『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P289~
伸一は、日蓮大聖人が流罪の地・佐渡でお認めの「開目抄」に「世間の失によせ」との一節があることを思い起こした。弾圧は、「社会的な問題を」探し出し、時には捏造して罪を被せ、それを理由にして起こるのである。
従って、少しでも社会に誤解を与えるような、曖昧さがあってはならないし、社会のルールをいい加減に考える、甘えや驕りがあっては絶対にならない。それが、魔の付け入る隙を与えてしまうからだ。ゆえに、学会の組織も個人も、常に社会との緊張感をもち、どこから見ても、非の打ち所のない、社会の模範となる存在でなければならない。
彼は、批判書の発刊をめぐる学会の対応について、社会という観点から冷静に分析を重ねていった。
ーーまず、秋月らが著者の藤沢達造に会い、内容についての申し入れを行ったことは、要請を伝えたにすぎず、言い方も丁重であったが、本の出版前に接触をもったということ自体が問題にされたのだ。
事実と異なる屈辱的なことを書きたい放題書かれ、名誉や人格が傷つけられることがわかっていても、事前には、なんの対応もできないことになる。おかしな話ではある。だが、社会性のうえから、慎重に配慮し、より適切な対応をするべきではなかったか。
また、学会が書籍の取次各社や書店に対して、批判書を扱わぬよう組織的に圧力をかけたと盛んに喧伝されている。しかし、その書籍を取り扱うかどうかは、取次各社が独自で判断したはずである。
義憤を感じてのこととはいえ、一部の学会員の取次店や書店への訴えかけが、"組織的な圧力"などと喧伝されてしまったのである。気持ちはわかるが、一つ一つの行為が結果的にどう見られるかという客観的なものの見方、慎重さを欠いていたことは間違いない。
さらに、学会の圧力で新聞広告や電車の中吊り広告の扱いも断られたと言っているが、それは、各社が広告倫理規制などに基づいて判断したものであろう。
そもそも、衆院選挙前に、学会と公明党を攻撃する、選挙妨害の疑いさえある書籍の広告を、不偏不党をうたった大新聞等が扱うなど、考えられないことではないか。
では、膨大な数の抗議の電話や手紙が殺到し、学会から圧力をかけられたとされていることはどうか。学会員の怒りは、確かに激しいものがある。自分たちの団体が、「狂信者の群れ」「ナチス」「愚民化」などと罵倒されれば、普通の神経なら、誰でも怒りをおぼえるであろう。
悔しさと怒りに震える学会員の抗議には、強い語調の電話や、論旨に飛躍が見られる文面もあったかもしれない。学会は既に750万世帯を突破している。仮に千世帯に一人、1万人に1人が抗議の手紙を書いても、受け取った側から見れば膨大な数に上り、脅威を感じ、結果的に迷惑をかけてしまったにちがいない。
それにしても、伸一が腑に落ちないのは、いやがらせや脅迫電話、脅迫状が相次いだと言われていることである。学会員が、脅迫じみた言動をとれば、さらに学会に避難が集中することは自明の理である。そんな学会を貶めるようなことを、あえて学会員がするとは、どうしても考えられなかった。
あったとするなら、学会への反発や敵意を高めさせるための謀略かもしれない。しかし、困ったことには、それを証明する手立てはなかった。
ともあれ、学会が小さな団体であれば、なんでもないことでも、大きな勢力になれば、意図に反して相手は脅威を感じることもある。日本第一の教団に発展した今、学会は、社会を包み込む、成熟した寛容さをもつことの大切さを、山本伸一は痛感するのであった。
そして、今回の問題で、結果的に社会を騒がせ、関係者に迷惑をかけてしまったことについては、会長である自分が率直に謝ろうと思った。ただ、言論の暴力と戦う権利は誰にでもある。悪を許さぬ、清らかな正義の心は永遠に失ってはならない。
その"純粋性"と"寛容性"とをいかにして併せ持っていくかが、これからの学会の課題であろうと彼は感じていた。純粋なる正義の心が失われてしまえば、「大河の時代」は、濁流の時代と化してしまうからだ。
4月に入っても、学会への執拗な追及が続いていた。
いまだ闇は深く、烈風が吹き荒れていた。
言論・出版問題は、伸一の会長就任以来、初めての大試練となった。だが、それは、最も理想的な社会の模範となる創価学会をつくろうとする彼の決意を、一段と固めさせた。
いわば、この試練が未来への新たな大発展の飛躍台となったのである。
<烈風の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋
伸一は、日蓮大聖人が流罪の地・佐渡でお認めの「開目抄」に「世間の失によせ」との一節があることを思い起こした。弾圧は、「社会的な問題を」探し出し、時には捏造して罪を被せ、それを理由にして起こるのである。
従って、少しでも社会に誤解を与えるような、曖昧さがあってはならないし、社会のルールをいい加減に考える、甘えや驕りがあっては絶対にならない。それが、魔の付け入る隙を与えてしまうからだ。ゆえに、学会の組織も個人も、常に社会との緊張感をもち、どこから見ても、非の打ち所のない、社会の模範となる存在でなければならない。
彼は、批判書の発刊をめぐる学会の対応について、社会という観点から冷静に分析を重ねていった。
ーーまず、秋月らが著者の藤沢達造に会い、内容についての申し入れを行ったことは、要請を伝えたにすぎず、言い方も丁重であったが、本の出版前に接触をもったということ自体が問題にされたのだ。
事実と異なる屈辱的なことを書きたい放題書かれ、名誉や人格が傷つけられることがわかっていても、事前には、なんの対応もできないことになる。おかしな話ではある。だが、社会性のうえから、慎重に配慮し、より適切な対応をするべきではなかったか。
また、学会が書籍の取次各社や書店に対して、批判書を扱わぬよう組織的に圧力をかけたと盛んに喧伝されている。しかし、その書籍を取り扱うかどうかは、取次各社が独自で判断したはずである。
義憤を感じてのこととはいえ、一部の学会員の取次店や書店への訴えかけが、"組織的な圧力"などと喧伝されてしまったのである。気持ちはわかるが、一つ一つの行為が結果的にどう見られるかという客観的なものの見方、慎重さを欠いていたことは間違いない。
さらに、学会の圧力で新聞広告や電車の中吊り広告の扱いも断られたと言っているが、それは、各社が広告倫理規制などに基づいて判断したものであろう。
そもそも、衆院選挙前に、学会と公明党を攻撃する、選挙妨害の疑いさえある書籍の広告を、不偏不党をうたった大新聞等が扱うなど、考えられないことではないか。
では、膨大な数の抗議の電話や手紙が殺到し、学会から圧力をかけられたとされていることはどうか。学会員の怒りは、確かに激しいものがある。自分たちの団体が、「狂信者の群れ」「ナチス」「愚民化」などと罵倒されれば、普通の神経なら、誰でも怒りをおぼえるであろう。
悔しさと怒りに震える学会員の抗議には、強い語調の電話や、論旨に飛躍が見られる文面もあったかもしれない。学会は既に750万世帯を突破している。仮に千世帯に一人、1万人に1人が抗議の手紙を書いても、受け取った側から見れば膨大な数に上り、脅威を感じ、結果的に迷惑をかけてしまったにちがいない。
それにしても、伸一が腑に落ちないのは、いやがらせや脅迫電話、脅迫状が相次いだと言われていることである。学会員が、脅迫じみた言動をとれば、さらに学会に避難が集中することは自明の理である。そんな学会を貶めるようなことを、あえて学会員がするとは、どうしても考えられなかった。
あったとするなら、学会への反発や敵意を高めさせるための謀略かもしれない。しかし、困ったことには、それを証明する手立てはなかった。
ともあれ、学会が小さな団体であれば、なんでもないことでも、大きな勢力になれば、意図に反して相手は脅威を感じることもある。日本第一の教団に発展した今、学会は、社会を包み込む、成熟した寛容さをもつことの大切さを、山本伸一は痛感するのであった。
そして、今回の問題で、結果的に社会を騒がせ、関係者に迷惑をかけてしまったことについては、会長である自分が率直に謝ろうと思った。ただ、言論の暴力と戦う権利は誰にでもある。悪を許さぬ、清らかな正義の心は永遠に失ってはならない。
その"純粋性"と"寛容性"とをいかにして併せ持っていくかが、これからの学会の課題であろうと彼は感じていた。純粋なる正義の心が失われてしまえば、「大河の時代」は、濁流の時代と化してしまうからだ。
4月に入っても、学会への執拗な追及が続いていた。
いまだ闇は深く、烈風が吹き荒れていた。
言論・出版問題は、伸一の会長就任以来、初めての大試練となった。だが、それは、最も理想的な社会の模範となる創価学会をつくろうとする彼の決意を、一段と固めさせた。
いわば、この試練が未来への新たな大発展の飛躍台となったのである。
<烈風の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋