小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

学会員への迫害

魔は己心に宿る

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P241~

「今回の出来事は、みんなが純粋に戦い抜いたから、三障四魔が競い起こってきたことは間違いない。魔は、権力者、父母、師匠、妻子など、あらゆる姿を現じて、衆生の心を惑わします。」

「学会活動に出ようとしたら、娘が行かないでと言って泣いたする。それで、やめてしまえば、魔に負けた姿です。では、娘さんという存在自体が魔なのか。そうではない。自分にとって魔の働きになっただけで、娘さん自体は魔でも、敵でもない。愛すべき対象です。」

「人間は、魔の働きをすることもあれば、諸天善神の働きをすることもあります。また、一つの現象が魔となるのか、人間革命への飛躍台になるのかは、自分の一念の問題です。」

「大弾圧が起こっても、御書の仰せ通りであると各韻を深め、歓喜する人もいる。逆に功徳を受け、生活が豊かになったことで真剣に信心に励まなくなる人もいる。結局、外の世界のすべての現象は、魔が生ずる契機にすぎず、魔は己心に宿っているんです。」

「この問題の根本的な解決は、奄美の同志の境涯革命にある。大聖人は、『我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と仰せです。自分を迫害した権力者たちを、最初に救おうという、この御境涯になれるかどうかです。」

「大聖人は、弾圧を加える者がいたからこそ、法華経の行者となることができたとも言われている。奄美の同志も、その考えに立って、人びとを大きく包容し、皆の幸福を願いながら、仲良く進んでいってほしいんです。そのための武器は、誠実な対話です。」

「私も、必ず、もう一度、奄美に行きます。奄美の皆さんには、『私に代わって、地域広布を頼みます。』と伝えてください。伸一の深き心を知った派遣幹部たちは、速やかな事態の収拾を決意し、東京を発った。

派遣幹部は、村役場で代表と会談したが、話は平行線をたどり、結局デモは行われることになった。
6月10日、デモは予定通りに実行に移された。デモの規模は前回の倍以上であった。奄美総支部長の野川は、中学三年生の娘の輝子を連れ、デモを見に行った。

輝子は、怖かった。でも、それ以上に憤りを覚えた。「なぜ、学会がこんな目に合わなければいけないの!」父は、「この光景をよく胸に焼き付けておくんだ。父さんも、島の学会員さんも、島の人たちの幸福のために懸命に戦ってきた。正しいことをしてきた。」

「お前は、この悔しさを決して忘れずに、学会の正義と真実を語り抜け!そして、いつか必ず、お前たちの手で、奄美を幸福の楽園にするんだ。広宣流布の理想郷にするんだ。それが、学会っ子の使命だぞ」

多くの中等部員や高等部員が、このデモを目にした。その衝撃的な光景は、痛憤の思い出として、若い魂に焼き付けられていったのである。

地元各紙は、翌日、デモの模様を大々的に報じた。新聞を見た同志たちは、喜々として、「これで、奄美中の人たちの関心は、完全に学会に向いた。」「今こそ、学会のことを、大いに語り抜くチャンスだ。奄美中の人と仏法対話しようじゃないか」でも騒ぎは、同志の広宣流布への闘魂に火をつけたのである。

あのデモから1年数か月後、伸一は、奄美に向かった。"もっと早くきてあげたかった"胸は張り裂けんばかりであった。しかし、この奄美訪問も極めて危険であると幹部は、反対し、時期を伸ばしてはどうかといわれていたのだ。

伸一は、「今だからこそ、行くんです。むしろ、遅いぐらいです。私は奄美の同志に申し訳なかったと思っています。」と強い語調で言った。この烈々たる決意を聞くと、もはや、誰も何も言えなかった。

太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

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奄美の創価学会員迫害の構図

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P232~

派遣幹部は、村八分によって生活が脅かされたり、暴力をふるわれた会員がいることから、鹿児島地方法務局の名瀬支局へ、人権侵害の実態の調査を依頼するとともに、集落の首脳らを名瀬警察署に告訴した。もはや、法的手段に出なければ、同志の人権は守りきれないところまできていたのである。

告訴された有力者のなかには、自分たちの行き過ぎを後悔する人、村八分に加担した人が、警察に引っ張られたくないと集落の首脳に詰め寄る場面もあった。

一方、学会員は心を一つにし、村八分に対しても、可能な限り、学会員同士で、協力し、守り合った。不買運動に泣く会員の店に遠くから買いに行ったり、紬工場の織子がやめて困っているところには、婦人部や女子部が 織子になって応援した。

「絶対に負けない」「最後は、必ず勝つ」その確信は、現証となって現れていった。塩を販売する塩野の店は、不買運動で、暮らしは困窮していたが、ある日、トビウオの大群が来て、大量のトビウオを保存するには、塩が必要であったが、塩を売っているのは、塩野の店だけで、人びとはやむなく彼女の店で、頭を下げて、塩を売ってくれと頼んだ。店の売り上げは倍以上になり、これを境に、この集落では 不買運動がなくなっていった。

だが、村の各集落では、依然として村八分が続いていて、しかも二回目のデモを計画し、その運動を全国に広げると放言していた。

山本伸一は、アメリカ・ヨーロッパ訪問から帰り、現状を詳しく尋ねると、奄美総支部長の野川に励ましのハガキを送った。また、事態の解決とメンバーの激励のために、再び最高幹部らを派遣することにした。

伸一は、奄美の問題についてあらゆる角度から分析を重ねていった。発端は、学会が支援した公明党候補者が当選し、村の出身である候補者が落選したことにある。村議らは、次の選挙で自分が落選することを恐れ、学会の排斥を画策した。これが、この事件の構図である。

問題は、なぜ、多くの村民が理不尽な扇動に乗ってしまったのかということである。

山本伸一は、奄美の人びとの目に、創価学会がどう映っていたのかを考えると、学会の情報は、偏見と悪意に歪められ、「香典を持っていく」「暴力宗教」「政治支配が目的だ」などといった、根も葉もない中傷誹謗ばかりであった。


村の人びとは、学会を誤解し、不気味な脅威を感じていたのであろう。村の人たちは、己の心の影ともいうべき妄想に怯え、冷静な判断力を失い、過激な学会の人権蹂躙へと走ってしまったのである。

島には、強い共同体意識があった。同胞は守り、庇う。しかし、外敵と見なせば、容赦なく排除する。その激しい気質を巧みに利用し、煽り立て、学会の弾圧に悪用したのだ。

知らざるゆえの誤解に基づく弾圧ーーそれがこの奄美の事件であるというのが、山本伸一の結論であった。この問題の根本的な解決は、地域の一人ひとりに対して、学会の真実を教え、誤解を解きほぐしていく以外にない。

郷土愛の強い奄美の人びとが、島を愛する学会員の心を知り、学会の目的と、その本当の姿を直視していくならば、誰よりも学会を理解し、共感するにちがいない。戦いとは、分断ではない。地域の発展のために結び合うことだ。

奄美に向かう幹部に伸一は「皆と仲良くすることが大切です」と伝えるよう言った。「皆さんの怒りも、苦しみも、悲しみも、私はよくわかっています。大多数の人たちは、仏法のことも、学会のこともわからずに、一部の有力者の言葉に乗って、学会を攻撃しているにすぎない。」

「私たちの目的は、自分が幸せになるとともに、すべての人を幸福にすることであり、地域を繁栄させることです。そのためには、柔和忍辱の衣を着て、大きな境涯で相手を包みながら、粘り強く対話を重ね、友情と信頼の絆を結び、広げていくことが大切になります。
」と言った。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

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学会撲滅のデモ

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P213~

3年後、1967年(昭和42年)鹿児島県議会議員選挙が行われ、奄美の大島郡地区では、公明党の候補が3位で初当選した。一方、この村の出身で、村の大多数が推した現職議員が、落選した。

村会議員や地域の有力者たちに動揺が広がった。翌年の村議選を控え、強い危機感を抱いた。また、地元出身の県会議員と繋がり、何かと便宜を図ってもらっていた有力者たちは、その後ろ盾を失ったことに、不安をいだいた。

そして、公明党を支援した創価学会に攻撃の矛先を向けた。村会議員や地域の有力者は、学会員野信心をやめさせ、学会の動きを封じようということで、もくろみが一致した。そして、各集落に呼びかけ、村をあげて学会員を圧迫し、締め出そうと謀ったのである。

もともと奄美は、選挙熱の高い地域であった。選挙となれば、現金も乱れ飛び、村や集落が真っ二つに分かれ、親戚同士で激しい争いとなったり、暴力沙汰になることも珍しくなかった。そんな風土のなかで、公明政治連盟の候補が当選を果たし、県議選でも、公明党の候補が議席を獲得したのである。

これまでの島の選挙や政治の旧弊に慣れてきた人たちの目には、学会の支援活動が、村や集落の団結を壊し、島を混乱させる危険が動きであるかのように、歪めて映ったのである。

学会員を締め出すという有力者たちの謀議は、直ちに行動に移された。会員から御本尊を没収したり、集落で学会員を締め出し、学会を辞めろと迫り、断れば、職場の解雇や、雇用の拒否、不買運動など、圧力をかけていった。

学会側が激励に回った後、深夜に脱会を迫るなど、一瞬として気を抜くことができない攻防戦が繰り広げられた。村の若者に取り囲まれ、「殺してやろうか」と脅迫された婦人もいた。しかし、同志は、"熱原の三烈士"を信心の鏡として、「いぬちんかぎり、きばらんば(命の限り頑張らなければ)との合言葉で、絶対負けまいと誓い合った。

5月に入ると3つの集落が合同して「学会撲滅」を掲げたデモを行った。約300人がバイクや大型バス、トラックや乗用車に分乗し、スピーカーを使って、学会への誹謗中傷を繰り返しながら村内を回っていった。

地元組織は、幹部と連絡をとり、このデモに対し、静観することにし、挑発にのって、暴力事件などを絶対に起こすことのないよう徹底されたのである。

"学会排斥デモ"は、地元の新聞で大きく取り上げられた。
山本伸一にこの出来事が伝えられたのは、デモのあった日の夜であった。

伸一は、厳しい口調で言った。「報告が遅すぎます。こうした大変な状況になるまでには、幾つもの段階があったはずです。最初の段階で手を打っていれば、問題をこじらせず、こんな事態になるのは防げたはずです。」

鹿児島や九州の幹部は知っていたが、大きな問題になるとは思わず、報告しなかったことを聞くと「本部の対処が遅れた分だけ、対立の溝が深まっていったように思う。幹部は、報告を受けたら、本部とよく連携をとり、直ちに反応することです。それが、同志の信頼につながる。」

「学会が、これまで、なぜ大発展してきたのか。それは、たとえ、北海道の原野の村で起きたことも、九州の山里で起きたことも、その日のうちに本部に報告され、即座に適切な手を打ってきたからです。つまり、緻密な連絡・報告そして、迅速な反応と対処があった。」

「連絡・報告が速やかに行われず、幹部がすぐに反応しない組織というのは、病んでいる状態といえる。いや、死んでいるようなものです。幹部が、惰性、マンネリに陥っている証拠といえます。そこに、油断が生じ、魔の付け入る隙ができてしまう。そして、結果的に、同志を苦しめることになる。怖いことです。」


早速、理事長の泉田と中心に検討し、学会本部から副理事長を派遣し、九州からも幹部を送り、この問題解決にあたることになった。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

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