『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 149p

メンバーは、勇んで熊本文化会館をめざした。苦闘を勝ち越えた同志の胸には厳として師がいた。遠く離れていようが、何があろうが、共に広布に戦う師弟は金剛の絆で結ばれている。自由勤行会は、希望みなぎる新しき旅立の集いとなった。

「天草宣言」には、こうある。「我ら“妙法の天草四郎”は、生涯青春の信心をもって、生き生きと、広宣流布の模範の地としゆくことを、ここに誓う」

伸一は、確信のこもった声で言った。「広宣流布に生き、弘教に励むならば、経文、御書に照らして、難が競い起こることは間違いない。これまでに私たちが受けてきた難も、すべて法華経の信心をしたがゆえに起こったものです。

しかし、『開目抄』に説かれているように難即成仏です。広宣流布に戦い、難を呼び起こし、それをバネに偉大なる人生へ、無上の幸福へと大飛躍していく力が信心なんです。また、万策尽きて、生活や人生で敗れるようなことがあったとしても、私達には御本尊がある。信心さえ破られなければ、必ず最後は勝ちます。いや、すべての労苦を、その後の人生に、財産として生かしていけます。

安穏な人生が、必ずしも幸福とは言い切れません。また、難があるから不幸なのではない。要は、何があっても負けない、強い自己自身をつくることができれば、悠々と、あたかも波乗りを楽しむように、試練の荒波も乗り越えていくことができる。そのための信心であり、仏道修行なんです。

ゆえに、いかなる大難があろうが、感傷的になるのではなく、明るく、朗らかに、信念の人生を生き抜いていただきたい。

熊本といえば、『田原坂』の歌が有名ですが、人生には、いろいろな坂がある。広宣流布の道にも、“越すにこされぬ”険路がある。しかし、広布の使命に生きる私たちは、その宿命的な坂を、一つ一つ、なんとしても乗り越えていかねばならない。その戦いが人生であり
、信心です。小さな坂で、へこたれては、絶対になりません」

参加者は壱町畑公園に向かった。ここで記念撮影をすることになっていたのである。1500人という大人数の撮影となるため、高い場所からでないと、全員がカメラに納まりきらないのである。

伸一は、皆に提案した。「皆さんは、試練の坂を、見事に越え、“勝利の春”を迎えた。一緒に、胸を張って、「田原坂」を大合唱しましょう!」皆、”これからも、どんな苦難の坂があろうが、断固、越えてみせます!”と誓いながら、声を限りに歌った。

伸一は、年の瀬も、東京の板橋、江東、世田谷、江戸川の各区を訪問し、さらに神奈川文化会館を訪れている。御請訓に「火をきるに・やすみぬれば火をえず」と。全精魂を注いでの間断なき闘争によってこそ、広布の道は切り開かれるのだ。

1982年(昭和57年)学会は、この年を、「青年の年」と定め、はつらつと21世紀へのスタートを切った。“いよいよ青年の時代の幕が開いた!”彼は、各方面に行くたびに、そのことを強く実感していた。“創価の全同志よ!時は今だ。今こそ戦うのだ。青年と共に広布の上げ潮をつくろう”

彼は、この一年こそ、新世紀への勝利の流れを開く勝負の年であると心に決めていた。それには、自らが同志の中に入り、語らいを重ね、率先垂範をもって皆を鼓舞し、触発していく以外ないと結論していた。闘将は、闘将によってのみ育まれる。

1月2日、この日は伸一の54歳の誕生日であった。創価高校サッカー部の選手たちは、「初戦の勝利をもって、創立者の誕生日をお祝いしよう」と誓い合った。試合は、PK戦となった。そして、創価高校が勝利したのだ。“負けじ魂”が光る勝負であった。この試合は、テレビで中継されており、学園寮歌「草木は燃ゆる」の歌声が流れ、胸を張って熱唱する選手たちの凛々しい表情が放映された。

“苦闘する同志を応援しよう!”伸一は、年頭から激戦の地へと走ったのである。目黒の同志は、傲慢で冷酷な僧らの攻撃によってさんざん苦しめられてきた。それは、まさしく、学会の発展を妬んだ、広布破壊の悪行であった。

伸一は、日記に記した。「僧の悪逆には、皆が血の涙を流す。此の世にあるまじきこと也。多くの苦しんでいった友を思うと、紅涙したたる思いあり。御仏智と信心は必ず証明される」目黒の法友は、不屈の信心で立ち上がった。そして、この年、目黒の師子たちは「弘教1015世帯」という全国一の見事な発展を成し遂げていくのである。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋