『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 336p
宗門は、1995年(平成7年)「耐震」を口実に大客殿の解体を発表、着手した。さらに98年6月には、800万信徒の真心の結晶ともいうべき正本堂の、破壊を強行したのだ。伸一が発願主となって建立寄進した、先師・日達法主の事績の建物を、日顕は、次々と破壊していったのである。
伸一は、1992年「創価ルネサンスの年」の1月末、アジア訪問へと旅立った。“東西冷戦が終結した今こそ、世界に平和の橋を!”と思うと、一瞬の猶予もなかった。タイでは、プーミポン・アドゥンヤデート国王を、チトラダ宮殿に表敬訪問した。メンバーは、国王と伸一の友誼を誇りとして、社会貢献に努め、信頼を勝ち取っていった。
インドではラマスワミ・ベンカタラマン大統領、シャンカル・ダヤル・シャルマ副大統領、ガンジーの直弟子の一人であるガンジー記念館のビシャンバル・ナーツ・バンディ副議長らと相次ぎ会談した。また、ガンジー記念館の招請により、「不戦世界を目指してーガンジーー主義と現代」と題して講演している。
インドから香港を訪問した山本伸一は、デビッド・ウィルソン総督と会談するなどして2月22日には、帰国の途に就き、沖縄へ向かった。このアジア訪問は、学会が「魂の独立」を果たして、最初の平和旅であった。沖縄では、アジア各国・地域の代表が参加して、第1回SGIアジア総会が、3日間にわたって、開催された。
信仰は自分自身が生き生きと、楽しく生き抜いていくためにあることを確認し、こう訴えた。「信仰のことで、いたずらに“とらわれた心”になって、窮屈に自分を縛る必要は全くありません。勤行・唱題も、やった分だけ、自分の得になる。
かといって、やらなければ“罰”が出るなどということはありません。それでは、初めから信仰しない人の方がよいことにさえなってしまう。妙法への信心の『心』に、一遍の唱題に、無量の功徳があると大聖人は仰せです。…信心は、決して義務ではない。自身の最高の権利です。この微妙な一年の転換に信心の要諦がある。」彼は、皆が創価家族として、信心の歓喜、醍醐味を満喫しながら、聡明に、楽しく、広布の道を進んでもらいたかったのである。
沖縄には、「命どぅ宝」(命こそ宝)という生命尊厳の精神、また、「いちゃりば兄弟」という、開かれた友情の気風がみなぎっている。ところが、あの太平洋戦争では、凄惨な地上戦が展開され、多くの県民が犠牲となった。
伸一は、胸が張り裂ける思いであった。そして、“この沖縄を幸福島に!広宣流布の勝利島に!そのために私は、沖縄の同志と共に戦っていこう!”と、深く、固く心に誓った。
64年12月2日、彼が「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない…」との言葉で始まる、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こしたのも、その決意の証であった。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能する」--同書のこのテーマこそ、恩師・戸田城聖が示した平和建設の原理である。
沖縄研修道場は、かつて米軍のメースB基地であり、発射台のミサイルは、アジアに向けられていた。当初、ミサイルの発射台は、撤去する予定であった。研修道場は整備され、発射台の上には、未来をめざす6体の青年像が設置され、恒久平和を決意し合う「世界平和の碑」となった。
伸一は、沖縄研修道場に集ったアジアの同志に、沖縄の同志に、そして、衛星中継で結ばれた日本の全同志に呼びかけた。「わが創価家族は、『誠実』と『平等』と『信頼』のスクラムで、どこまでも進む。国境もない。民族の違いもない。なんの隔てもないーー人間主義で結ばれた、これほど麗しい“地球家族”は、ほかに絶対にないと確信するものであります!
私どもは、第一級の国際人として、新しいルネサンス、新しい宗教改革の大舞台に出航していきたい」「新時代の広宣流布もまた険路でありましょう。『賢明』にして『強気』でなければ、勝利と栄光は勝ち取れません。
仏法は勝負である。人生も勝負である。一切が勝負である。ゆえに勝たねばならない。勝たねば友を守れない。正義を守れない。断じて皆を守り切る。幸福にしていくーーそうした『強気』に徹した『勝利のリーダー』になっていただきたい!」
このあと、大分県を訪れた。大分の同志たちは、今回の第二次宗門事件では微動だにしなかった。皆が、陰険な宗門僧の本質も、学会攻撃の卑劣な手口も、知り尽くしていたからだ。同志は、第一次宗門事件を乗り越えたことによって、“断じて、創価学会と共に広宣流布に進むぞ!”との決意も、信心への確信も、一段と増していた。
難を呼び起こし、難と戦い、難を乗り越えることによって、大飛躍を遂げてきたのが、創価学会の誉れの歴史である。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
宗門は、1995年(平成7年)「耐震」を口実に大客殿の解体を発表、着手した。さらに98年6月には、800万信徒の真心の結晶ともいうべき正本堂の、破壊を強行したのだ。伸一が発願主となって建立寄進した、先師・日達法主の事績の建物を、日顕は、次々と破壊していったのである。
伸一は、1992年「創価ルネサンスの年」の1月末、アジア訪問へと旅立った。“東西冷戦が終結した今こそ、世界に平和の橋を!”と思うと、一瞬の猶予もなかった。タイでは、プーミポン・アドゥンヤデート国王を、チトラダ宮殿に表敬訪問した。メンバーは、国王と伸一の友誼を誇りとして、社会貢献に努め、信頼を勝ち取っていった。
インドではラマスワミ・ベンカタラマン大統領、シャンカル・ダヤル・シャルマ副大統領、ガンジーの直弟子の一人であるガンジー記念館のビシャンバル・ナーツ・バンディ副議長らと相次ぎ会談した。また、ガンジー記念館の招請により、「不戦世界を目指してーガンジーー主義と現代」と題して講演している。
インドから香港を訪問した山本伸一は、デビッド・ウィルソン総督と会談するなどして2月22日には、帰国の途に就き、沖縄へ向かった。このアジア訪問は、学会が「魂の独立」を果たして、最初の平和旅であった。沖縄では、アジア各国・地域の代表が参加して、第1回SGIアジア総会が、3日間にわたって、開催された。
信仰は自分自身が生き生きと、楽しく生き抜いていくためにあることを確認し、こう訴えた。「信仰のことで、いたずらに“とらわれた心”になって、窮屈に自分を縛る必要は全くありません。勤行・唱題も、やった分だけ、自分の得になる。
かといって、やらなければ“罰”が出るなどということはありません。それでは、初めから信仰しない人の方がよいことにさえなってしまう。妙法への信心の『心』に、一遍の唱題に、無量の功徳があると大聖人は仰せです。…信心は、決して義務ではない。自身の最高の権利です。この微妙な一年の転換に信心の要諦がある。」彼は、皆が創価家族として、信心の歓喜、醍醐味を満喫しながら、聡明に、楽しく、広布の道を進んでもらいたかったのである。
沖縄には、「命どぅ宝」(命こそ宝)という生命尊厳の精神、また、「いちゃりば兄弟」という、開かれた友情の気風がみなぎっている。ところが、あの太平洋戦争では、凄惨な地上戦が展開され、多くの県民が犠牲となった。
伸一は、胸が張り裂ける思いであった。そして、“この沖縄を幸福島に!広宣流布の勝利島に!そのために私は、沖縄の同志と共に戦っていこう!”と、深く、固く心に誓った。
64年12月2日、彼が「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない…」との言葉で始まる、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こしたのも、その決意の証であった。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能する」--同書のこのテーマこそ、恩師・戸田城聖が示した平和建設の原理である。
沖縄研修道場は、かつて米軍のメースB基地であり、発射台のミサイルは、アジアに向けられていた。当初、ミサイルの発射台は、撤去する予定であった。研修道場は整備され、発射台の上には、未来をめざす6体の青年像が設置され、恒久平和を決意し合う「世界平和の碑」となった。
伸一は、沖縄研修道場に集ったアジアの同志に、沖縄の同志に、そして、衛星中継で結ばれた日本の全同志に呼びかけた。「わが創価家族は、『誠実』と『平等』と『信頼』のスクラムで、どこまでも進む。国境もない。民族の違いもない。なんの隔てもないーー人間主義で結ばれた、これほど麗しい“地球家族”は、ほかに絶対にないと確信するものであります!
私どもは、第一級の国際人として、新しいルネサンス、新しい宗教改革の大舞台に出航していきたい」「新時代の広宣流布もまた険路でありましょう。『賢明』にして『強気』でなければ、勝利と栄光は勝ち取れません。
仏法は勝負である。人生も勝負である。一切が勝負である。ゆえに勝たねばならない。勝たねば友を守れない。正義を守れない。断じて皆を守り切る。幸福にしていくーーそうした『強気』に徹した『勝利のリーダー』になっていただきたい!」
このあと、大分県を訪れた。大分の同志たちは、今回の第二次宗門事件では微動だにしなかった。皆が、陰険な宗門僧の本質も、学会攻撃の卑劣な手口も、知り尽くしていたからだ。同志は、第一次宗門事件を乗り越えたことによって、“断じて、創価学会と共に広宣流布に進むぞ!”との決意も、信心への確信も、一段と増していた。
難を呼び起こし、難と戦い、難を乗り越えることによって、大飛躍を遂げてきたのが、創価学会の誉れの歴史である。