『新・人間革命』第23巻 勇気の章 247p
山本伸一は、7月に行われる参議院議員選挙でも、大阪地方区の支援の最高責任者として指揮を執った。支援する会員の世帯数から見ても、東京地方区での当選は、ほぼ間違いないが、大阪地方区での当選は不可能であるというのが、大方の予測であった。
しかし、結果は、人びとの予想を覆して、なんと東京が落選し、大阪が当選を果たしたのである。大阪の勝利は、朝日新聞が「"まさか"が実現」との見出しを掲げるほどの、壮挙であったのである。
翌1957年(昭和32年)4月、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた。山本伸一は、再び戸田城聖から、この選挙支援の最高責任者に任命された。この補欠選挙は、一議席をめぐっての戦いである。学会が推薦したが当選することなど、あり得ない選挙戦といえた。しかし、戸田は、あえてその選挙戦の指揮を、伸一に執らせた。
獅子が、我が子を谷底に突き落とすといわれるように、戸田は、伸一を、勝算のない、熾烈な戦線に投げ入れたのだ。
選挙戦の終盤、候補者の名前を書いたタバコを配るなどの、選挙違反事件が大々的に報じられた。公明選挙を訴え続けてきた伸一には、寝耳に水の出来事であった。悪質な選挙妨害ではないかとさえ思った。しかし、なんとそれは、東京から英雄気取りで乗り込んで来た、心ない会員が引き起こした事件であることが、やがて明らかになるのだ。
この違反事件が、勝利を決するうえでの大きな障害となった。結果は敗北に終わった。補欠選挙から二か月余が過ぎた7月3日、伸一は、この選挙違反について事情聴取を求められ、自ら大阪府警本部に出頭した。そして、違反は彼の指示であるとの事実無根の容疑で、逮捕されたのである。
拘留は15日間に及んだ。過酷な取り調べが続いた。容疑を認めない伸一に対し、検察は、罪を認めなければ、「会長の戸田を逮捕する」と言いだしたのだ。戸田が、逝去する9か月前のことである。戸田の衰弱は、既に激しかった。逮捕は、死にもつながりかねない。独房での苦悶の末、伸一は、容疑を認め、裁判の場で真実を明らかにすることを決意したのである。
ひとたびは一身に罪を被り、法廷で正義を証明しようと決意した山本伸一が、大阪拘置所を出たのが、1957年の7月17日であった。この日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪大会が行われた。それは、伸一の不当逮捕への憤怒と、権力の魔性を打ち砕き、断じて創価の正義を証明せんとする、関西の決起の日となったのである。
「最後は、信心しきった者が、大御本尊様を受持しきった者が、また、正しい仏法が、必ず勝つという信心をやろうではありませんか!」その叫びが、皆の心に突き刺さった。"権力なんかに、負けられへん。負けたらあかん!"戦いは、絶対に勝たなあかん!」
伸一と共に、創価の勝利を涙で誓った。この日が「常勝関西」の"不敗の原点"となったのである。伸一が、この「大阪事件」の法廷闘争に勝利し、無罪の判決が出たのは、釈放から4年半後の、1962年1月25日である。もともと無実の罪である。検察の控訴が懸念されたが、有罪に持ち込むことは、不可能であると判断したのであろう。控訴はなく、一審で伸一の無罪が確定したのである。
山本伸一が、出獄し、関西の同志と共に創価の正義を勝利を誓い合った「7・17」は、権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立の日である。
ゆえに、伸一は、以来20年目を迎える、この1976年の「7・17」を記念して、全同志の広宣流布への誓いを託した「人間革命の歌」の制作に取り組んできたのである。
彼は、以前から、創価学会の精神と思想を表現した、創価学会の歌ともいうべきものが必要であると考えていた。学会の精神と思想を端的に表現し、未来に歌い継がれていく、歌いやすい、新たな感覚の歌を作ろうと思っていたのである。
さらに、伸一が、新しい歌を作り、同志を勇気づけようと考えたのは、学会をめぐる不穏な動きを、ひしひしと感じ取っていたからでもある。この前年から、一部のマスコミなどによる、学会への攻撃が激しくなりつつあったのである。
伸一は、世界の平和を築くために、イデオロギーの壁を超え、友誼と信頼の道を開こうと必死であった。しかし、偏狭な心の眼では、その真実を見ることができなかったのであろう。
広宣流布を阻まんとする「魔」が、いよいよ牙をむいて襲いかかってくる予兆を感じていた。
太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋しかし、結果は、人びとの予想を覆して、なんと東京が落選し、大阪が当選を果たしたのである。大阪の勝利は、朝日新聞が「"まさか"が実現」との見出しを掲げるほどの、壮挙であったのである。
翌1957年(昭和32年)4月、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた。山本伸一は、再び戸田城聖から、この選挙支援の最高責任者に任命された。この補欠選挙は、一議席をめぐっての戦いである。学会が推薦したが当選することなど、あり得ない選挙戦といえた。しかし、戸田は、あえてその選挙戦の指揮を、伸一に執らせた。
獅子が、我が子を谷底に突き落とすといわれるように、戸田は、伸一を、勝算のない、熾烈な戦線に投げ入れたのだ。
選挙戦の終盤、候補者の名前を書いたタバコを配るなどの、選挙違反事件が大々的に報じられた。公明選挙を訴え続けてきた伸一には、寝耳に水の出来事であった。悪質な選挙妨害ではないかとさえ思った。しかし、なんとそれは、東京から英雄気取りで乗り込んで来た、心ない会員が引き起こした事件であることが、やがて明らかになるのだ。
この違反事件が、勝利を決するうえでの大きな障害となった。結果は敗北に終わった。補欠選挙から二か月余が過ぎた7月3日、伸一は、この選挙違反について事情聴取を求められ、自ら大阪府警本部に出頭した。そして、違反は彼の指示であるとの事実無根の容疑で、逮捕されたのである。
拘留は15日間に及んだ。過酷な取り調べが続いた。容疑を認めない伸一に対し、検察は、罪を認めなければ、「会長の戸田を逮捕する」と言いだしたのだ。戸田が、逝去する9か月前のことである。戸田の衰弱は、既に激しかった。逮捕は、死にもつながりかねない。独房での苦悶の末、伸一は、容疑を認め、裁判の場で真実を明らかにすることを決意したのである。
ひとたびは一身に罪を被り、法廷で正義を証明しようと決意した山本伸一が、大阪拘置所を出たのが、1957年の7月17日であった。この日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪大会が行われた。それは、伸一の不当逮捕への憤怒と、権力の魔性を打ち砕き、断じて創価の正義を証明せんとする、関西の決起の日となったのである。
「最後は、信心しきった者が、大御本尊様を受持しきった者が、また、正しい仏法が、必ず勝つという信心をやろうではありませんか!」その叫びが、皆の心に突き刺さった。"権力なんかに、負けられへん。負けたらあかん!"戦いは、絶対に勝たなあかん!」
伸一と共に、創価の勝利を涙で誓った。この日が「常勝関西」の"不敗の原点"となったのである。伸一が、この「大阪事件」の法廷闘争に勝利し、無罪の判決が出たのは、釈放から4年半後の、1962年1月25日である。もともと無実の罪である。検察の控訴が懸念されたが、有罪に持ち込むことは、不可能であると判断したのであろう。控訴はなく、一審で伸一の無罪が確定したのである。
山本伸一が、出獄し、関西の同志と共に創価の正義を勝利を誓い合った「7・17」は、権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立の日である。
ゆえに、伸一は、以来20年目を迎える、この1976年の「7・17」を記念して、全同志の広宣流布への誓いを託した「人間革命の歌」の制作に取り組んできたのである。
彼は、以前から、創価学会の精神と思想を表現した、創価学会の歌ともいうべきものが必要であると考えていた。学会の精神と思想を端的に表現し、未来に歌い継がれていく、歌いやすい、新たな感覚の歌を作ろうと思っていたのである。
さらに、伸一が、新しい歌を作り、同志を勇気づけようと考えたのは、学会をめぐる不穏な動きを、ひしひしと感じ取っていたからでもある。この前年から、一部のマスコミなどによる、学会への攻撃が激しくなりつつあったのである。
伸一は、世界の平和を築くために、イデオロギーの壁を超え、友誼と信頼の道を開こうと必死であった。しかし、偏狭な心の眼では、その真実を見ることができなかったのであろう。
広宣流布を阻まんとする「魔」が、いよいよ牙をむいて襲いかかってくる予兆を感じていた。