『新・人間革命』第23巻 学光の章 145p
教職員のなかに、この年の春に、通信教育部のインストラクター(添削指導員)として採用された佐江一志がいた。彼は理容師をしながら、定時制高校、大学の通信教育部、二部に学び、大学院の修士・博士課程に進んだ青年であった。
佐江の生い立ちは複雑であった。父親の記憶はなく、父については何も知らされずに育ち、妹たちは、母に育てられたが、彼は祖父母のもとで幼少期を送った。母親への反発から非行に走った。
母親は息子の未来を憂えて学会に入会した。母親が懸命に唱題に励むと、後ろでギターをかき鳴らして妨害した。子を思う母の祈りが通じぬわけがない。佐江は理容師の免許を取り、店に出て働くようになった。この年、親孝行になればとの思いから勧めに従ったのだ。
18歳で、定時制高校に入学した。創価大学の通信教育の構想を知った時、母に尋ねた。「この信心は、必ず願いが叶うというのは本当かな。もし、そうなら、真剣に祈れば、俺でも創価大学の先生になれるのか」ささやかな願望ではあったが、本当になろうなどとは考えていなかった。
なれないに決まっていると思っていたからだ。むしろ、信心に熱心な母親を、困らせてみたいという気持ちの方が強かった。しかし、予想外の言葉が返ってきた。「なれますよ。なれますとも。お前がしっかりと題目を唱え、努力を続けていけば、絶対になれます!」その声は確信にあふれていた。
自分を信じ、期待してくれている人がいるーーそう自覚する時、人は大きな力を発揮することができる。"よしやってみよう!"彼は決意した。
22歳で定時制高校を卒業した佐江は、中央大学法学部の通信教育課程に進んだ。通信教育で単位を修得することは、佐江が予想していたより、はるかに困難であった。彼は二部へ転籍した。しかし、仕事の関係で、授業に出られるのは、定休日の月曜日だけであった。
夏期講習会の時に幹部に指導を受けた時、「本気で現在の境遇と戦う決意が感じられない」と厳しく指導される。その幹部から報告を受けた山本伸一から「勇気」と認めた色紙がおくられる。
佐江の前進に電撃が走った。まさに、自分に足りなかったのは、勇気であると思った。この瞬間彼の一念が変わった。すると、断じて勝ってみせるという挑戦の心がみなぎるのであった。一念の転換こそ、自分の境遇を変え、すべてを変革していく原動力となる。必死の一念は、苦境の岩盤を打ち砕く。
懸命に勉強し、中央大学二部を卒業。さらに、駒澤大学大学院の法学研究科に学び、行政書士、宅地建物取引主任者などの資格試験に合格。創価大学に通信教育部が開設されると、インストラクターに採用されたのだ。
彼は、通信教育部の建設に力を注ぎ、後年、教授となるのである。"創価大学の教員に"との、定時制高校生の夢は現実となった。固い決意、強盛な祈り、不断の努力がある限り、夢は叶う。いや、断じて叶えるのだ。そのための信仰である。
教職員たちは、決意した。"通信教育部から、ダイヤモンドのような多くの逸材を出そう!あらゆる面で、日本一、そして世界最高の通信教育にしよう!"
冬期試験が行われた12月19日には、全国の会場で、第1回正科生資格認定試験も実施された。これは、高校卒業などの資格はないが、通教で科目等を履修してきた特修生が、正科生となるための試験である。科目は、英語、国語、社会であった。試験は、決して容易ではない。しかし、特修生の多くが目標にし、なんと受験者の半数近くが合格し、正科生となったのである。
沖縄県の与那原盛治は、1930年宮古島島で生まれ、国民学校高等科を経て、当時、日本の植民地であった台湾の、逓信講習所の電信科に入った。仕事を始めて8か月で終戦を迎えた。15歳であった。もっと勉強したいという思いはあったが、戦後の激動期を生き抜くのに精いっぱいであった。通信教育部が開設されると、特修生となり、正科生資格認定試験に合格したのだ。46歳の挑戦であった。
与那原は、経済学部の学生となり、4年間で卒業単位を修得。沖縄で、創価大学通信教育部の第一号の卒業生となるのである。
教職員のなかに、この年の春に、通信教育部のインストラクター(添削指導員)として採用された佐江一志がいた。彼は理容師をしながら、定時制高校、大学の通信教育部、二部に学び、大学院の修士・博士課程に進んだ青年であった。
佐江の生い立ちは複雑であった。父親の記憶はなく、父については何も知らされずに育ち、妹たちは、母に育てられたが、彼は祖父母のもとで幼少期を送った。母親への反発から非行に走った。
母親は息子の未来を憂えて学会に入会した。母親が懸命に唱題に励むと、後ろでギターをかき鳴らして妨害した。子を思う母の祈りが通じぬわけがない。佐江は理容師の免許を取り、店に出て働くようになった。この年、親孝行になればとの思いから勧めに従ったのだ。
18歳で、定時制高校に入学した。創価大学の通信教育の構想を知った時、母に尋ねた。「この信心は、必ず願いが叶うというのは本当かな。もし、そうなら、真剣に祈れば、俺でも創価大学の先生になれるのか」ささやかな願望ではあったが、本当になろうなどとは考えていなかった。
なれないに決まっていると思っていたからだ。むしろ、信心に熱心な母親を、困らせてみたいという気持ちの方が強かった。しかし、予想外の言葉が返ってきた。「なれますよ。なれますとも。お前がしっかりと題目を唱え、努力を続けていけば、絶対になれます!」その声は確信にあふれていた。
自分を信じ、期待してくれている人がいるーーそう自覚する時、人は大きな力を発揮することができる。"よしやってみよう!"彼は決意した。
22歳で定時制高校を卒業した佐江は、中央大学法学部の通信教育課程に進んだ。通信教育で単位を修得することは、佐江が予想していたより、はるかに困難であった。彼は二部へ転籍した。しかし、仕事の関係で、授業に出られるのは、定休日の月曜日だけであった。
夏期講習会の時に幹部に指導を受けた時、「本気で現在の境遇と戦う決意が感じられない」と厳しく指導される。その幹部から報告を受けた山本伸一から「勇気」と認めた色紙がおくられる。
佐江の前進に電撃が走った。まさに、自分に足りなかったのは、勇気であると思った。この瞬間彼の一念が変わった。すると、断じて勝ってみせるという挑戦の心がみなぎるのであった。一念の転換こそ、自分の境遇を変え、すべてを変革していく原動力となる。必死の一念は、苦境の岩盤を打ち砕く。
懸命に勉強し、中央大学二部を卒業。さらに、駒澤大学大学院の法学研究科に学び、行政書士、宅地建物取引主任者などの資格試験に合格。創価大学に通信教育部が開設されると、インストラクターに採用されたのだ。
彼は、通信教育部の建設に力を注ぎ、後年、教授となるのである。"創価大学の教員に"との、定時制高校生の夢は現実となった。固い決意、強盛な祈り、不断の努力がある限り、夢は叶う。いや、断じて叶えるのだ。そのための信仰である。
教職員たちは、決意した。"通信教育部から、ダイヤモンドのような多くの逸材を出そう!あらゆる面で、日本一、そして世界最高の通信教育にしよう!"
冬期試験が行われた12月19日には、全国の会場で、第1回正科生資格認定試験も実施された。これは、高校卒業などの資格はないが、通教で科目等を履修してきた特修生が、正科生となるための試験である。科目は、英語、国語、社会であった。試験は、決して容易ではない。しかし、特修生の多くが目標にし、なんと受験者の半数近くが合格し、正科生となったのである。
沖縄県の与那原盛治は、1930年宮古島島で生まれ、国民学校高等科を経て、当時、日本の植民地であった台湾の、逓信講習所の電信科に入った。仕事を始めて8か月で終戦を迎えた。15歳であった。もっと勉強したいという思いはあったが、戦後の激動期を生き抜くのに精いっぱいであった。通信教育部が開設されると、特修生となり、正科生資格認定試験に合格したのだ。46歳の挑戦であった。
与那原は、経済学部の学生となり、4年間で卒業単位を修得。沖縄で、創価大学通信教育部の第一号の卒業生となるのである。
太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋