小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

対話

佐藤栄作元総理との語らい

『新・人間革命』第21巻 人間外交の章 101P~ 
<人間外交の章 開始>

山本伸一は、1975年(昭和50年)1月28日帰国。帰国した伸一は、精力的に、大使館関係者や各界のリーダー、ジャーナリストなどと、相次ぎ対話を重ねていった。

2月1日には駐日アメリカ大使館を訪問。ジェームズ・ホジソン大使と約1時間にわたって会談。その翌日には、アメリカの日本協会のアイザック・シャビロ会長と会談。さらに、6日には、AP通信社のジョン・ロデリック東京特派員と会い、そして、12日、佐藤栄作元総理との会談に臨んだのである。

佐藤元総理は前年にノーベル平和賞を受賞していた。それを「一日も早く山本会長にお見せしたい」との連絡を受けていた。佐藤元総理は「こちらから山本会長のお宅におじゃまさせていただきます」とのことであった。

食事をしながらの語らいが始まった。佐藤は語った。「私はノーベル賞の授賞式の帰り、ソ連を訪問し、コスイギン首相とお会いすることができました。実は、その時、コスイギン首相が、こう言われておりました。『日本に帰ったら、創価学会の山本会長によろしく伝えてください。この間、有意義な会見をしたばかりなんです』と」

伸一は、その会談の模様を佐藤に伝えた。"日本人の理解を得ようと思うなら、「親ソ派」と称される政治家や団体とばかり交流するのではなく、保守党の議員など、幅広く交流すべきである"と述べたことも伝えた。

佐藤元総理は、"親米"の代表のように言われていた。その佐藤とコスイギン首相との会見が実現したのだ。コスイギン首相は、伸一の意見を真摯に受け止めてくれたのであろう。佐藤は大きく頷きながら言った。「山本会長の真心と情熱にあふれたご意見が、コスイギン首相を動かし、私との会見が実現したのでしょう」

「それにしても、山本会長は、コスイギン首相を相手に、よくぞ言ってくださった。まさに友人としての忠告という感じがします。そういう語らいは、政府の代表同士では難しいでしょう。だから民間交流が大事です」

さらに、伸一は、前年の第二次訪中で周恩来総理、鄧小平副総理と会見したことを述べ、中国を大切にしていきたいとの心情を語った。佐藤栄作といえば、台湾一辺倒であるという見方が定着していた。しかし、彼は、以前から日中国交正常化を念願していたのだ。伸一には、その心がわかっていた。

佐藤が常に台湾を重要視してきたのは、蒋介石総統に対する信義を貫いたからであった。佐藤は、戦後、蒋介石が日本人の帰国を速やかに認め、賠償金も取らなかったことに、深い恩義を感じていたのである。恩をもって恩に報いるーーその信念が佐藤を貫いていたのだ。

伸一は、佐藤が総理在任中から何度か顔を合わせる機会があった。ひときわ思い出となっているのが、9年前の1月鎌倉・長谷の別邸を訪れた時のことであった。山本は佐藤と二人だけで3時間半ほど語り合った。佐藤の総理就任から1年2か月がたっていた。佐藤は64歳、伸一は38歳。年の差は親子ほどあった。

「『人間革命』読みましたよ。厳しい言葉がありますね。総理よりも庶民が偉いと書いてある」語らいは『人間革命』から始まったのである。佐藤は、しみじみとした口調で言った。「創価学会は純粋ですね。気持ちがきれいだ。純粋に国のためを思っていることがよくわかる」佐藤は、人間の精神をどう変革するかを、テーマとしていたようだ。

伸一は佐藤の部屋に案内された。途中に一枚の写真が飾られていた。吉田茂と佐藤が、並んで写った写真であった。「私の師匠です」佐藤は胸を張って誇らかに言った。

一国の総理が自分の師匠を尊敬し、誇りをもって紹介する姿に、伸一は"この人は、心から信頼できる"と思った。「求道の人」「向上の人」は必ず、師匠を求める。そして、心に師をいだいている人には、厳たる風格がある。

吉田茂が亡くなった翌月に、佐藤は訪米。小笠原と沖縄の返還への流れを開いた。それは吉田の悲願でもあった。師匠の念願を成し遂げてこそ弟子である。師が願って、成就できなかったことは、すべて弟子が果たし抜くのだ。それが師弟の道なのである。

後日、寛子夫人から丁重な手紙が届いた。「無口な主人が本当によくしゃべりました。『会長がひと回りもふた回りも大きくなって、日本のために頑張ってくださっているのがうれしい』と言っていました」とあった。この語らいから3か月後に、佐藤元総理は倒れ、6月3日、帰らぬ人となった。

後年、八王子に東京牧口記念会館ができると、伸一と峯子は、その庭園に佐藤夫婦の夫婦桜を植樹している。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


懸け橋の対話

『新・人間革命』第20巻 懸け橋の章 208P~

「私は、あなたがソ日友好の懸け橋になることを期待しています」そして、コワレンコは、北方領土問題に対する日本の政治家の対応を厳しく批判した。さらに、「ソ連と日本の友好関係を考えるうえで大事な問題はソ連を敵視するような日中平和友好条約は結ぶべきではありません」と言い、1972年(昭和47年)9月の日中国交正常化の共同声明について語り始めたのである。

伸一は、"これは大きな誤解だ"と思った。彼は、きっぱりとした口調で言った。「それは違います。私は、公明党を創立しましたが、政治家ではありません。宗教者であり、教育者です。また、公明党は、独立した政党です。独自の政策に基づいて行動しております。ですから、政治の分野の問題を、私から指示するようなことはないし、あってはならない。これが鉄則です」

人間として大事なことは、言うべき時に言うべきことを、明確に言い切る勇気をもつことである。コワレンコは、大きな声でいった。「いや、ソ日友好をめざすという、あなたの主張が嘘でないなら、これは断じてやるべきだ!」そして、ドンドンとテーブルを叩き、鋭い目で伸一をじっと見すえながら言い放った。「あなたたちは、ソ連を敵視した日中平和友好条約に加担して、ソ連を敵に回すべきではない!」是が非でもそうさせてみせるという、傲然たる自信に満ちた声であった。

伸一は、穏やかな口調で語り始めた。「コワレンコ先生。私は政治交渉のために帰国を訪問したのではありません。一民間人として、教育者として招待をお受けいたしました。」今度は伸一の方が、ドンドンとテーブルを叩いて見せた。

「こうした、強硬で一方的な姿勢では、ソ連は嫌われます。対話のできない国だと思われます。それでは、あなたたちが損をします!」この夜、二人の語らいは弾んだ。そして、二人の間には、深い友情が育まれていくのだ。

勇気をもって真実を語ってこそ、心の扉は開かれ、魂の光が差し込む。それが、信頼の苗を育んでいくのだ。それが、折伏精神ということだ。

訪ソ4日目も教育・学術交流に費やされた。ソ連科学アカデミーを訪れたのである。伸一は、ビノグラドフ副総裁に、ソ連科学アカデミー付属の東洋学研究所と、伸一が創立した東京の東洋哲学研究所が学術資料の交換を行っていくことを提案した。

同行の青年部が尋ねた。「先生は世界的な学者とあらゆる分野の学問について論じられますが、どうすれば、そういう、幅広く、深い教養を身につけることができるんでしょうか」「戸田大学だ。戸田先生から、学問の基礎を徹底的に叩きこまれたからです。」

「その先生が、最も力を注いでくださったのが教学だった。すべての学問や事象を、仏法の立場から、どうとらえるのかを、厳しく訓練してくださったんだよ。それによって、知識が思想化され、本当の教養になっていったんだ。今、世界的な学問の権威が、私の発言に耳を傾けてくださるのも、仏法という視点が確立されているからだよ」

山本伸一の一行は、モスクワ大学に向かった。創価大学の学長から、モスクワ大学との交流計画の概要が述べられた。

その後、伸一は、ホテルでモスクワ放送のインタビューを受け、さらにソ連科学アカデミーのキム準会員と懇談した。キムは、感無量の面持ちで言った。「私たちの愛する、久しく動乱の絶えない東洋に、山本先生という"英知の星"が生まれたことを心から感謝します」二人の心は響き合った。

9月12日、山本伸一は文化省を訪ねた。民音、富士美術館を窓口にした文化交流、ソ連の美術展の開催、教科書の交換など、伸一は、一本一本、糸をかけるように、交流の道を開いていった。その一つ一つは、ささやかであったとしても、細い糸が集まって絢爛たる錦を織り成すように、やがて人間交流の大河となることを、彼は確信していた。

ピオネール宮殿を訪ね、子どもたちと交流し、子どもたちの作った人形や絵画の交換を行った。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

原水爆禁止運動

『新・人間革命』第7巻 文化の華の章 P21~

8月「富士吹奏楽団」の結成式が行われ、婦人部の「白ゆり合唱団」女子部の「富士合唱団」などが相次ぎ結成されることになる。

夏期講習会が終わると、青年部の各方面の 体育大会が待っていた。

このころ、人びとの生活は次第に豊かになり、貧困は減少していった。
世は無責任時代と言われ、気楽に要領よく立ち回る植木等主演の映画が大ヒットしていた。

しかし、若者たちは、それに替わる新しい価値観を見つけあぐねていたといってよい。
山本伸一は、青年たちが、企画・運営する体育大会のなかに、仏法を根底にした人間の復権への主張や、新しい社会の連帯を創造しようとする息吹を感じ取っていた。

東京体育大会は、横浜の三ツ沢の競技場で行われた。出場選手のなかには、外国人選手の姿も見られ、2年後に控えた東京オリンピックの観を呈していた。規模こそ小さいが、平和を願うオリンピックの精神を、最も反映した大会であったといえよう。

戸田が5年前の9月8日「原水爆禁止宣言」を発表したのもこの三ツ沢で行われた。
伸一は、この遺訓の実現のために、具体的に何をすべきかを考え続けてきた。

伸一は、この恩師の遺訓を成就していくための要諦を話す。
「第一は、生命の尊厳を解き明かした、日蓮大聖人の仏法を世界に知らしめていく以外に、根本的な原水爆禁止の道は断じてない。一人ひとりの胸中に生命の尊厳の哲理を打ち立て、平和の砦を築いていってこそ、原水爆の禁止は可能になる」

「第二には、そのためにいかなる運動を展開していくのか。遠回りのようでも、一対一の地道な対話を続け、人間の道を教える、私どもの"弘教"こそ、根源的な原水爆禁止の運動となるのであります。」

「第三には、諸君があらゆる分野で、立派な社会人に、偉大なる指導者に成長し、人びとの救済のために、さらに、全世界の平和の実現のために、奮闘努力していただきたいということです。」

伸一のあいさつは簡潔であったが、そこには、民衆に、人間の生命に深く根差した、最も本源的で漸進的な核廃絶への道が示されていた。

この年の8月6日原水爆禁止世界大会の最終日に 乱闘騒ぎが起こった。原水協結成の発端は、ビキニで漁船員が被ばくした第5福竜丸事件を機に、杉並の婦人部グループが始めた原水爆禁止の署名運動であった。署名運動が全国に波及し、原水協が 党派を超え 平和を願う民衆の呼びかけから始まった。

しかし、次第に共産党を始め、急進勢力が主導権を握るようになっていき、反米的色彩が強くなると、保守系の人びとが離脱、民主党系が分裂し、核禁会議を結成。分裂後も主導権争いをしていった。

こうして、日本の原水爆禁止運動は、原水協、核禁会議、原水禁と、大きく3つのグループに分裂していく。

山本伸一は、乱闘騒ぎが起こったことを知ると、強い怒りを覚えた。彼は、人びとの素朴な平和への願いから始まった原水爆禁止運動が、政治に蝕まれ、政党やイデオロギーの道具にされていることに、我慢がならなかったのである。

伸一は、原水爆の禁止を実現するには、党派やイデオロギーを超え、一人ひとりの人間に光をあてた、独自の運動を推進していくしかないことを実感した。

それは、互いに一個の人間であるとの原点に立ち返って対話し、万人の生命の尊厳を説く仏法の哲理を語り、人間の生命の権利を守り抜く共感の輪を、社会に、世界に、広げていくことであった。

相手を信じることができなければ、いかに相手をしのぐ核兵器を装備するかが重要な課題となり、際限のない、核兵器の開発競争が繰り返されることになる。強大な破壊力をもつ核兵器を使って戦争をすれば、共倒れになるので戦争はできなくなるという核抑止論もまた、相互不信と恐怖の均衡のうえに成り立つ、精神の悪魔的な産物といってよいだろう。

したがって、この人間の心に宿る相互不信の根を断ち切り、不信を信頼に、憎悪を友情に変えていかなければ、核兵器の廃絶はない。そして、その直道こそ「対話」であると、伸一は考えていた。

いかなる人も、等しく仏性を具えている。人間の心に巣くう魔性を打ち破り、その仏性を呼び覚ますならば、平和への賛同を必ず得られるはずだ。

もちろん、伸一は、それが、決して容易な道ではないことも知っていた。しかし、胸襟を開いた粘り強い対話を重ねていくならば、いかなる国の指導者とも、必ず分かり合えるというのが、彼の確信であった。



太字は 『新・人間革命』第7巻より抜粋

対話と文化交流こそ平和への道

『新・人間革命』第5巻 開道の章 P16~

正本堂建立の資材調達のため、ドイツの工場を見学して回った山本伸一は、
夜、視察した会社の重役たちと会食の場をもうける。

創価学会のことを紹介した書籍を渡し、平易な言葉を使って、創価学会とはどんな団体かを説明していった。

重役陣は、驚いた顔をしながら、伸一の話に、真剣に耳を傾けていた。
彼らは、仏教の団体である創価学会の会長一行と聞いて、現実の社会から離れて山のなかにこもり、座禅でも組んでいる人たちではないかと思っていたようだ。

実際に会って話を聞くと、自分たちの描いていた仏教団体のイメージとは、まったく違っていたことに気づき、皆、大きな関心と興味をいだいたようであった。

あなたたちの仏法とは、どんな教えなのですかという質問に
伸一は、ドイツの文豪ゲーテの『ファウスト』を引用し、
「“人間は いかに生きるべきか”を説いたものが仏法です。
 人間が幸福になるための、より人間らしくあるための方途を示したてつがくが、仏法といえます」
と話した。

伸一が『ファウスト』を引いたのは、ドイツの人たちにとって、最もみじかな深い話を通して語ることが、仏法を理解する早道であると考えたからだ。

「仏法のヒューマニズムの哲理」をもとにした、「人間革命」運動についても、説明する。

伸一は、仏法用語はほとんど使わなかった。それは、通訳をしてくれている駐在員が、仏法についての知識がほとんどないことを、考慮してのことであった。

また、難解な用語を使わなくとも、仏法について語ることができなければ、仏法を世界に流布していくことはできないと、考えていたからでもある。

和やかななかにも、真剣な語らいが続き、話題は、教育、芸術へと広がっていった。
音楽の話になった時、伸一は 学会歌を披露することを 提案した。

学会の愛唱歌の一つ「黎明の歌」をひろうすると、ドイツの重役たちも歌い、
今度は、「荒城の月」を歌うと ドイツ人夫妻がシューベルトの「野バラ」を歌うと言うように
「日独歌合戦」となる。

歌ううちに、一行と重役陣の心は一つにとけ合い、昔からの友人であるかのような、ほのぼのとした雰囲気に包まれていった。

ドイツ人を代表して工場長が この出会いを通して、未来への希望と勇気を得るとともに、日本への理解を、一段と深めることができたと語った。

伸一にとって、ドイツの人びととの、仏法をめぐる本格的な語らいは、これが初めてであった。
彼は、ドイツの人たちが真摯に仏法を求めていることを実感した。

また、国境も民族も超えて、互いに共感し合えることを、強く確信することができた。


伸一は、鎖国時代の日本に キリスト教の布教が許されることを信じて来日した、
プロテスタント宣教師のフルベッキの話を通し、
日本語習得の原動力は 宗教的使命感であったようだと話す。

その国に貢献するためにも、語学を習得することが大事だと話し、
戸田先生も子どもが生まれたら、3か国語は マスターさせなさいと言われたことがあると語る。

「これからは、航空機もますます発達し、世界は狭くなる。それなのに、若い世代が、自分に言葉の壁があって、自在に交流することもできないのでは、残念じゃないか。」

「ともかく、語学だけでなく、世界に目を向け、あらゆることを勉強していこうよ。智慧は、仏法によって得、知識は広く世界に求めていかなくてはならない。」
伸一にとって、青年たちとの語らいは、楽しい希望のひとときであった。

伸一は、若い世代を大成させることこそ、自分が成さねばならない責務であると痛感していた。
というのも、彼は、いつまで、自分が生きることができるかは、全く予測しかねていたからである。

彼には、師である戸田城聖の構想を実現するために、生きて生きて、生き抜かねばならないと言う強い決意はあった。

しかし、誰の目から見ても、伸一が無理に無理を重ねていることは明らかであったし、事実、彼の疲労は、常に激しかった。

伸一が自宅に帰った時には、毎朝、彼の体温を測ることが、妻の峯子の日課となっていたが、そのたびに彼女の顔は曇った。微熱が続いているのである。

峯子には、日々、“この人は今夜も無事に、家に帰って来られるのだろうか”との思いがあった。
彼女は、伸一はいつ倒れても、おかしくはないと感じていたのである。

だからこそ、伸一は、青年の育成に、真剣に取り組んできた。
どこにいても、青年たちの栄光の未来に期待を寄せ、
その成長を念じながら、懸命に対話したのである。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋
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