『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P342~

民衆の苦悩の声が聞こえない政治家は、あまりにも無神経である。その声を聞こうとしない政治家は、傲慢である。

政治家とは、交通事故一つとっても、不運な事故であったなどと、局外者のようにとらえるのではなく、自分の問題として受けとめ、事故の絶滅のために、当事者の苦悩の解決のために、ありとあらゆる対策を講じていく人である。

だが、それは議員としての華々しい事績とはなりにくかった。そのためか、多くの議員は、こうした地道な努力を怠ってきたといってよい。

そのなかで、公政連の議員たちは、この交通事故の問題にも、懸命に取り組んできた。市民生活の安全を守ることは、政治家の第一の責務であるーーというのが、公政連の議員たちを貫く信念であった。

なかでも、東京都議会の公明会の活躍は、一つの模範となっていた。学会が東京都議会に初めて同志を送ったのは、1955年(昭和30年)のことであった。都議会にも、会派として公明会が結成されると、都議会議員の活動に一段と力がこもった。

そして、「伏魔殿」といわれた東京都政に、鋭いメスを入れ、"宴会政治"の追放を叫び、断固として、都政の浄化を進めたのである。それに対して、「重箱の隅をつつくようなことはするな」という転倒した批判や、「大人気ない」という揶揄もあった。

しかし、慣れあい政治や業界との癒着を一掃し、クリーンな都政を実現していく第一歩として、この"宴会政治"の追放は、大きな意味をもっていた。


し尿処理事件もあった。大量の"し尿"が、消毒もされぬまま、隅田川に不法投棄されているという事実を公明会の澤田良一が都議会でとりあげたのだ。業者が運搬料金の水増し請求をするため、船底の放流口を開け、"し尿"をそのまま隅田川に流していたというのである。

都知事も、清掃局長も、初めて耳にする話であったようだ。この問題は、一人の公政連の区議が、住民と語り合う中でキャッチした情報であった。民衆の声には、真実がある。

実態調査が行われた。公明会の議員は、糞尿僧のなかにハシゴを掛け、なかを調査した。"し尿"を抜いて、洗ってあるとはいえ、なかには、強烈な臭気が充満していた。残っているメタンガスのせいか、一瞬、頭がクラクラした。そのなかで、彼らは、鋭く業者の隠ぺい工作を見抜いていった。

開閉口のフタを閉ざすために打たれている釘が、新しく光っていることを見逃さなかった。深夜、議員の家には、脅迫電話がかかってきたが、公明会の議員は、いささかも怯まなかった。"し尿"が消毒もされぬまま、大量に川に放流されるような事態が続けば、赤痢などの病気が発生しないとも限らない。

そう思うと、彼らは、断じて、退くわけにはいかなかった。大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに死んでいくーーそれが公政連の議員たちの偉大なる精神であったからだ。この精神を訴えたのは、山本伸一であった。

「偉くなったからといって、大衆から遊離して、孤立したり、また、組織の上にあぐらをかいたりするような政治家には、絶対に、なっていただきたくないのであります。どうか、公政連の同志の皆さん方だけは、全民衆のために、大衆のなかの政治家として、一生を貫き通していただきたいと、切望するものであります」以来、公政連のメンバーは、この言葉を胸に深く刻み、民衆を守り抜く決意を固めてきたのである。

民衆を守り、幸福に寄与する政治の実現ーーそれが、公政連の政治家たちの誓いであった。そして、人びとの生活を直視し、「大衆福祉」の実現に全魂を傾けていった。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

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