『新・人間革命』第29巻 清新の章 242p~
2011年3月11日、大地震、大津波が発生した当時、元藤は、学会にあって、大槌、釜石、大船渡、陸前高田など被害の激しかった地域の県長であった。
自宅も、家族も無事であった。御本尊に、ひたすら感謝した。しかし、安堵に浸る間もなく、妻の福代と共に、会員の安否確認に回るため、家を出た。街は一変していた。一面、瓦礫に埋まり、廃墟と化し、市街地に向かう道もなくなっていた。
でも、なんとしても同志に会わなければならない。山中を歩いた。藪が生い茂る獣道を進んだ。市の対策本部に着いた。各避難所の収容者名簿を見て、学会員の名前を確認し、避難所に向かった。何人もの学会員と会うことができた。元藤は、過酷すぎる現実に言葉を失った。ただ、手を握り、共に涙することしかできなかった。
被災者でありながら人びとの面倒をみて、忙しく立ち働く学会員もいた。避難所を後にした元藤は、地域の消防団の活動に入った。救援物資の運搬など、身を粉にして働いた。たくさんの同志が津波で家を流された。だが、そのなかで学会員は、避難所の清掃作業や炊き出しなど、人びとのために勇んで献身していった。
人の幸福を願って行動するなかに、自分の幸せもあるという、仏法の共生の哲学が脈動していたのだ。こうした同志のなかには、元藤に限らず、1979年(昭和54年)1月、水沢文化会館で山本伸一と出会いを結んだ人たちが少なくなかったのである。
伸一は、甚大な被害であったことを知ると、胸を痛めながら被災地の友に伝言した。「大切な大切な皆様方に、仏天の加護が厳然と現れるよう、妻と強盛に題目を送り続けております。日蓮大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と御断言であります。今こそ不屈の信力、行力を奮い起こし、偉大なる仏力、法力を湧き出だしながら、この苦難を、断じて乗り越えていこうではありませんか」
3月16日の「聖教新聞」には、被災地の同志に送った、山本伸一のメッセージが掲載された。「御書には、災害に遭っても『心を破る能わず』と厳然と示されています。『心の財』だけは絶対に壊されません。いかなる苦難も、永遠に幸福になるための試練であります。
すべてを断固と『変毒為薬』できるのが、この仏法であり、信心であります。(中略)断じて負けるな!勇気を持て!希望を持て!」
岩手に限らず、宮城、福島など、各被災地での学会員の奮闘、また、阪神・淡路大震災を乗り越えてきた兵庫など関西をはじめ、全国の同志の支援は、人間の強き絆の証明として永遠不滅の光を放つものとなろう。
東北の青年たちは、各地で「自転車レスQ隊」「片付け隊」「かたし隊」などを結成。清掃や後片付け、物資の配達などを買って出た。調理師や理容師、美容師などの技術を生かし、ボランティアとして貢献した壮年、婦人もいる。皆、自らも被災者である。
津波によって瓦礫に覆われた宮城県石巻では、男子部員が、“なんとしても、皆を元気づけたい。生きる勇気を送りたい”と決意した。そして「がんばろう!石巻」という立て1.8メートル、横10.8メートルの大看板を作った。彼は、自分の家も流され、雪の降るなか、松の木にしがみついて一夜を明かして、生き抜いた青年である。この看板は、やがて東北復興のシンボルとなった。
“負けてたまっか”ーーこの心意気が学会魂だ!苦難の嵐が猛れば猛るほど、勇敢に、忍耐強く、挑み戦うのが創価の師子だ!
被害の大きかった岩手県大船渡市にある県立大船渡病院に一人の臨床研修医がいた。27歳の塩田健夫である。必死で診療にあたった。疲労は限界に達していた。しかし、自分に言い聞かせた。“この時にめぐり合わせたことは、決して偶然ではない。このために、ぼくはいる!今、頑張らずして、どこで頑張るというのだ!”人生には、正念場がある。その時に、最高の力を発揮できる人こそが勝利者となる。
高田市で養殖漁業を営んできた村川良彦は、ローンで購入した最新設備の漁船を津波で失った。彼には、震災の日の早朝、収穫した1トンのワカメがあった。普段の何倍もの高値がつく。ところが彼らは、そのワカメを惜しげもなく近隣に配り始めた。人は食べれば元気がでる。今大事なのは、みんなが元気になることだーーと考えての決断だった。
太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
自宅も、家族も無事であった。御本尊に、ひたすら感謝した。しかし、安堵に浸る間もなく、妻の福代と共に、会員の安否確認に回るため、家を出た。街は一変していた。一面、瓦礫に埋まり、廃墟と化し、市街地に向かう道もなくなっていた。
でも、なんとしても同志に会わなければならない。山中を歩いた。藪が生い茂る獣道を進んだ。市の対策本部に着いた。各避難所の収容者名簿を見て、学会員の名前を確認し、避難所に向かった。何人もの学会員と会うことができた。元藤は、過酷すぎる現実に言葉を失った。ただ、手を握り、共に涙することしかできなかった。
被災者でありながら人びとの面倒をみて、忙しく立ち働く学会員もいた。避難所を後にした元藤は、地域の消防団の活動に入った。救援物資の運搬など、身を粉にして働いた。たくさんの同志が津波で家を流された。だが、そのなかで学会員は、避難所の清掃作業や炊き出しなど、人びとのために勇んで献身していった。
人の幸福を願って行動するなかに、自分の幸せもあるという、仏法の共生の哲学が脈動していたのだ。こうした同志のなかには、元藤に限らず、1979年(昭和54年)1月、水沢文化会館で山本伸一と出会いを結んだ人たちが少なくなかったのである。
伸一は、甚大な被害であったことを知ると、胸を痛めながら被災地の友に伝言した。「大切な大切な皆様方に、仏天の加護が厳然と現れるよう、妻と強盛に題目を送り続けております。日蓮大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と御断言であります。今こそ不屈の信力、行力を奮い起こし、偉大なる仏力、法力を湧き出だしながら、この苦難を、断じて乗り越えていこうではありませんか」
3月16日の「聖教新聞」には、被災地の同志に送った、山本伸一のメッセージが掲載された。「御書には、災害に遭っても『心を破る能わず』と厳然と示されています。『心の財』だけは絶対に壊されません。いかなる苦難も、永遠に幸福になるための試練であります。
すべてを断固と『変毒為薬』できるのが、この仏法であり、信心であります。(中略)断じて負けるな!勇気を持て!希望を持て!」
岩手に限らず、宮城、福島など、各被災地での学会員の奮闘、また、阪神・淡路大震災を乗り越えてきた兵庫など関西をはじめ、全国の同志の支援は、人間の強き絆の証明として永遠不滅の光を放つものとなろう。
東北の青年たちは、各地で「自転車レスQ隊」「片付け隊」「かたし隊」などを結成。清掃や後片付け、物資の配達などを買って出た。調理師や理容師、美容師などの技術を生かし、ボランティアとして貢献した壮年、婦人もいる。皆、自らも被災者である。
津波によって瓦礫に覆われた宮城県石巻では、男子部員が、“なんとしても、皆を元気づけたい。生きる勇気を送りたい”と決意した。そして「がんばろう!石巻」という立て1.8メートル、横10.8メートルの大看板を作った。彼は、自分の家も流され、雪の降るなか、松の木にしがみついて一夜を明かして、生き抜いた青年である。この看板は、やがて東北復興のシンボルとなった。
“負けてたまっか”ーーこの心意気が学会魂だ!苦難の嵐が猛れば猛るほど、勇敢に、忍耐強く、挑み戦うのが創価の師子だ!
被害の大きかった岩手県大船渡市にある県立大船渡病院に一人の臨床研修医がいた。27歳の塩田健夫である。必死で診療にあたった。疲労は限界に達していた。しかし、自分に言い聞かせた。“この時にめぐり合わせたことは、決して偶然ではない。このために、ぼくはいる!今、頑張らずして、どこで頑張るというのだ!”人生には、正念場がある。その時に、最高の力を発揮できる人こそが勝利者となる。
高田市で養殖漁業を営んできた村川良彦は、ローンで購入した最新設備の漁船を津波で失った。彼には、震災の日の早朝、収穫した1トンのワカメがあった。普段の何倍もの高値がつく。ところが彼らは、そのワカメを惜しげもなく近隣に配り始めた。人は食べれば元気がでる。今大事なのは、みんなが元気になることだーーと考えての決断だった。
太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋