『新・人間革命』第29巻 常楽の章 57p~
伸一は、埼玉を「21世紀の王者」と考えていた。埼玉でも、学会を破壊しようとする僧たちの蠢動が激しかった。伸一は、“われらは創価の大道を誇らかに進もう!”と心で叫び、万感の思いを歌詞にしていった。埼玉県歌「広布の旗」の詩が完成し、曲がつけられ、「聖教新聞」埼玉版に掲載されたのは、10月27日のことであった。
日本の広宣流布の壮大な未来図を描く時、どうしても重要なのが、大東京の強化と飛躍である。では、新しい時代の東京を象徴し、中核となるべき地域はどこか。世田谷は、人口も急増し、のどかな田園風景は、文化的でハイセンスな住宅街へと大きく変容しつつあった。
その世田谷区で地域に根差した新しい広宣流布の運動が展開され、前進の突破口が開かれていくならば、それは時代を先取りし、牽引していく大きな力となる。まさに、東京の未来を開くものとなろう。
伸一は、東京の、さらには、日本の広宣流布の未来を開くためにも、世田谷の歌を作詞して贈ろうと思った。「世田谷の同志が嵐に立ち向かう勇気をもって、敢然と前進を開始すれば、必ず時代は変わる。大東京に凱歌が轟くよ!」世田谷の歌「地涌の旗」の歌詞に曲がつけられ、「聖教新聞」東京版に発表されたのは10月30日のことであった。
一言、力を込めて、伸一は語った。「地涌とは、自ら願い、誓って、広宣流布のために躍り出てきた人です」
10月30日、新潟版には、同じく山本伸一が作詞した新潟の歌「雪山の道」の歌詞と楽譜が掲載された。日々、秋の気配が深まり、やがて訪れる厳しい新潟の冬。深い雪のなかでの活動が始まるーー伸一は、なんとしてもその前に、新潟県歌を作って贈りたかった。
車中も、歩きながらも、伸一は、言葉を紡ぎ出し、一行、二行と歌詞を作る。そして、同志の輪の中に飛び出していっては激励を重ね、また、作詞を続ける。そうした「行動」即「詩作」の連続であった。
”次は栃木の歌だ!”山本伸一の激闘は間断なく続いていたが、時間を作り出しては作詞にあたった。栃木の歌「誓いの友」が県の幹部に伝えられたのは、県の日記念総会の前日、11月2日の夜のことであった。
栃木の同志は、「誓いの友」という曲名に始まり、歌詞に何度も出てくる「誓」という言葉の意味を噛み締めていた。「君との誓い 忘れまじ」とあるように、伸一にとっては、今回、県の歌を贈ったこと自体、皆との共戦の誓いを、断固、果たさんとする決意の証明であった。
われら創価の同志の誓いとは、広宣流布実現への、地涌の菩薩の誓願である。「在在諸仏土常与師俱生」とあるように、広布に生きる師弟の誓いである。
1978年(昭和53年)11月7日、「11・18」学会創立48周年を記念する代表幹部会が、総本山大石寺の大講堂で行われた。ここには、2千人の学会代表幹部のほか、各地の僧も参加した。宗門の日達法主が出席し、これまで続いてきた宗僧の学会攻撃に、終止符が打たれることになったのである。それは、本来、既に終わっていなければならないはずのものであった。
この年の4月初め、宗務院からは、毎月13日に各寺院で行われる御講での学会批判を、厳に慎むように通達が出されていた。しかし、全く守られることはなかった。
また、学会は、宗門からの、教学の展開などが教義の逸脱ではないかとする質問書にも、和合を願って、誠心誠意、回答した。現代社会で広宣流布を進めるために、仏法の本義を踏まえつつ、時代に即して法理を展開したこと等を述べ、法主の了解を得て、その回答を6月30日付の「聖教新聞」に掲載した。
この時も、これで学会への誹謗は終わるはずであった。ところが、その後も、執拗に攻撃は続けられた。こうした異常な事態が、いっこうに沈静化しない背景には、宗門を利用して学会を操ろうと画策する、野心に狂った弁護士・山脇友政の悪辣な暗躍があった。
以前から宗門に学会への不信感を募らせる捏造情報を流し、さらに攻略計画まで練り、それを伝えていたのだ。宗門の僧たちは、これに躍った。学会側が、いくら外護の立場から、宗門の意向を尊重し、対応しても、かえって彼らは、邪悪な牙をむき出しにして圧迫してきた。
日本の広宣流布の壮大な未来図を描く時、どうしても重要なのが、大東京の強化と飛躍である。では、新しい時代の東京を象徴し、中核となるべき地域はどこか。世田谷は、人口も急増し、のどかな田園風景は、文化的でハイセンスな住宅街へと大きく変容しつつあった。
その世田谷区で地域に根差した新しい広宣流布の運動が展開され、前進の突破口が開かれていくならば、それは時代を先取りし、牽引していく大きな力となる。まさに、東京の未来を開くものとなろう。
伸一は、東京の、さらには、日本の広宣流布の未来を開くためにも、世田谷の歌を作詞して贈ろうと思った。「世田谷の同志が嵐に立ち向かう勇気をもって、敢然と前進を開始すれば、必ず時代は変わる。大東京に凱歌が轟くよ!」世田谷の歌「地涌の旗」の歌詞に曲がつけられ、「聖教新聞」東京版に発表されたのは10月30日のことであった。
一言、力を込めて、伸一は語った。「地涌とは、自ら願い、誓って、広宣流布のために躍り出てきた人です」
10月30日、新潟版には、同じく山本伸一が作詞した新潟の歌「雪山の道」の歌詞と楽譜が掲載された。日々、秋の気配が深まり、やがて訪れる厳しい新潟の冬。深い雪のなかでの活動が始まるーー伸一は、なんとしてもその前に、新潟県歌を作って贈りたかった。
車中も、歩きながらも、伸一は、言葉を紡ぎ出し、一行、二行と歌詞を作る。そして、同志の輪の中に飛び出していっては激励を重ね、また、作詞を続ける。そうした「行動」即「詩作」の連続であった。
”次は栃木の歌だ!”山本伸一の激闘は間断なく続いていたが、時間を作り出しては作詞にあたった。栃木の歌「誓いの友」が県の幹部に伝えられたのは、県の日記念総会の前日、11月2日の夜のことであった。
栃木の同志は、「誓いの友」という曲名に始まり、歌詞に何度も出てくる「誓」という言葉の意味を噛み締めていた。「君との誓い 忘れまじ」とあるように、伸一にとっては、今回、県の歌を贈ったこと自体、皆との共戦の誓いを、断固、果たさんとする決意の証明であった。
われら創価の同志の誓いとは、広宣流布実現への、地涌の菩薩の誓願である。「在在諸仏土常与師俱生」とあるように、広布に生きる師弟の誓いである。
1978年(昭和53年)11月7日、「11・18」学会創立48周年を記念する代表幹部会が、総本山大石寺の大講堂で行われた。ここには、2千人の学会代表幹部のほか、各地の僧も参加した。宗門の日達法主が出席し、これまで続いてきた宗僧の学会攻撃に、終止符が打たれることになったのである。それは、本来、既に終わっていなければならないはずのものであった。
この年の4月初め、宗務院からは、毎月13日に各寺院で行われる御講での学会批判を、厳に慎むように通達が出されていた。しかし、全く守られることはなかった。
また、学会は、宗門からの、教学の展開などが教義の逸脱ではないかとする質問書にも、和合を願って、誠心誠意、回答した。現代社会で広宣流布を進めるために、仏法の本義を踏まえつつ、時代に即して法理を展開したこと等を述べ、法主の了解を得て、その回答を6月30日付の「聖教新聞」に掲載した。
この時も、これで学会への誹謗は終わるはずであった。ところが、その後も、執拗に攻撃は続けられた。こうした異常な事態が、いっこうに沈静化しない背景には、宗門を利用して学会を操ろうと画策する、野心に狂った弁護士・山脇友政の悪辣な暗躍があった。
以前から宗門に学会への不信感を募らせる捏造情報を流し、さらに攻略計画まで練り、それを伝えていたのだ。宗門の僧たちは、これに躍った。学会側が、いくら外護の立場から、宗門の意向を尊重し、対応しても、かえって彼らは、邪悪な牙をむき出しにして圧迫してきた。
太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋