小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

学は光

通教生の覚悟

『新・人間革命』第23巻 学光の章 145p

教職員のなかに、この年の春に、通信教育部のインストラクター(添削指導員)として採用された佐江一志がいた。彼は理容師をしながら、定時制高校、大学の通信教育部、二部に学び、大学院の修士・博士課程に進んだ青年であった。

佐江の生い立ちは複雑であった。父親の記憶はなく、父については何も知らされずに育ち、妹たちは、母に育てられたが、彼は祖父母のもとで幼少期を送った。母親への反発から非行に走った。

母親は息子の未来を憂えて学会に入会した。母親が懸命に唱題に励むと、後ろでギターをかき鳴らして妨害した。子を思う母の祈りが通じぬわけがない。佐江は理容師の免許を取り、店に出て働くようになった。この年、親孝行になればとの思いから勧めに従ったのだ。

18歳で、定時制高校に入学した。創価大学の通信教育の構想を知った時、母に尋ねた。「この信心は、必ず願いが叶うというのは本当かな。もし、そうなら、真剣に祈れば、俺でも創価大学の先生になれるのか」ささやかな願望ではあったが、本当になろうなどとは考えていなかった。

なれないに決まっていると思っていたからだ。むしろ、信心に熱心な母親を、困らせてみたいという気持ちの方が強かった。しかし、予想外の言葉が返ってきた。「なれますよ。なれますとも。お前がしっかりと題目を唱え、努力を続けていけば、絶対になれます!」その声は確信にあふれていた。

自分を信じ、期待してくれている人がいるーーそう自覚する時、人は大きな力を発揮することができる。"よしやってみよう!"彼は決意した。

22歳で定時制高校を卒業した佐江は、中央大学法学部の通信教育課程に進んだ。通信教育で単位を修得することは、佐江が予想していたより、はるかに困難であった。彼は二部へ転籍した。しかし、仕事の関係で、授業に出られるのは、定休日の月曜日だけであった。

夏期講習会の時に幹部に指導を受けた時、「本気で現在の境遇と戦う決意が感じられない」と厳しく指導される。その幹部から報告を受けた山本伸一から「勇気」と認めた色紙がおくられる。

佐江の前進に電撃が走った。まさに、自分に足りなかったのは、勇気であると思った。この瞬間彼の一念が変わった。すると、断じて勝ってみせるという挑戦の心がみなぎるのであった。一念の転換こそ、自分の境遇を変え、すべてを変革していく原動力となる。必死の一念は、苦境の岩盤を打ち砕く。

懸命に勉強し、中央大学二部を卒業。さらに、駒澤大学大学院の法学研究科に学び、行政書士、宅地建物取引主任者などの資格試験に合格。創価大学に通信教育部が開設されると、インストラクターに採用されたのだ。

彼は、通信教育部の建設に力を注ぎ、後年、教授となるのである。"創価大学の教員に"との、定時制高校生の夢は現実となった。固い決意、強盛な祈り、不断の努力がある限り、夢は叶う。いや、断じて叶えるのだ。そのための信仰である。

教職員たちは、決意した。"通信教育部から、ダイヤモンドのような多くの逸材を出そう!あらゆる面で、日本一、そして世界最高の通信教育にしよう!"

冬期試験が行われた12月19日には、全国の会場で、第1回正科生資格認定試験も実施された。これは、高校卒業などの資格はないが、通教で科目等を履修してきた特修生が、正科生となるための試験である。科目は、英語、国語、社会であった。試験は、決して容易ではない。しかし、特修生の多くが目標にし、なんと受験者の半数近くが合格し、正科生となったのである。

沖縄県の与那原盛治は、1930年宮古島島で生まれ、国民学校高等科を経て、当時、日本の植民地であった台湾の、逓信講習所の電信科に入った。仕事を始めて8か月で終戦を迎えた。15歳であった。もっと勉強したいという思いはあったが、戦後の激動期を生き抜くのに精いっぱいであった。通信教育部が開設されると、特修生となり、正科生資格認定試験に合格したのだ。46歳の挑戦であった。

与那原は、経済学部の学生となり、4年間で卒業単位を修得。沖縄で、創価大学通信教育部の第一号の卒業生となるのである。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

友情の絆を結ぶスクーリング

『新・人間革命』第23巻 学光の章 131p

夜、伸一は、大学の構内を車で回った。学生寮の近くを通ると、各部屋には、煌々と明かりがともっていた。「通教生は、みんな勉強しているんだね。夜食にパンと牛乳を届けるようにしよう。」
翌日、伸一は、通教生の激励に向かった。

各方面の通教生の代表10人と懇談することにしていた。ブロンズ像の前で、伸一を囲み、立ったまま、語らいが始まった。「このメンバーを『通信使命会』としてはどうでしょうか。何事も、発展していくためには、核となる人たちが必要です。皆さんには、ぜひ、通教生の核となっていただきたい。そして、母校を愛し、母校を守り、発展させていってください。また、まず皆さんが、あらゆる困難を乗り越え、卒業される日を待っています」

通教生たちは、語り合った。「これまで、"経済的に恵まれないために、通教生になった"という思いが強くあった。しかし、今は、むしろ、僕たちこそが、創価教育を体現する使命を担っているんだと思えるようになった。もう闘志満々だ。必ず頑張って、4年で卒業してみせるよ」
人間教育の本義は、一念を転換させ、自分の大いなる価値を目覚めさせることにある。

夏季スクーリングの前期の最終日、「学光祭」が行われた。これは、通教生を慰労し、親睦を深める"夏祭り"として、企画された催しであった。この「学光祭」は、毎年、夏季スクーリング中に行われ、創価大学に学ぶ通教生の伝統行事となっていくのである。

閉講式には、メッセージを託し、奮闘を心から讃えたのである。帰途に就く通教生たちの姿があった。伸一は、急いで車を降りた。"直接会って励まそう!今しかない"瞬時を逃すな。時は再び巡りくると思うなーーそれが、「臨終只今」の決意に生きる、彼の行動哲学であった。

伸一は、メンバーと次々と握手を交わしていった。そして、決意をかみしめるように語った。「私も勉強します。これから、さらに、世界の学者や指導者と、人類の未来のために対談を重ねていきます。学ぼう。学びに学んでいこうよ」伸一の言葉に、通教生たちは粛然とした。その炎のような向学心に、感嘆したのだ。

札幌農学校で初代教頭として教育に当たったクラーク博士は、農学校を去る時、見送りに来た学生たちに「boys be ambitious」との、有名な言葉を残している。クラーク博士の教え子で、札幌農学校の教授も務めた大島正健によれば、クラーク博士は、その言葉に続いて、「like this old man」と語ったという。「この老人」とは、博士自身である。つまり、"自分のように、君たちは大志を抱くのだ!"と叫んだのである。

真の人間教育とは、生き方を通しての、人格的触発によってなされるものだ。ゆえに伸一は常に新しき前進と向上と挑戦を、自らに課し続けていたのである。

通教生たちにとってスクーリングの大きな収穫の一つが、全国各地の学友を知ったことであった。友情という絆を結ぶなかで、個人のもつ勇気が、力が、発揮されるのである。

9月から11月までは、日曜などの休日に行われる秋期スクーリングが実施された。山本伸一は、通教生が集っていることを聞くと、授業終了後、一緒に記念撮影をするよう提案した。そのあと、通信教育を担当している教職員たちにイスを勧め、懇談した。

伸一は、懇願する思いで語った。「通教生は、わが大学の誇りであり、宝です。みんな、苦労しながら学んでいる。そうした人たちのなかから、ダイヤモンドのような逸材が出てくるんです。どうか先生方は、一人ひとりを、心から大切にしていただきたい」

試練に身をさらし、生命を磨いてこそ、人は光り輝いていく。したがって、見方を変えるならば、通教生こそ、自らを輝かせる最高の環境にいるといってもよい。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

学は光 無学は闇

『新・人間革命』第23巻 学光の章 121p

創価大学の通信教育は、「学校教育法」に基づいて行われる正規の大学教育である。高等学校卒業又は同等の資格を有する人が入学でき、正課課程を卒業すれば、「学士号」を取得できる。76年2月から、通信教育部の入学願書の受け付けが始まった。願書は全国各地から寄せられ、昭和51年度一期生は2千人を超えたのである。

伸一が、テーマとしていたことの一つは、通信教育は卒業生が少ないという問題を、どうやって乗り越えるかであった。彼は、大学側にも、「入学してくる通教生が、少しでも多く、卒業できるよう、最大の尽力をしていただきたい」と要望していた。

人間が情熱を燃やし、信念を貫き通していくには、「人」の存在が不可欠なのだ。そのために、善き人間関係を築く組織が、どうしても必要になってくるのである。

教員たちは考え抜いた。まず、出発段階にできることとして、通教生の相談にのり、アドバイスする「指導員」を、各都道府県に置いたらどうだろうか。伸一も、大賛成であった。

通信教育部で発行する機関誌の名前が決まらないというので、「学光」はどうだろうかと言った。「『学は光、無学は闇」と言うじゃないか。それにちなんで、学ぶ光、『学光』と書くんだ」「学光」--学の光をもって、わが人生を、そして、社会を照らしゆくのだ。それは、創価大学の通信教育を象徴する、永遠の指針が決まった瞬間であった。

満を持しての通信教育部の開学であった。ガイダンスが終わったころから、雨が降り始めた。傘を持っていない人も多かった。通学課程の学生たちが並んで、左右から傘を差し掛けてくれていた。その"花道"は、八王子駅までの臨時バスが出る、ロータリーまで続いていた。

通学生たちは、働きながら学ぶ"学友"たちを誇りに思い、尊敬し、心から祝福したかったのである。それが創大生の心である。いよいよ通信教育がスタートした。

通教生のもとには、ダンボールに梱包されて、何冊もの教科書が送られてきた。通信教育の勉強は、教科書を読み、与えられている課題についてのリポートを書くことと、スクーリングで直接、授業を受けることに大別される。

リポート提出という関門のあと、さらに、科目試験が待っているのである。通教生は、卒業に必要な124単位のうち、スクーリングで、30単位以上を習得する。この単位はリポートでは修得できず、夏か秋のスクーリングに参加し、授業を受け、試験を受けなければならなかった。

スクーリングに参加すること自体が、大変な"戦い"であった。教室の席は、先を争うようにして前から順に埋まっていった。

スクーリングは、直接、講義を聴くことができる貴重な時間である。職場や家族の理解と協力を得て、時間をつくり、費用を捻出して参加したのだ。決して無駄にするわけにはいかなかった。

厳しい条件のなかで挑戦する人は、真剣である。その真剣さが、自らを鍛え、強くし、大成への力となっていくのだ。ゆえに、苦境こそ、幸福の母となるのである。

通信教育部の授業を担当するのは、通学課程同様、学長をはじめ、学部長、教授などの、優れた教授陣である。その教員たちを驚嘆させたのは、通教生の真剣な受講態度であった。

なかには、教員よりも年上の学生もいる。その人たちが、目を輝かせ、一言も聞き漏らすまいと講義に耳を傾ける姿に、教員たちは新鮮な息吹を感じた。

講義にも、自然に力がこもっていった。教員たちは、通教生には幅広い年代や、さまざまな学歴の人がいるだけに、専門用語も、わかりやすく、かみ砕いて説明した。いかに、わかりやすく伝えるかーーそこにこそ、民衆に聞かれた教育の生命線がある。

どんな高邁な内容の話であっても、それが人びとに伝わらなければ、話し手の自己満足に終わってしまう。そこに、ともすれば、学者や専門家が陥りがちな落とし穴がある。

多くの教員が、通信教育の教科書も、自分たちで執筆したのである。授業が終わると、通教生たちは、質問するために、教員を取り囲んだ。教員たちは、むしろ、それを喜び、休み時間を返上して、一つ一つの質問に、親切に答えていった。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

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