『新・人間革命』第28巻 革心の章 247p~

錦江飯店での交感の席で、伸一は、中国人民対外友好協会上海市分会の責任者である猛波に笑顔を向けた。猛波は一昨年、「中国上海京劇団」の副団長として来日していた。その折、信濃町の聖教新聞社と八王子の市の創価大学で、彼と交流する機会があった。

伸一の一行は、上海体育館の見学に向かった。この体育館は、円形のモダンな建物で、最新の設備を整えていた。伸一は、今後、中国は、目覚ましい勢いで発展を遂げていくと思った。しかし、短日月のうちに、急速に現代化を進めるとなれば、さまざまな困難がともなうにちがいない。また、日本の例に見られるように、急激な発展は、公害問題など、多くの弊害をもたらすおそれがある。彼は、八億をはるかに超える人民のために、中国の現代化が成功することを、心から願わずにはいられなかった。

一行は、近代中国の父・孫文が晩年を過ごした故居を訪れた。遺品など、由来の品々には、いつ、どこで、どのように使われたかという物語がある。ゆえに、それは、故人を偲び、その生き方と行動、思想、精神を学ぶ大事な縁となり、時空を超えた“心の対話”の懸け橋となる。

孫中山の故居に立って山本伸一は、孫文と宮崎滔天、梅屋庄吉ら日本人との、友情を思い起こしていた。孫文は、白衣を脱ぎ捨て、革命のメスを手にした。清朝を打倒し、民主主義国家をつくって祖国を救おうと、ハワイで秘密政治結社・興中会を結成。広州での蜂起を計画するが、失敗し、日本に亡命したのである。彼は、日本の明治維新に、中国における革命のあるべき姿を見ていた。

日本では、宮崎滔天をはじめ、多くの日本人が、彼に協力を惜しまなかった。宮崎は、自らの半生を綴った『三十三年の夢』に、孫文への思いを述べている。この本のなかで、彼は、孫文の思想、人物を描き、讃嘆した。この本は、多くの中国人留学生の目に触れ、また、中国語に翻訳されていった。そして、それが清朝を倒し、中華民国を樹立することになる辛亥革命に、大きな影響を与えたといわれる。
孫文への資金面での支援者に、梅屋庄吉がいる。

辛亥革命により、孫文を臨時大総統とする中華民国政府が誕生した。清朝を代表して、この革命政府との講和にあたった内閣総理大臣の袁世凱は、清の宣統帝・溥儀を退位させ、孫文に代わって、自分が中華民国の臨時大総統となった。ここに清朝は滅びたのである。

袁世凱は、孫文らの弾圧に乗り出す。正式に大総統に就任した彼は、独裁化の一途をたどり、帝政を復活させ、自ら皇帝となることを目論む。孫文が描いた革命の理想とは、正反対の事態を招いていくのだ。

文豪ビクトル・ユゴーは叫ぶ。「私利私欲から発した動きと、主義主張から生まれた動きとをはっきり区別して、前者と戦い、後者を助ける、これこそ偉大な革命家たちの天分であり、道義なのである」人間のもつ利己心の克服、つまり、人間革命あってこそ、真実の革命の成就がある。

1915年(大正4年)日本は、権益拡大のために、第一次世界大戦に乗じて山東省におけるドイツの権益の継承や南満州権益期限の延長など、21か条の要求を中国へ突き付けた。袁世凱は、これを受諾するが、中国人の対日感情は悪化した。

19年、第一次大戦後のパリ講和会議によって、日本の21か条要求がほぼ認められ、山東省の権益もドイツから日本が受け継ぐことになったのである。それは、中国の人びとにとって、最大の恥辱であった。反日愛国運動の火は、中国全土に広がっていった。いわゆる「5・4運動」である。

また、日本は、18年、米英仏などとともに、ロシア革命への干渉のため、シベリアに出兵。ほかの国々が撤退したあとも駐留し続けていた。こうした日本の大陸進出が、中国の不安と脅威を駆り立てたことはいうまでもない。

19年、孫文は、民族主義、民権主義、民生主義の「三民主義」を政綱に掲げて中国国民党を結成し、党首となった。孫文の妻・宋慶齢は、夫の死後、国民党の中央執行委員となった。
宋慶齢は、孫文の志を受け継ぐ道を、共産党に見いだしていた。

中華人民共和国誕生後は、中央人民政府副主席、国家副主席を務めるなど、新生・中国を支えてきた。彼女は、伸一の第4次訪中の時には、既に85歳の高齢であったが、全人代常務委員会副委員長に就いており、国家を代表する存在として活躍していたのである。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋