『新・人間革命』に学ぶ 番外編③-2
「新・人間革命」につづられた名言をテーマごとに紹介
テーマ「桜梅桃李」
「よく戸田先生は、こんな譬えを引かれていました。--川がある。川幅や流れの形は、基本的には変わらない。これが性格である。しかし、泥水が流れ、飲むこともできなかった川の水を、清浄極まりない水に変えることができる。これが信心の力であり、人間革命ということである。
自分の性格というのは、いわば個性です。そこに自分らしさもある。その自分のまま、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李として、それぞれが自分の個性を最大に生かしながら、最高の人生を歩んでいけるのが、日蓮大聖人の仏法なんです」
「梅は桜になることはできないし、桜も梅になることはできません。大切なことは、自分は自分らしく、光り輝いていくことです。信心を貫き通していくならば、人が真似ることのできない、自分らしい最高の魅力を発揮していくことができるんです」
(第27巻「激動の章」p313~314)
テーマ「宿命転換」
「人間は、誰しも幸せになりたいと願っている。しかし、人生にあっては、予期せぬ病気や交通事故、自然災害など、自分の意思や努力だけではどうしようもない事態に遭遇することがある。そこに、宿命という問題があるんです。
その不条理とも思える現実に直面した時、どう克服していけばよいのかーー題目です。御本尊への唱題によって、自身の胸中に具わっている、南無妙法蓮華経という仏の大生命を湧現していく以外にない。強い心をもち、生命力あふれた自分であれば、どんな試練にさらされても、負けることはない。(中略)
日蓮大聖人は佐渡に流された時、(中略)『流人なれども喜悦はかりなし』と感涙された。私たちも、この大聖人の御境涯に連なっていくならば、『宿命に泣く人生』から『使命に生きる歓喜の人生』へと転じていくことができる。大聖人の仏法は、宿命打開、宿命転換の仏法である」
(第29巻「源流の章」p352~353)
テーマ「納得」
人は、“なんのため”かが明らかにならなければ、本気になって力を注ぎこむことはできない。
それでは、いかに高邁な運動もやがては 行き詰ってしまうにちがいない。意義、目的の理解と合意ができたならば、目標の設定である。
(第2章「先駆の章」p22)
太字は 聖教新聞 小説『新・人間革命』番外編③より 抜粋
「新・人間革命」につづられた名言をテーマごとに紹介
テーマ「桜梅桃李」
「よく戸田先生は、こんな譬えを引かれていました。--川がある。川幅や流れの形は、基本的には変わらない。これが性格である。しかし、泥水が流れ、飲むこともできなかった川の水を、清浄極まりない水に変えることができる。これが信心の力であり、人間革命ということである。
自分の性格というのは、いわば個性です。そこに自分らしさもある。その自分のまま、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李として、それぞれが自分の個性を最大に生かしながら、最高の人生を歩んでいけるのが、日蓮大聖人の仏法なんです」
「梅は桜になることはできないし、桜も梅になることはできません。大切なことは、自分は自分らしく、光り輝いていくことです。信心を貫き通していくならば、人が真似ることのできない、自分らしい最高の魅力を発揮していくことができるんです」
(第27巻「激動の章」p313~314)
テーマ「宿命転換」
「人間は、誰しも幸せになりたいと願っている。しかし、人生にあっては、予期せぬ病気や交通事故、自然災害など、自分の意思や努力だけではどうしようもない事態に遭遇することがある。そこに、宿命という問題があるんです。
その不条理とも思える現実に直面した時、どう克服していけばよいのかーー題目です。御本尊への唱題によって、自身の胸中に具わっている、南無妙法蓮華経という仏の大生命を湧現していく以外にない。強い心をもち、生命力あふれた自分であれば、どんな試練にさらされても、負けることはない。(中略)
日蓮大聖人は佐渡に流された時、(中略)『流人なれども喜悦はかりなし』と感涙された。私たちも、この大聖人の御境涯に連なっていくならば、『宿命に泣く人生』から『使命に生きる歓喜の人生』へと転じていくことができる。大聖人の仏法は、宿命打開、宿命転換の仏法である」
(第29巻「源流の章」p352~353)
テーマ「納得」
人は、“なんのため”かが明らかにならなければ、本気になって力を注ぎこむことはできない。
それは、広宣流布の活動においても同じである。
皆が、なんのための運動か、なぜ、今、それを行うのかを、よく納得、理解するならば、自主的に行動を開始していくものだ。そして、そこから、さまざまな創意工夫も生まれていく。それが“現場の知恵”である。知恵は知識を動かす力である。
また、皆が、意義、目的を心の底から納得していないにもかかわらず、目標の数や方法ばかりが強調されれば、押しつけられているような思いをいだくにちがいない。すると、皆の活動に取り組む姿勢は受け身になる。受け身の行動には歓喜も躍動もなくなる。
それでは、いかに高邁な運動もやがては 行き詰ってしまうにちがいない。意義、目的の理解と合意ができたならば、目標の設定である。
(第2章「先駆の章」p22)
太字は 聖教新聞 小説『新・人間革命』番外編③より 抜粋