小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

周総理

信義の絆

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 338P~

伸一が右手を差し出すと、総理は微笑を浮かべて、その手を握った。伸一は、総理の右腕を支えるように、そっと左手を添えた。総理は革命闘争のさなかの1939年(昭和14年)、落馬がもとで右肘の上部を骨折した。その後遺症で右腕が曲がったままになったことを、伸一は知っていたのだ。

総理の手は白かった。衰弱した晩年の戸田城聖の手に似ていた。伸一は胸を突かれた。周総理は76歳、伸一は46歳である。総理は、伸一の若さの可能性にかけていたのかもしれない。

峯子は、総理と伸一のやりとりを、懸命にノートに書き留め始めた。彼女は、これは重要な歴史的な会見になるにちがいないと思った。しかし、会見会場に記者は入っていなかった。峯子は、責任の重大さを感じながら、必死になってペンを走らせた。

「ぜひ、また、桜の咲くころに日本へ来てください」しかし、総理は寂しそうに微笑んだ。「願望はありますが、実現は無理でしょう」伸一は胸が痛んだ。その時、通訳の林のもとに、一枚のメモが回ってきた。そこには、「総理、そろそろ、おやすみください」と記されていたのである。医師団からのものであった。

周総理には、命を縮めても、今、会って、伸一と話しておかなければならないとの、強い思いがあったようだ。伸一は、同席していた廖承志会長に、会見を切り上げた方がいいのではないかと、何度か目配せした。しかし、廖承志はそのたびに、"まだいい"と合図を返してきた。

総理は、力を振り絞るようにして語り始めた。「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です。全世界の人びとが、お互いに平等な立場で助け合い、努力することが必要です」伸一は、遺言を聞く思いであった。

会見は、30分に及ぼうとしていた。伸一は、もうこれ以上、時間を延ばしてはならないと思った。伸一は、感謝の思いを伝え、会見を切り上げた。伸一は、さやかな記念の品として、"萩と御所車"の日本画を贈った。総理は、その夜から、それまで部屋に飾ってあった絵を、伸一が贈った絵に掛け替えたという。

周総理と伸一は、これが最初で最後の、生涯でただ一度だけの語らいとなった。しかし、その友情は永遠の契りとなり、信義の絆となった。総理の心は伸一の胸に、注ぎ込まれたのである。
山本伸一の第二次訪中は、日中友好の新しい黄金の歴史を刻んだ。

だが、伸一の思いとは反対に、中ソの関係は悪化の一途をたどっていくかに見えた。1975年1月中国は
、憲法を改正し、明確に反ソ路線を打ち出したのだ。「四人組」が一切を牛耳っていた時である。彼らにはコスイギン首相の言葉は伝わっていなかったのであろう。

この75年の全人代で周恩来総理は、病身を押して「政府活動報告」を行い、4つの現代化政策の推進を提起した。この「4つの現代化」という壮大な計画は、その後の中国がとった「改革・開放」路線の基盤となり、今日の大発展へとつながっていく。

周総理がその政策を提起しえた背景について、後年、南海大学周恩来研究センターの所長を務めた孔繁豊は、こう語っている。「この計画の実現には正確な国際情勢の判断が不可欠だった。その時、名誉会長を通じてソ連の態度を知り、周総理は『中ソ開戦はありえない』との確信を深め、国家の再建計画を大胆に実行することができたのだ」

山本伸一は、強く心に誓っていた。いかなる事態になろうが、私は絶対にあきらめない。それには粘り強い対話しかない。伸一は、中国が憲法の前文を変え、反ソ路線を打ち出した3か月後の1975年(昭和50年)4月、三たび中国を訪れた。そして、再び鄧小平副総理と会談した。

鄧小平は、ソ連への不信を強めていた。「ソ連の指導部の態度によります。」伸一は、思った。中国は本来、ソ連との平和共存を望んでいることは間違いない。ソ連もまた、それを望んでいるのだ。複雑な状況があるにせよ、両国の関係を改善できぬわけがない。」

この第3次訪中の翌月、伸一は、再度、ソ連を訪問し、コスイギン首相をはじめ、ソ連首脳と会談していった。あきらめ、絶望ーーそれに打ち勝つ勇気が時代を開く力となる。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

鄧小平副総理との会談

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 327P~

5日には、鄧小平副総理との会談が予定されていた。伸一が鄧副総理と初対面のあいさつを交わし、握手をした時、副総理は傍らの廖承志を見ながら言った。「山本会長のお話は廖承志同志から伺いました。しかし、問題は複雑です」一瞬、副総理の顔が曇った。人民大会堂での会談が始まった。

伸一は、明年が国連の「国際婦人年」となることから、周恩来夫人の鄧頴超ら女性リーダー、さらに、青年リーダーの訪日を提案した。伸一は、心の隔たりを、一日も早く取り除きたかったのである。そして、そのための焦点となるのが、婦人と青年であると考えていた。

アジアの平和に話が及んだ時、伸一は言った。「ソ連は中国を攻めようとは考えていません」すると鄧副総理は、「それは大変に難しい判断を必要とします」と言って、話を制するように、胸のあたりまで手をあげた。伸一は、前回の訪中を通して、文化大革命の混乱のなかで、一部の人間が権力を握り、党と国家を意のままに動かしていることを感じた。

その彼らの情報網が張り巡らされ、政府首脳さえ、発言には至って慎重にならざるを得ないことを知ったのである。伸一は、ソ連は中国を攻めないとのコスイギン首相の言葉などを、事前に、詳しく廖承志会長に伝えておいてよかったと思った。伸一は、話題を変えた。

伸一は、率直に尋ねた。毛沢東主席や周恩来総理の健康状態についても、率直に尋ねた。また、「前回、お会いした李千念副総理にもよろしくお伝えください」

伸一は、全人代(全国人民代表大会)の開催時期についても、単刀直入に尋ねた。全人代は、かつては毎年、開催されてきたが、1964年12月下旬から翌年1月初めにかけて行われたのを最後に、文化大革命期に入ってからは、開催されていなかった。

伸一は、こんな事態が続き、中国が国家として信頼をなくしてしまうことを、深く憂慮していたのだ。鄧副総理は答えた。「全人代の開催は、もう近いと思います」全人代の開催を表明すれば、世界各国は中国がルールに則った国家の運営をしようとしていることを認識し、安心するはずである。

ゆえに伸一は、あえて全人代の開催を尋ねたのである。彼はどうすれば、中国が、世界の理解、信頼を勝ち得るか、真剣に考えていたのだ。伸一は、この会談終了後の記者会見で、全人代開催についての副総理の回答を伝えた。

真の友好とは、親身になって相手のことを思う、誠意と信念の結実にほかならない。伸一の中国への思いは、鄧小平の胸に、強く響いたにちがいない。一時間近い会談の最後に、鄧副総理は言った。「これからは、山本会長のご都合のよい時に、いつでも中国を訪問してください。」

滞在最後の夜となる5日、山本伸一、峯子による答礼園が行われた。伸一は、必ず相手の名前を呼んで話を始めた。伸一の頭の中には、一人ひとりの顔と名前はもとより、これまでのやり取りや、どのように尽力してくれたかが、克明に記憶されていた。

通り一編のあいさつでは、儀礼的な交流しかできない。真実の人間交流のためには、徹底して相手を知り、琴線に触れる言葉を交わすことだ。

答礼園が終わりに近づいたころ、廖承志会長に電話がかかってきて、小声で伸一に「実は周総理が待っておられます」と告げた。突然の話であった。

周恩来総理の病状が思っていた以上に重いと聞いていた伸一は、会見を丁重に辞退した。廖会長は、いかにも困ったという顔で言った。「会見は、周総理の強い希望なのです」周総理の医師団も、こぞって、伸一との会見に反対したのだ。「命の保証はできません」だが、周総理は、毅然として言った。「山本会長には、どんなことがあっても会わねばならない!」

やむなく夫人の鄧夫人に相談し、説得してもらおうとしたが、夫人は周総理の意思を尊重した。総理が入院中のの305病院に入ると人民服を着た周総理が立って、待っていてくれた。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

日中友好の パイプ

『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P17~

この激動の時代のなかで、必死になって、日中間の亀裂を修復しようとする人物がいた。代議士の松村健三である。松村は、新中国の実情を自分の目で確かめるとともに、自ら日中のパイプ役になろうと、中国訪問を望んでいた。周総理も、両国の未来のために、松村の訪中の意向を重要視して、彼を中国に招いた。1959年の秋のことである。松村は当時76歳であり、迎える周総理は61歳であった。

この訪中は、全行程1万5千キロにわたる40余日の緊張の旅であったが、松村は、勇んで中国の大地を踏んだ。座していたのでは、事態は開けない。行動である。会って語り合う勇気こそが、歴史を変えていくのだ。

松村は、周総理に 日中友好の力になる人物として、高碕達之介を推薦したのであった。

反中国政策を続けていた岸首相は、安保改定を強行し、世論の猛反発を買い、退陣を余儀なくされた。代わって、池田隼人が首相になり、日本は高度成長を遂げ、日中関係も改善の道をたどっていく。

周総理も日中貿易の再会に前向きな姿勢を見せ、「貿易三原則」を明らかにした。低迷していた日本の経済界は湧き立った。

池田首相から、中国のすべてをまかされていた松村健三が訪中し、周総理と会談。翌月、高碕達之介と中国側の代表廖承志と検討を重ね、「日中総合貿易に関する覚書」に調印、これは、二人のイニシャルから「LT貿易」と呼ばれ、"半官半民"的な性格をもつ、国交正常化をめざす、新たな連絡ルートの誕生となった。

日中友好の歴史が編まれていくなかで、周総理の目は、創価学会に向けられていった。松村、高碕両氏が、訪中した際に、日中の友好のためには、創価学会と交流することが大事だと強調していた。

周総理は、創価学会の調査、研究を 中国人民外交学会に指示している。外交学会は、創価学会についての調査、研究のリポートを上層部の多くの人に伝えるために、本を出版している。リポートなかには、誤解もあったが、このリポートを目にした周総理は、引き続き調査研究を続けるよう指示した。

周総理に学会のことを語った高碕氏と山本伸一が語り合ったのは1963年の9月。彼は既に78歳になっていた。35歳の伸一とは、親子以上の年の隔たりがあった。高碕は、伸一の顔をじっと見すえ、「あなたには、日中友好の力になってもらいたい!」その声には、一歩も引かぬという気概があふれていたが、また、懇請のようでもあった。

高碕は、伸一の手をぎゅっと握りしめた。"日中友好の「金の橋」を架けてみせる!"以来、それが、伸一の固い決意となった。


翌月、中国は、「中日友好協会」を発足させた。国交のない日本のために"友好協会"が設けられたことは、例外的な措置であった。

その駐日事務所の、首席代表として来日したのが、後に中日友好協会の会長を務める孫平化であった。
孫は、周総理から「なんとか創価学会との間に交流のパイプをつくり、友人をつくらなければなりません」と言われていた。

国と国の関係といっても、永続的に友好を維持していくには、民衆次元での活発な交流が重要になる。その窓口を開くには、どうしても政治の力が必要である。

公明政治連盟が公明党として新出発するにあたり、伸一は「公明党の外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。」唯一の提案をしていた。この伸一の要請に、公明党も、懸命に応えようとしていた。

しかし、それも束の間、日中間には、再び暗雲が垂れ込めていったのである。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

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