『新・人間革命』第13巻 光城の章 P213~
3年後、1967年(昭和42年)鹿児島県議会議員選挙が行われ、奄美の大島郡地区では、公明党の候補が3位で初当選した。一方、この村の出身で、村の大多数が推した現職議員が、落選した。
村会議員や地域の有力者たちに動揺が広がった。翌年の村議選を控え、強い危機感を抱いた。また、地元出身の県会議員と繋がり、何かと便宜を図ってもらっていた有力者たちは、その後ろ盾を失ったことに、不安をいだいた。
そして、公明党を支援した創価学会に攻撃の矛先を向けた。村会議員や地域の有力者は、学会員野信心をやめさせ、学会の動きを封じようということで、もくろみが一致した。そして、各集落に呼びかけ、村をあげて学会員を圧迫し、締め出そうと謀ったのである。
もともと奄美は、選挙熱の高い地域であった。選挙となれば、現金も乱れ飛び、村や集落が真っ二つに分かれ、親戚同士で激しい争いとなったり、暴力沙汰になることも珍しくなかった。そんな風土のなかで、公明政治連盟の候補が当選を果たし、県議選でも、公明党の候補が議席を獲得したのである。
これまでの島の選挙や政治の旧弊に慣れてきた人たちの目には、学会の支援活動が、村や集落の団結を壊し、島を混乱させる危険が動きであるかのように、歪めて映ったのである。
学会員を締め出すという有力者たちの謀議は、直ちに行動に移された。会員から御本尊を没収したり、集落で学会員を締め出し、学会を辞めろと迫り、断れば、職場の解雇や、雇用の拒否、不買運動など、圧力をかけていった。
学会側が激励に回った後、深夜に脱会を迫るなど、一瞬として気を抜くことができない攻防戦が繰り広げられた。村の若者に取り囲まれ、「殺してやろうか」と脅迫された婦人もいた。しかし、同志は、"熱原の三烈士"を信心の鏡として、「いぬちんかぎり、きばらんば(命の限り頑張らなければ)との合言葉で、絶対負けまいと誓い合った。
5月に入ると3つの集落が合同して「学会撲滅」を掲げたデモを行った。約300人がバイクや大型バス、トラックや乗用車に分乗し、スピーカーを使って、学会への誹謗中傷を繰り返しながら村内を回っていった。
地元組織は、幹部と連絡をとり、このデモに対し、静観することにし、挑発にのって、暴力事件などを絶対に起こすことのないよう徹底されたのである。
"学会排斥デモ"は、地元の新聞で大きく取り上げられた。
山本伸一にこの出来事が伝えられたのは、デモのあった日の夜であった。
伸一は、厳しい口調で言った。「報告が遅すぎます。こうした大変な状況になるまでには、幾つもの段階があったはずです。最初の段階で手を打っていれば、問題をこじらせず、こんな事態になるのは防げたはずです。」
鹿児島や九州の幹部は知っていたが、大きな問題になるとは思わず、報告しなかったことを聞くと「本部の対処が遅れた分だけ、対立の溝が深まっていったように思う。幹部は、報告を受けたら、本部とよく連携をとり、直ちに反応することです。それが、同志の信頼につながる。」
「学会が、これまで、なぜ大発展してきたのか。それは、たとえ、北海道の原野の村で起きたことも、九州の山里で起きたことも、その日のうちに本部に報告され、即座に適切な手を打ってきたからです。つまり、緻密な連絡・報告そして、迅速な反応と対処があった。」
「連絡・報告が速やかに行われず、幹部がすぐに反応しない組織というのは、病んでいる状態といえる。いや、死んでいるようなものです。幹部が、惰性、マンネリに陥っている証拠といえます。そこに、油断が生じ、魔の付け入る隙ができてしまう。そして、結果的に、同志を苦しめることになる。怖いことです。」
早速、理事長の泉田と中心に検討し、学会本部から副理事長を派遣し、九州からも幹部を送り、この問題解決にあたることになった。
3年後、1967年(昭和42年)鹿児島県議会議員選挙が行われ、奄美の大島郡地区では、公明党の候補が3位で初当選した。一方、この村の出身で、村の大多数が推した現職議員が、落選した。
村会議員や地域の有力者たちに動揺が広がった。翌年の村議選を控え、強い危機感を抱いた。また、地元出身の県会議員と繋がり、何かと便宜を図ってもらっていた有力者たちは、その後ろ盾を失ったことに、不安をいだいた。
そして、公明党を支援した創価学会に攻撃の矛先を向けた。村会議員や地域の有力者は、学会員野信心をやめさせ、学会の動きを封じようということで、もくろみが一致した。そして、各集落に呼びかけ、村をあげて学会員を圧迫し、締め出そうと謀ったのである。
もともと奄美は、選挙熱の高い地域であった。選挙となれば、現金も乱れ飛び、村や集落が真っ二つに分かれ、親戚同士で激しい争いとなったり、暴力沙汰になることも珍しくなかった。そんな風土のなかで、公明政治連盟の候補が当選を果たし、県議選でも、公明党の候補が議席を獲得したのである。
これまでの島の選挙や政治の旧弊に慣れてきた人たちの目には、学会の支援活動が、村や集落の団結を壊し、島を混乱させる危険が動きであるかのように、歪めて映ったのである。
学会員を締め出すという有力者たちの謀議は、直ちに行動に移された。会員から御本尊を没収したり、集落で学会員を締め出し、学会を辞めろと迫り、断れば、職場の解雇や、雇用の拒否、不買運動など、圧力をかけていった。
学会側が激励に回った後、深夜に脱会を迫るなど、一瞬として気を抜くことができない攻防戦が繰り広げられた。村の若者に取り囲まれ、「殺してやろうか」と脅迫された婦人もいた。しかし、同志は、"熱原の三烈士"を信心の鏡として、「いぬちんかぎり、きばらんば(命の限り頑張らなければ)との合言葉で、絶対負けまいと誓い合った。
5月に入ると3つの集落が合同して「学会撲滅」を掲げたデモを行った。約300人がバイクや大型バス、トラックや乗用車に分乗し、スピーカーを使って、学会への誹謗中傷を繰り返しながら村内を回っていった。
地元組織は、幹部と連絡をとり、このデモに対し、静観することにし、挑発にのって、暴力事件などを絶対に起こすことのないよう徹底されたのである。
"学会排斥デモ"は、地元の新聞で大きく取り上げられた。
山本伸一にこの出来事が伝えられたのは、デモのあった日の夜であった。
伸一は、厳しい口調で言った。「報告が遅すぎます。こうした大変な状況になるまでには、幾つもの段階があったはずです。最初の段階で手を打っていれば、問題をこじらせず、こんな事態になるのは防げたはずです。」
鹿児島や九州の幹部は知っていたが、大きな問題になるとは思わず、報告しなかったことを聞くと「本部の対処が遅れた分だけ、対立の溝が深まっていったように思う。幹部は、報告を受けたら、本部とよく連携をとり、直ちに反応することです。それが、同志の信頼につながる。」
「学会が、これまで、なぜ大発展してきたのか。それは、たとえ、北海道の原野の村で起きたことも、九州の山里で起きたことも、その日のうちに本部に報告され、即座に適切な手を打ってきたからです。つまり、緻密な連絡・報告そして、迅速な反応と対処があった。」
「連絡・報告が速やかに行われず、幹部がすぐに反応しない組織というのは、病んでいる状態といえる。いや、死んでいるようなものです。幹部が、惰性、マンネリに陥っている証拠といえます。そこに、油断が生じ、魔の付け入る隙ができてしまう。そして、結果的に、同志を苦しめることになる。怖いことです。」
早速、理事長の泉田と中心に検討し、学会本部から副理事長を派遣し、九州からも幹部を送り、この問題解決にあたることになった。
太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋