小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

奄美大島

さんふらわ7号で訪れた四国の同志

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 206p~

四国のメンバーは、神奈川文化会館の館内や、会館の敷地内にある戸田平和記念館を見学した。同記念館は、前年の1979年(昭和54年)8月にオープンしており、通称「イギリス7番館」といわれていた、歴史ある赤レンガ造りの建物を、補修・改修したものである。

第二代会長・戸田城聖が、「原水爆禁止宣言」を発表したことから、その精神と意義をとどめるとともに、反戦・平和の資料を展示し、広く市民に公開するために誕生した記念館であった。四国の同志は、展示品を鑑賞し、テープを聴き、戦争の悲惨さを再確認しただけでなく創価学会が世界平和の大潮流を巻き起こしていることを実感した。そして、平和建設への誓いを新たにしたのである。

伸一は、何人かの同志に、次々と声をかけていった。そして、四国の壮年幹部らに語り始めた。「幹部は、決して威張ったり、人を叱ったりしてはいけないよ。戸田先生は、弟子を叱られることがあったが、そこには、深い意味がありました。第一に、広宣流布のために弟子を訓練し、自分と同じ境涯に高め、一切を託そうとされる場合です。

第二に、魔に信心を妨げられている人を、どうしても立ち上がらせたいという時に、その魔を打ち破るために、叱られた。人間には、直情径行であるために皆と調和できない人や、自滅的な考えに陥ってしまう人、困難を避けて通ろうとする人、いざとなると責任転換をしたり、ごまかそうとしたりする人もいる。

そうした傾向性や、その背後に潜む弱さ、ずるさ、臆病が一因となり、魔となって、自身の信心の成長を妨げ、さらに幸福への道を誤らせてしまう。ゆえに戸田先生は、その一凶を自覚させ、断ち切るために、叱られることがありました。

第三に、多くの人びとに迷惑をかけ、広宣流布の団結を乱している時などは、本人のため、皆のために、それをやめさせようとして叱ることがありました。つまり、いかなる場合も戸田先生の一念の奥底にあるのは、大慈大悲でした。

それもわからず、言動の一端を真似て、同志を叱るようなことがあっては絶対にならないし、どんな幹部にもそんな権利はありません。誤りを正さなければならない場合でも、諄々と話していけばよいことです」

“私たちは、断じて学会精神を継承していきます。いかなる事態になろうが、広宣流布の道を開き抜いていきます。四国は負けません。創価の勝利の旗を翻してまいります!”求道の思い熱き同志の目に、涙が光った。

「さんふらわあ7」号の出航を告げる汽笛が夜の海に響いた。船は静かに離岸し始めた。文化会館の明かりが一斉に消えた。上層階の窓に、幾つもの小さな光が揺れている。「今、山本先生と奥様が、最上階で懐中電灯を振って,見送ってくださっています」伸一たちは、船が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも懐中電灯振り続けた。

1か月後の2月17日、鹿児島県奄美大島地域本部の女子部員86人が、山本伸一がいた東京・立川文化会館を訪問したのである。かつて、奄美大島の一部の地域で、学会員への激しい迫害事件があった。村の有力者らが御本尊を没収したり、学会員の働き場所を奪ったりするなどの仕打ちが続いた。

生活必需品も売ってもらえなかった。車を連ねて学会排斥のデモが行われたこともあった。奄美の女子部員は、少女時代にそうした逆風のなかで、父や母たちが悔し涙を堪え、自他共の幸せを願って、懸命に弘教に励む姿を目の当たりにしてきた。

奄美大島地域本部の女子部長である長田麗も、その一人であった。長田は、宗門による学会批判が激しさを増した時、地元寺院の住職の妻から呼び出され、学会の悪口を聞かされ、宗門につくのか、学会につくのかを迫られた。

彼女は、毅然としていった。「私たちに信心を教えてくれたのは学会です。私たちを励ましてくれたのも、山本先生であり、学会です。宗門ではありません!」奄美に脈打つ、「スットゴレ!」(負けてたまるか)の敢闘精神は、時代を担う若き世代に、しっかりと受け継がれていたのだ。

長田は、皆に訴えた。「今こそ私たちは、創価の勝利を打ち立てて、東京へ、創価女子会館へ、山本先生のもとへ行きましょう!」彼女は、女子部員の激励に、島から島へと走った。どんなに、地理的に遠い地域にいても、広布に進む師弟に心の距離はない。広大な海も、峨々たる山々も、師弟の心を引き離すことはできなかった。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
0

奄美の創価学会員迫害の構図

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P232~

派遣幹部は、村八分によって生活が脅かされたり、暴力をふるわれた会員がいることから、鹿児島地方法務局の名瀬支局へ、人権侵害の実態の調査を依頼するとともに、集落の首脳らを名瀬警察署に告訴した。もはや、法的手段に出なければ、同志の人権は守りきれないところまできていたのである。

告訴された有力者のなかには、自分たちの行き過ぎを後悔する人、村八分に加担した人が、警察に引っ張られたくないと集落の首脳に詰め寄る場面もあった。

一方、学会員は心を一つにし、村八分に対しても、可能な限り、学会員同士で、協力し、守り合った。不買運動に泣く会員の店に遠くから買いに行ったり、紬工場の織子がやめて困っているところには、婦人部や女子部が 織子になって応援した。

「絶対に負けない」「最後は、必ず勝つ」その確信は、現証となって現れていった。塩を販売する塩野の店は、不買運動で、暮らしは困窮していたが、ある日、トビウオの大群が来て、大量のトビウオを保存するには、塩が必要であったが、塩を売っているのは、塩野の店だけで、人びとはやむなく彼女の店で、頭を下げて、塩を売ってくれと頼んだ。店の売り上げは倍以上になり、これを境に、この集落では 不買運動がなくなっていった。

だが、村の各集落では、依然として村八分が続いていて、しかも二回目のデモを計画し、その運動を全国に広げると放言していた。

山本伸一は、アメリカ・ヨーロッパ訪問から帰り、現状を詳しく尋ねると、奄美総支部長の野川に励ましのハガキを送った。また、事態の解決とメンバーの激励のために、再び最高幹部らを派遣することにした。

伸一は、奄美の問題についてあらゆる角度から分析を重ねていった。発端は、学会が支援した公明党候補者が当選し、村の出身である候補者が落選したことにある。村議らは、次の選挙で自分が落選することを恐れ、学会の排斥を画策した。これが、この事件の構図である。

問題は、なぜ、多くの村民が理不尽な扇動に乗ってしまったのかということである。

山本伸一は、奄美の人びとの目に、創価学会がどう映っていたのかを考えると、学会の情報は、偏見と悪意に歪められ、「香典を持っていく」「暴力宗教」「政治支配が目的だ」などといった、根も葉もない中傷誹謗ばかりであった。


村の人びとは、学会を誤解し、不気味な脅威を感じていたのであろう。村の人たちは、己の心の影ともいうべき妄想に怯え、冷静な判断力を失い、過激な学会の人権蹂躙へと走ってしまったのである。

島には、強い共同体意識があった。同胞は守り、庇う。しかし、外敵と見なせば、容赦なく排除する。その激しい気質を巧みに利用し、煽り立て、学会の弾圧に悪用したのだ。

知らざるゆえの誤解に基づく弾圧ーーそれがこの奄美の事件であるというのが、山本伸一の結論であった。この問題の根本的な解決は、地域の一人ひとりに対して、学会の真実を教え、誤解を解きほぐしていく以外にない。

郷土愛の強い奄美の人びとが、島を愛する学会員の心を知り、学会の目的と、その本当の姿を直視していくならば、誰よりも学会を理解し、共感するにちがいない。戦いとは、分断ではない。地域の発展のために結び合うことだ。

奄美に向かう幹部に伸一は「皆と仲良くすることが大切です」と伝えるよう言った。「皆さんの怒りも、苦しみも、悲しみも、私はよくわかっています。大多数の人たちは、仏法のことも、学会のこともわからずに、一部の有力者の言葉に乗って、学会を攻撃しているにすぎない。」

「私たちの目的は、自分が幸せになるとともに、すべての人を幸福にすることであり、地域を繁栄させることです。そのためには、柔和忍辱の衣を着て、大きな境涯で相手を包みながら、粘り強く対話を重ね、友情と信頼の絆を結び、広げていくことが大切になります。
」と言った。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

0

学会撲滅のデモ

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P213~

3年後、1967年(昭和42年)鹿児島県議会議員選挙が行われ、奄美の大島郡地区では、公明党の候補が3位で初当選した。一方、この村の出身で、村の大多数が推した現職議員が、落選した。

村会議員や地域の有力者たちに動揺が広がった。翌年の村議選を控え、強い危機感を抱いた。また、地元出身の県会議員と繋がり、何かと便宜を図ってもらっていた有力者たちは、その後ろ盾を失ったことに、不安をいだいた。

そして、公明党を支援した創価学会に攻撃の矛先を向けた。村会議員や地域の有力者は、学会員野信心をやめさせ、学会の動きを封じようということで、もくろみが一致した。そして、各集落に呼びかけ、村をあげて学会員を圧迫し、締め出そうと謀ったのである。

もともと奄美は、選挙熱の高い地域であった。選挙となれば、現金も乱れ飛び、村や集落が真っ二つに分かれ、親戚同士で激しい争いとなったり、暴力沙汰になることも珍しくなかった。そんな風土のなかで、公明政治連盟の候補が当選を果たし、県議選でも、公明党の候補が議席を獲得したのである。

これまでの島の選挙や政治の旧弊に慣れてきた人たちの目には、学会の支援活動が、村や集落の団結を壊し、島を混乱させる危険が動きであるかのように、歪めて映ったのである。

学会員を締め出すという有力者たちの謀議は、直ちに行動に移された。会員から御本尊を没収したり、集落で学会員を締め出し、学会を辞めろと迫り、断れば、職場の解雇や、雇用の拒否、不買運動など、圧力をかけていった。

学会側が激励に回った後、深夜に脱会を迫るなど、一瞬として気を抜くことができない攻防戦が繰り広げられた。村の若者に取り囲まれ、「殺してやろうか」と脅迫された婦人もいた。しかし、同志は、"熱原の三烈士"を信心の鏡として、「いぬちんかぎり、きばらんば(命の限り頑張らなければ)との合言葉で、絶対負けまいと誓い合った。

5月に入ると3つの集落が合同して「学会撲滅」を掲げたデモを行った。約300人がバイクや大型バス、トラックや乗用車に分乗し、スピーカーを使って、学会への誹謗中傷を繰り返しながら村内を回っていった。

地元組織は、幹部と連絡をとり、このデモに対し、静観することにし、挑発にのって、暴力事件などを絶対に起こすことのないよう徹底されたのである。

"学会排斥デモ"は、地元の新聞で大きく取り上げられた。
山本伸一にこの出来事が伝えられたのは、デモのあった日の夜であった。

伸一は、厳しい口調で言った。「報告が遅すぎます。こうした大変な状況になるまでには、幾つもの段階があったはずです。最初の段階で手を打っていれば、問題をこじらせず、こんな事態になるのは防げたはずです。」

鹿児島や九州の幹部は知っていたが、大きな問題になるとは思わず、報告しなかったことを聞くと「本部の対処が遅れた分だけ、対立の溝が深まっていったように思う。幹部は、報告を受けたら、本部とよく連携をとり、直ちに反応することです。それが、同志の信頼につながる。」

「学会が、これまで、なぜ大発展してきたのか。それは、たとえ、北海道の原野の村で起きたことも、九州の山里で起きたことも、その日のうちに本部に報告され、即座に適切な手を打ってきたからです。つまり、緻密な連絡・報告そして、迅速な反応と対処があった。」

「連絡・報告が速やかに行われず、幹部がすぐに反応しない組織というのは、病んでいる状態といえる。いや、死んでいるようなものです。幹部が、惰性、マンネリに陥っている証拠といえます。そこに、油断が生じ、魔の付け入る隙ができてしまう。そして、結果的に、同志を苦しめることになる。怖いことです。」


早速、理事長の泉田と中心に検討し、学会本部から副理事長を派遣し、九州からも幹部を送り、この問題解決にあたることになった。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

奄美大島の村八分事件

『新・人間革命』第13巻 光城の章 P199~

1968年11月、山本伸一は、奄美空港に降り立った。5年ぶり2度目の訪問であった。奄美大島会館へ向かう車中、前年に起きた、学会員への大々的な弾圧事件のことを訪ねた。一応の解決はみたが、学会への偏見は、根強いものがあるとの報告に、伸一は「誤解が晴れ、偏見が払しょくされるには、長い年月が必要です。何があっても、粘り強く、がんばりぬいていくしかない。」

「こうした難が起こったということは、奄美の同志の信心も、いよいよ本物になったということです。あの事件は、奄美広布の飛躍台なんです。」
と話し、車中、静かに題目を唱え、深く祈りを捧げた。

弘教の波が広がったのは、村の出身者である富岡トキノが福岡から帰って来てからであった。彼女は、父が決めた相手と結婚し、男の子を設けるがその夫に妻子がいることが発覚し、子どもを連れ、家を飛び出し、神戸で再婚した。奄美に帰っていた父親から、家の跡取りが必要と息子を取り上げられたが、新しい夫の間に娘が誕生し、幸せを手に入れたと思った矢先夫が結核で他界。店も火事になり、従業員に店の鐘を持ち逃げされるなど、失意のどん底に叩き落された。

そんななかで、学会員に出会い「宿命転換」の仏法の話を聞き、入会する。トキノは、結核に侵されていたが、折伏に励み、相手に池に突き落とされたこともあったが、微動だにせず学会活動に励むなか、幾つもの体験をつかみ、病も克服した。

そして、故郷の村に帰り、離れて暮らしていた息子とも一緒に信心に励むようになる。集落二百数十軒の家を、くまなく折伏してあるくが、土俗信仰の根強い地域であり、人びとの反発は強かった。さらに、学会員が神社の修復の寄付を拒んだことから大騒ぎになり、集落の人たちは、彼女たち一家を村八分にする取り決めを行った。

店では、何も売ってくれなくなり、祭りの日には神輿を家にぶつけられ、仕事も断られ、収入源も断たれてしまった。娘は学校でいじめられたが、母子は、明るさを失わなかった。トキノは、大聖人の御書の通りだと話し、何があっても『スットゴレ!』(なにくその意味)で頑張ろうと負けなかった。

息子は、ハブを買い取る制度ができたので、ハブを追って山の中を駆け回った。母子への圧迫は続いていたが、集落にあった神社が台風で吹き飛んだり、迫害の中心人物が、病にかかるなどの事態が生じ、村人たちは、学会の信心を悪く言うと、悪いことが起こると噂し、村八分は次第に解消されていった。

しかし、富岡母子に対する、この村八分は、その後に起こる迫害事件のほんの序章にすぎなかった。

初夏のある日、トキノが20人ほどのメンバーに御書講義をしているところに、村会議員で、学会を誹謗していた男が、酒に酔って入ってきた。男は、御書の文に難癖をつけ、トキノの手をつかみねじり上げ、顔面を殴打した。

男は、今度の選挙に公明政治連盟から候補者が出ることを知り、「俺にも票を回せ!」と叫んだ。男が暴れ出すことを心配し、皆が題目を唱え始めると、男は逃げるように帰っていった。
トキノは、「これで宿命転換ができると思う」とますます元気になっていた。

島では、選挙のたびに、そうめんや焼酎などを配り、投票依頼をするといった買収行為が後をたたなかった。8月30日に投票が行われると公政連の候補者は 1位で当選した。この選挙で、苦戦した現職議員や落選した候補者は、学会に見当ちがいな恨みをいだいた。そして、村の一、二の集落で、学会員が村八分にされるなどの事件が起こっている。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』