『新・人間革命』第24巻 厳護の章 171p
ここ彼は、地涌の菩薩について言及していった。「地涌の菩薩とは、人から言われて動くものではない。自ら題目をあげ、社会のために、平和のために、貢献していく生命であります」
1月5日付には、「諸法実相抄」講義の第三回が掲載された。この回からは、弟子の信仰の在り方や、広宣流布への実践方法が説かれていく。「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし」伸一は、この「いかにも」、つまり"なんとしても"という言葉のなかに、"今こそ、弟子たちを成仏せずにはおくものか!"という、大聖人の大情熱と大慈大悲を、強く、深く、拝するのである。
「『日蓮が一門』の自覚に立つとういうことは、具体的な私どもの実践に約して申し上げれば、学会と運命を共にし、広宣流布への異体同心の世界に生き切ることであります。なぜかならば、創価学会は、ことごとく御書の仰せの通りに実践し、三類の強敵と戦っている、御本仏・日蓮大聖人の生命に直結した唯一の広布実践の団体であるからです」
「菩薩の本領は、『誓願』ということにあります。そして、地涌の菩薩の誓願とは、『法華弘通』にあります。ゆえに、心から、周囲の人々を幸せにしきっていく、広宣流布への『誓願』の唱題が大切です。厳しく言えば、『誓願』なき唱題は、地涌の菩薩の唱題ではないのであります」
伸一は、全同志が、一人も漏れなく、大功徳に浴してほしかった。病苦、経済苦など、すべてを乗り越えて、幸せになってほしかった。そのための祈りの要諦こそ、「広宣流布への誓願」なのである。皆、それぞれに、さまざまな問題や苦悩をかかえていよう。その解決のためには、"広宣流布のため"との一念が大事なのだ。
たとえば、病に苦しんでいるならば、"この病を克服し、仏法の正しさを必ず証明します。広宣流布に自在に動き回るために、どうか大生命力をください"との誓願の心が、克服の大きな力となるのだ。"病気を治したい"という祈りが、深き使命感と一致していく時、自身の根本的な生命の変革、境涯革命、宿命の転換への力強い回転が始まる。
広宣流布を誓願し、唱題に励む時、自身の胸中に、地涌の菩薩の大生命が湧現し、日蓮大聖人の御命が脈動して、己心の仏界が開かれるのである。そこに、境涯革命があり、宿命の劇的な転換も可能になるのだ。
「日蓮一人はじめは・・・唱へつたふるなり」の御文では、「一人立つ」勇気の信心を力説した。「いつの時代にあっても、絶対に変わらない広宣流布の根本原理が、『一人立つ』ということです。具体的に言えば、自分の家庭や地域など、自身が関わっている一切の世界で、妙法の広宣流布の全責任をもっていくことです。
私たちは、一人ひとりが、家族、親戚、友人等々、他の誰とも代わることのできない自分だけの人間関係をもっています。妙法のうえから見れば、そこが使命の本国土であり、その人たちこそが、自身の眷属となります。自分のいる、その世界を広宣流布していく資格と責任を有しているのは、自分だけですゆえに、『一人立つ』という原理が大事になります。御本仏・日蓮大聖人の御使いとして、自分は今、
ここにいるのだと自覚することです」
さらに伸一は、絶対的幸福境涯について言及していった。人は、財や地位、健康、名誉など、相対的幸福を願い求めて、努力するなかで、向上、成長していくことも事実である。しかし、崩れざる真実の幸福は相対的幸福にではなく、絶対的幸福にこそあるのだ。
絶対的幸福とは、有為転変する周りの条件に支配されるのではなく、自分が心に決めた使命、目的に向かって実践していくなかで生ずる、生命自体の充実感、満足感です。結論すれば、広宣流布の使命を自覚し、大願に生き抜く心にこそ、真実の絶対的幸福が築かれるのであります。」
『大白蓮華』にも、1月号から「百六箇抄」講義の連載を開始した。「教学新時代」とは、仏法の法理を現代社会に、世界に、展開し、未来創造の新思潮を形成していく時代である。伸一は、それには、教学上の一つ一つの事柄を、"人間のための宗教"という師座に立って、根源からとらえ直し、その意味を明らかにするところから、始めなければならないと考えていたのだ。
太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋1月5日付には、「諸法実相抄」講義の第三回が掲載された。この回からは、弟子の信仰の在り方や、広宣流布への実践方法が説かれていく。「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし」伸一は、この「いかにも」、つまり"なんとしても"という言葉のなかに、"今こそ、弟子たちを成仏せずにはおくものか!"という、大聖人の大情熱と大慈大悲を、強く、深く、拝するのである。
「『日蓮が一門』の自覚に立つとういうことは、具体的な私どもの実践に約して申し上げれば、学会と運命を共にし、広宣流布への異体同心の世界に生き切ることであります。なぜかならば、創価学会は、ことごとく御書の仰せの通りに実践し、三類の強敵と戦っている、御本仏・日蓮大聖人の生命に直結した唯一の広布実践の団体であるからです」
「菩薩の本領は、『誓願』ということにあります。そして、地涌の菩薩の誓願とは、『法華弘通』にあります。ゆえに、心から、周囲の人々を幸せにしきっていく、広宣流布への『誓願』の唱題が大切です。厳しく言えば、『誓願』なき唱題は、地涌の菩薩の唱題ではないのであります」
伸一は、全同志が、一人も漏れなく、大功徳に浴してほしかった。病苦、経済苦など、すべてを乗り越えて、幸せになってほしかった。そのための祈りの要諦こそ、「広宣流布への誓願」なのである。皆、それぞれに、さまざまな問題や苦悩をかかえていよう。その解決のためには、"広宣流布のため"との一念が大事なのだ。
たとえば、病に苦しんでいるならば、"この病を克服し、仏法の正しさを必ず証明します。広宣流布に自在に動き回るために、どうか大生命力をください"との誓願の心が、克服の大きな力となるのだ。"病気を治したい"という祈りが、深き使命感と一致していく時、自身の根本的な生命の変革、境涯革命、宿命の転換への力強い回転が始まる。
広宣流布を誓願し、唱題に励む時、自身の胸中に、地涌の菩薩の大生命が湧現し、日蓮大聖人の御命が脈動して、己心の仏界が開かれるのである。そこに、境涯革命があり、宿命の劇的な転換も可能になるのだ。
「日蓮一人はじめは・・・唱へつたふるなり」の御文では、「一人立つ」勇気の信心を力説した。「いつの時代にあっても、絶対に変わらない広宣流布の根本原理が、『一人立つ』ということです。具体的に言えば、自分の家庭や地域など、自身が関わっている一切の世界で、妙法の広宣流布の全責任をもっていくことです。
私たちは、一人ひとりが、家族、親戚、友人等々、他の誰とも代わることのできない自分だけの人間関係をもっています。妙法のうえから見れば、そこが使命の本国土であり、その人たちこそが、自身の眷属となります。自分のいる、その世界を広宣流布していく資格と責任を有しているのは、自分だけですゆえに、『一人立つ』という原理が大事になります。御本仏・日蓮大聖人の御使いとして、自分は今、
ここにいるのだと自覚することです」
さらに伸一は、絶対的幸福境涯について言及していった。人は、財や地位、健康、名誉など、相対的幸福を願い求めて、努力するなかで、向上、成長していくことも事実である。しかし、崩れざる真実の幸福は相対的幸福にではなく、絶対的幸福にこそあるのだ。
絶対的幸福とは、有為転変する周りの条件に支配されるのではなく、自分が心に決めた使命、目的に向かって実践していくなかで生ずる、生命自体の充実感、満足感です。結論すれば、広宣流布の使命を自覚し、大願に生き抜く心にこそ、真実の絶対的幸福が築かれるのであります。」
『大白蓮華』にも、1月号から「百六箇抄」講義の連載を開始した。「教学新時代」とは、仏法の法理を現代社会に、世界に、展開し、未来創造の新思潮を形成していく時代である。伸一は、それには、教学上の一つ一つの事柄を、"人間のための宗教"という師座に立って、根源からとらえ直し、その意味を明らかにするところから、始めなければならないと考えていたのだ。