『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 302p
大聖人の仏法は、民衆の幸福のためにこそある。もしも、宗門によってその根幹がゆがめられることを放置すれば、横暴な宗門僧らの時代錯誤の権威主義がまかり通り、不当な差別を助長させ、混乱と不幸をもたらしてしまうことになる。
まさに、「悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」と仏典に説かれているごとく、正しき仏法が滅しかねないのだ。さらに、学会が、深く憂慮したことの一つは、宗門の文化などに対する認識である。
彼らの文化に対する教条主義的、排他的な態度は、ベートーベンの第九「歓喜の歌」についてだけではなかった。「英国王室のローブ展」の展示品・ガーター勲章を紹介したところ、そこに「十字」の紋章が施されているのを見て、役僧がクレームをつけてきたのである。
文化・芸術にせよ、風俗習慣にせよ、人間社会の営みには、多かれ少なかれ、なんらかの宗教的な影響がある。「西暦」にしても、イエス・キリストが誕生したとされる年を紀元元年としているし、日曜日を休日とするのもキリスト教の安息日からきている。
また、「ステンドグラス」も、教会の荘厳さを表現するために発達してきた、キリスト教文化の所産である。西欧の多くの建造物や建築様式には、キリスト教が深くかかわっている。だからといって、それを拒否するならば、社会生活は成り立たない。
仏法には、「随方毘尼」という教えがある。仏法の根本法理に違わない限り、各国、各地域の風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重し、随うべきであるとするものだ。
シラー原詞の「歓喜の歌」には、「神々」との表現はあるが、それは特定の宗教を賛美したものでは決してない。「歓喜の歌」は、人間の讃歌、自由の讃歌として世界で歌われてきた。チェコスロバキアで、“ビロード革命”によって無血革命を祝賀する演奏会や、壁が崩壊したベルリンで、東西ドイツの融和を祝って、まさに、自由と融和の勝利の象徴が、第九であり、「歓喜の歌」であったのである。
宗門が、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して、ドイツ語の合唱に、「外道礼讃」とクレームをつけたことに対して、外部の識者らが次々と声をあげた。哲学者の河端春雄教授は、「人間精神の普遍的な昇華がもたらす芸術を、無理やり宗教のカテゴリーに当てはめ、邪教徒をつくり断罪する、あの魔女狩りにも似た宗教的独断の表れである」と指摘する。
作家の牛島秀彦教授は、文化の本質に立ち返り、訴えている。「合唱部分を異教徒として断罪、排斥することは、世界の文化、ひいては人間の生活様式を否定するという論理になってしまう。それでは、日蓮大聖人の遺命とされる世界への布教は決してなされないのみか、自らがそれを阻んでいることを認識する必要がある」
“今こそ、人間に還れ”ーー新しき時代のルネサンスの必要性を、同志は痛感した。また、学会の首脳たちは、宗門僧の振る舞いにも、心を痛めてきた。各地の会員からは、傍若無人な言動や、遊興にふけり、華美な生活を追い求める風潮に、困惑、憂慮する声が数く寄せられていた。
大聖人は、折伏もせず、「徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を奢たる畜生なり」と仰せである。広宣流布への志を失い、衣の権威を振りかざす宗門僧の姿は、学会の草創期から見られた。ゆえに第二代・戸田城聖は、たびたび宗門僧に対して、信心の赤誠をもって厳しく諫めてきたのである。
学会は、日蓮大聖人の御遺命たる世界広宣流布を進めていくために、いかなる圧迫があろうとも、言うべきことは言い、正すべきことは、正さぬわけにはいかなかった。
3月のことである。学会との話し合いを拒否し続けてきた宗門は、突然、海外組織に対する方針の転換を発表した。これまで海外では、SGI以外の信徒組織は認めなかったが、その方針を廃止する旨の通知を送付してきたのである。
さらに、学会の月例登山会を廃止し、7月からは、所属寺院が発行する添書(登山参詣御開扉願)を所持しての登山しか認めないと通告してきた。学会の組織を切り崩そうとする意図は明らかであった。学会員は、その一方的で傲岸不遜なやり方にあきれ返った。信心の誠をもって登山を重ね、また、総本山を荘厳するために、身を削る思いで供養し続けてきたからである。
総本山の大石寺は、戦後、農地改革によって、それまで所有していた農地の大半を失い、経済的に大打撃を受け、疲弊の極みであった。すると、宗門は、生活手段を確保するために、大石寺の観光地化を計画した。
その話を聞いた戸田城聖の驚き、悲しみは大きかった。総本山を、金のために信仰心のない物見遊山の観光客に開放し、大聖人の御精神が踏みにじられてしまうことを憂えた。そして、事態打開の道を考え、定例の登山会を企画し、実施したのだ。これによって、宗門は窮地を脱し、大いなる発展を遂げた。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
大聖人の仏法は、民衆の幸福のためにこそある。もしも、宗門によってその根幹がゆがめられることを放置すれば、横暴な宗門僧らの時代錯誤の権威主義がまかり通り、不当な差別を助長させ、混乱と不幸をもたらしてしまうことになる。
まさに、「悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」と仏典に説かれているごとく、正しき仏法が滅しかねないのだ。さらに、学会が、深く憂慮したことの一つは、宗門の文化などに対する認識である。
彼らの文化に対する教条主義的、排他的な態度は、ベートーベンの第九「歓喜の歌」についてだけではなかった。「英国王室のローブ展」の展示品・ガーター勲章を紹介したところ、そこに「十字」の紋章が施されているのを見て、役僧がクレームをつけてきたのである。
文化・芸術にせよ、風俗習慣にせよ、人間社会の営みには、多かれ少なかれ、なんらかの宗教的な影響がある。「西暦」にしても、イエス・キリストが誕生したとされる年を紀元元年としているし、日曜日を休日とするのもキリスト教の安息日からきている。
また、「ステンドグラス」も、教会の荘厳さを表現するために発達してきた、キリスト教文化の所産である。西欧の多くの建造物や建築様式には、キリスト教が深くかかわっている。だからといって、それを拒否するならば、社会生活は成り立たない。
仏法には、「随方毘尼」という教えがある。仏法の根本法理に違わない限り、各国、各地域の風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重し、随うべきであるとするものだ。
シラー原詞の「歓喜の歌」には、「神々」との表現はあるが、それは特定の宗教を賛美したものでは決してない。「歓喜の歌」は、人間の讃歌、自由の讃歌として世界で歌われてきた。チェコスロバキアで、“ビロード革命”によって無血革命を祝賀する演奏会や、壁が崩壊したベルリンで、東西ドイツの融和を祝って、まさに、自由と融和の勝利の象徴が、第九であり、「歓喜の歌」であったのである。
宗門が、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して、ドイツ語の合唱に、「外道礼讃」とクレームをつけたことに対して、外部の識者らが次々と声をあげた。哲学者の河端春雄教授は、「人間精神の普遍的な昇華がもたらす芸術を、無理やり宗教のカテゴリーに当てはめ、邪教徒をつくり断罪する、あの魔女狩りにも似た宗教的独断の表れである」と指摘する。
作家の牛島秀彦教授は、文化の本質に立ち返り、訴えている。「合唱部分を異教徒として断罪、排斥することは、世界の文化、ひいては人間の生活様式を否定するという論理になってしまう。それでは、日蓮大聖人の遺命とされる世界への布教は決してなされないのみか、自らがそれを阻んでいることを認識する必要がある」
“今こそ、人間に還れ”ーー新しき時代のルネサンスの必要性を、同志は痛感した。また、学会の首脳たちは、宗門僧の振る舞いにも、心を痛めてきた。各地の会員からは、傍若無人な言動や、遊興にふけり、華美な生活を追い求める風潮に、困惑、憂慮する声が数く寄せられていた。
大聖人は、折伏もせず、「徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を奢たる畜生なり」と仰せである。広宣流布への志を失い、衣の権威を振りかざす宗門僧の姿は、学会の草創期から見られた。ゆえに第二代・戸田城聖は、たびたび宗門僧に対して、信心の赤誠をもって厳しく諫めてきたのである。
学会は、日蓮大聖人の御遺命たる世界広宣流布を進めていくために、いかなる圧迫があろうとも、言うべきことは言い、正すべきことは、正さぬわけにはいかなかった。
3月のことである。学会との話し合いを拒否し続けてきた宗門は、突然、海外組織に対する方針の転換を発表した。これまで海外では、SGI以外の信徒組織は認めなかったが、その方針を廃止する旨の通知を送付してきたのである。
さらに、学会の月例登山会を廃止し、7月からは、所属寺院が発行する添書(登山参詣御開扉願)を所持しての登山しか認めないと通告してきた。学会の組織を切り崩そうとする意図は明らかであった。学会員は、その一方的で傲岸不遜なやり方にあきれ返った。信心の誠をもって登山を重ね、また、総本山を荘厳するために、身を削る思いで供養し続けてきたからである。
総本山の大石寺は、戦後、農地改革によって、それまで所有していた農地の大半を失い、経済的に大打撃を受け、疲弊の極みであった。すると、宗門は、生活手段を確保するために、大石寺の観光地化を計画した。
その話を聞いた戸田城聖の驚き、悲しみは大きかった。総本山を、金のために信仰心のない物見遊山の観光客に開放し、大聖人の御精神が踏みにじられてしまうことを憂えた。そして、事態打開の道を考え、定例の登山会を企画し、実施したのだ。これによって、宗門は窮地を脱し、大いなる発展を遂げた。