのは、毀誉褒貶の徒です。あなたは信念を貫き通してくださった。見事に勝ちましたね。ありがとう!さあ、新しい出発ですよ。」

1月12日、秋田文化会館の落成を祝う県幹部会が開催された。伸一は、“人生の最も深い思い出とは何か”に言及していった。日々、広宣流布に全力で走り抜くなかに、わが人生を荘厳する、黄金の思い出がつくられていくことを語った。

13日から、希望者は全員参加の自由勤行会が開催されることが決まった。この数年、秋田の同志は、歯ぎしりするような日々を過ごしてきた。悪僧たちは、葬儀の出席と引き換えに脱会を迫るというのが常套手段であった。また、信心をしていない親戚縁者も参列している葬儀で、延々と学会への悪口、中傷を繰り返してきた。挙句の果てに「故人は成仏していない!」と非道な言葉を浴びせもした。

そうした圧迫に耐え、はねのけて、今、伸一と共に21世紀への旅立を迎える宝友の胸には、「遂に春が来た!」との喜びが、ふつふつと込み上げてくるのである。

伸一が、白いアノラックに身を包んで、雪の中に姿を現した。気温は氷点下2.2度である。集った約1500人の同志から大歓声があがり、拍手が広がった。「今日は、秋田の大勝利の宣言として、『人間革命』の歌を大合唱しましょう!」雪も溶かすかのような熱唱が響いた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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