小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

周恩来,鄧頴超

革心の人 鄧頴超

『新・人間革命』第28巻 革心の章 333p~

伸一は、李先念副主席に「中国は、ジュネーブの軍縮委員会に参加するか」「社会主義民主化の基礎である法律整備について」『四つの現代化』に呼応しての宗教政策」「核兵器廃絶への方途」など次々と質問し、意見交換した。語らいは1時間10分に及んだ。会見の模様は、新聞各紙が大々的に報じた。

この直後、カーター大統領はワシントン駐在の中国連絡事務所長と接触。両国が国交樹立を電撃的に発表したのは、その3か月後、12月16日のことであった。

李先念副主席との会見が行われた19日の夜中国側の関係者を招待して、山本伸一主催の答礼園が開かれた。鄧頴超が招待に応じ、歓迎宴に続いて、再び出席してくれたのだ。国家的な指導者との会見は、滞在中に1度という慣例を破っての出席であった。

平和友好の道もまた“長征”である。風雨の吹き荒れる時も未来に向かって、信義の歩みを運び続けてこそ、栄光の踏破がある。

食事が始まると、鄧頴超は言った。「食事がとてもおいしいですね。今日のメニューは、西太后の晩年の食事を真似たもので、おばあさんに食べやすいように、柔らかく調理されています。私に、ぴったりの食事ですよ」飾らず、ユーモアあふれる言葉であった。

伸一は、鄧頴超が、“鄧大姐”と多くの人から慕われ、敬愛されている理由がわかる気がした。こまやかな気遣いと深い配慮があり、素朴で、ユーモアあふれ、人を包み込む温かさ、明るさがある。それは人民の解放のために、新中国建設に身を投じ、社会の不正や差別、そして、何よりも自己自身と闘い続けるなかで、磨き鍛え抜かれた、人格の放つ輝きといえよう。

鄧頴超は、今回、伸一の通訳として同行した、周志英にも気遣いの目を向けた。彼女は、周志英の使う中国語(北京語)を聞くや、すぐに尋ねた。「あなたは、香港の出身ですね」微妙な発音の違いから、北京語の通訳に不慣れなことや、出身地まで洞察していたのだ。

鄧頴超は、周志英が香港の出身であると聞くと、広東語で話し始めた。周恩来と結婚したあと、広東省で活動した経験を持つ彼女は、広東語も堪能であったのだ。母国語でない北京語と日本語を駆使して通訳に奮闘してきた周志英にとって、広東語を使えることで、どれほど気持ちが軽くなったか。

鄧頴超の語る広東語を日本語に訳す彼の言葉に、真剣に耳をそばだてていたのが、中日友好協会の孫平化秘書長や、中国側の通訳たちであった。皆、広東語がよくわからないために、周が訳す日本語を聞くまで、鄧頴超が何を話しているのか理解できないのである。

鄧頴超は、伸一に言った。「山本先生は、一生懸命に若い人を育てようとされているんですね。それが、いちばん大事なことです。どんなに大変でも、今、苗を植えて、育てていかなければ、未来に果実は実りません。10年20年とたてば、青年は大成していきます。それなくして中日友好の大道は開けません。楽しみですね」

孫平化たちは、周志英の通訳ぶりを、じっと見てきた。彼が日本で、日本語と北京語を猛勉強したとはいえ、中国の一流の通訳には、どちらの言葉もたどたどしく、心もとなく感じられていたのであろう。“山本会長は、どうして彼を通訳に使っているのだろう”と疑問にも思っていたようだ。

孫平化も、永遠なる中日の平和友好を願い、若い通訳を育成しようという伸一の心を知り、強く共感したという。孫平化らは、以後、周志英に、公式の場で使う言葉や表現などを、懇切丁寧に教えてくれるようになった。未来に果実を実らせたいと、伸一と同じ心で臨んでくれたのである。

答礼宴の最後に、周志英に「敬愛する周総理」という、中国の歌を歌わせた。
♪敬愛する周総理 私たちはあなたを偲びます…
あなたは大河とともに永久にあり あなたは泰山のようにそびえ立つ♪

廖承志の目には、うっすら光るものがあった。夫人もあふれる涙をナプキンで拭った。料理を運んでいた人たちも、立ち止まって耳を傾けていた。偉大な指導者への敬慕の念が、皆、自然にあふれ出てくるのであろう。歌が終わった。万雷の拍手が起こった。席に戻ってきた周志英に、鄧頴超は、「ありがとう!」と言って、ことのほか嬉しそうに手を差し伸べるのであった。答礼宴は、感動のなかに幕を閉じた。

翌日、帰国の見送りに来てくれた人たちと対話が弾んだ。廖承志会長夫人の経普椿は言った。「夫人の泣いたのを見たことがありません。“自分が泣いたら、皆を、さらに悲しませてしまう”と、ご自身と戦い、感情を押し殺していたんです。強い人です。人民の母です。最愛の人を失った悲しみさえも、中国建設の力にされているように思います」

鄧頴超は、まさに“革心の人”であった。常に自らの心と戦い、信念を貫き通してこそ、人間も、人生も、不滅の輝きを放つ。彼女は、「恩来戦友」と書いて、夫の周恩来を追悼した。そこには、生涯、革命精神を貫くとの万感の決意が込められていた。

<革心の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

日中の留学生交流の歴史

『新・人間革命』第28巻 革心の章 323p~

歓迎宴は、和気あいあいとした雰囲気のなか、各テーブルで語らいが始まった。伸一は、鄧頴超に尋ねた。「鄧頴超先生も、日本にいらっしゃいませんか」「ええ、日本へは、ぜひ行きたいと思います」全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周恩来の夫人である鄧頴超が、訪日の意向を明らかにしたのだ。伸一は「嬉しいです!いつごろお出でくださいますか」と重ねて尋ねた。

「周恩来も桜が好きでしたので、桜の一番美しい、満開の時に行きたいと思います。山本先生は、賛成されますでしょうか」「もちろん大賛成です!創価大学には、周総理を讃える『周桜』が植樹されております。来日の折には、ぜひ、ご覧いただきたい。できれば、周総理と恋愛をされていた時のような気持ちで、日本を訪問していただければと思います」

鄧頴超は70代半ばであったが、人民に奉仕し抜こうとの気概は、いささかも後退することはなかった。思想、信念が本物であるかどうかは、晩年の生き方が証明するといえよう。

孫平化秘書長が、二人の青年を手招きした。新中国からの最初の国費留学生として創価大学に入学し、帰国した二人であった。友好交流の種子は、ここでも大きく育っていたのだ。

翌18日、山本伸一は、中日友好協会を表敬訪問。午後には、趙樸初副会長を訪ね、懇談した。4時過ぎ、北京大学を訪問した。季羨林副学長は、中国を代表する知識人であり、仏教学、言語学、インド学の碩学である。文化大革命では、「走資派」のレッテルを貼られ、残酷な暴行や拷問を受けた。そんな逆境のなかでも、学問への情熱を失うことなく、4年の歳月をかけて、古代インドの大叙事詩「ラーマーヤナ」の翻訳を完成させている。

帰国前日の9月19日山本伸一は、人民大会堂で、副総理でもある李先念党副主席と会見した。現在中国が進めている農業、工業、国防、科学技術の「四つの現代化」の柱は何かを尋ねた。「まず農業です」そして、日本から科学技術などを学びたいとして、こう語った。「留学生や研修生を貴国に送るとともに、こちらで講義をしていただくために、日本からも来ていただきたい」「留学生は1万人ほどになるかもしれません」

伸一は、今こそ日本は、中国からの留学生を全面的に支援し、教育交流を実施する大事な時を迎えていると思った。--日中の留学生交流の歴史は、遥か千四百年前にさかのぼる。日本は、遣隋使、遣唐使として大陸に使節を派遣し、国際情勢や文化を学んだ。

また、清朝末期から中華民国の時代にあたる、明治の後期から日中戦争の開戦まで、今度は、日本が中国から多くの留学生を受け入れた。多い時には、一万人近い留学生が来日したという。終戦、そして、中華人民共和国の成立を経て、再び日本が正式に中国の留学生を迎えたのは、1975年(昭和50年)のことであった。創価大学が、国交正常化後、初となる6人の留学生を受け入れたのである。

もし、李先念副主席の言葉が実現すれば、史上三度目の日中留学生交流の高潮期を迎えることになる。日本への留学は、中国の国家建設に役立つだけではない。青年たちが信頼に結ばれれば、政治や経済が困難な局面を迎えても、時流に流されない友情を育む、万代の友誼の土台となるにちがいない。

そのためには、留学の制度を整えることはもとより、受け入れる日本人も、また、留学生も、さまざまな違いを超えて、“友”として接していこうとする心をもつことである。

会見で伸一は、中国と米国の関係についても、率直に質問した。「国交正常化を前提として、中米条約のようなものを結ぶ考えはおもちでしょうか」77年1月、カーター大統領が誕生し、中米の国交樹立へ動きだすが、交渉は難航。先行きは不透明であるといえた。

伸一は、日中の平和友好条約が調印された今こそ、膠着状態にある中米関係が正常化することを、強く願っていたのだ。李副主席は端的に語った。「国交正常化を前提とした中米条約を結ぶ用意はあります。これは相手のあることで、カーター大統領の胸三寸にかかっています」伸一は、両国の関係正常化を確信した。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

鄧頴超と母

『新・人間革命』第28巻 革心の章 308p~

毛沢東、朱徳、そして周恩来らの第一方面軍は、党職員や、その家族など合わせて8万6千余人であり、女性も、老人も、傷病者もいた。鄧頴超は、病に侵されながら、この長征に加わった。担架で運ばれての行軍であった。

鄧頴超は、病と戦いながらも、努めて明るく振る舞い、自身が体験してきた闘争の数々を語り、皆を勇気づけ、希望の光を注いだ。闘争を開始した“初心”を確認し合い、同志の心を鼓舞した。彼女の人生の勝因は、自分に負けずに戦い続けてきたことにあったといえよう。病に侵され、担架に身を横たえ、窮地に立たされても、その心は、決して屈しなかった。

彼女には、自身の闘争を先延ばしにして、“状況が好転したら、何かしよう”という発想はなかった。「今」を全力で戦い抜いた。いつか、ではない。常に今の自分に何ができるのかを問い、なすべき事柄を見つけ、それをわが使命と決めて、果たし抜いていくのだ。そこに、人生を勝利する要諦もある。

長征は肉体の限界を超えた行軍であった。食料もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も超えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。そして、遂に、「長征」に勝利したのだ。

1937年7月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。

鄧頴超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。彼女は、娘にこう語ってきた。「あなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、頴超として尊敬される人になりなさい」独立した人間であれーーそれが、母の教えであった。

フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」

1945年、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。周恩来と鄧頴超は、国民党との和平交渉を行った。だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。

そして、共産党が国民党を制圧し、49年10月、中華人民共和国が成立するのである。一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。

伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。「お二人が“夫婦”というだけでなく、“同志”の絆に結ばれていたからだろうね」二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく“同志”の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。

続いて訪中団一行が訪れたのは、紫金山であった。まず伸一たちが訪れたのは、廖承志会長の両親の墓所「廖陵」であった。中国の要人たちの誰もが、激闘の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。

革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花し、冥福を祈り、題目を三唱した。

夕方には、空路、北京へ向かったのである。翌日、もう主席記念堂へ向かった。その後、定陵を巡りながら、伸一と趙樸樸初副会長と仏教について意見交換した。

17日夜、人民大会堂で歓迎宴が行われた。廖承志が紹介したのは、全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周総理の夫人として大中国を担う柱を支え続けてきた鄧頴超その人であった。

答礼のあいさつに立った伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。「私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。その軸となる根本は、「信義」の二字であると申し上げたいのであります!」

信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

周恩来と鄧頴超

『新・人間革命』第28巻 革心の章 295p~

梅園新村記念館には、机やソファ、ベッド、書籍などが、当時のまま保管されていた。展示品のなかに、赤い数個の石があった。それは、雨花台で犠牲になった、殉難者たちの、血潮に染まったものであるという。

夫妻が、何度となく、激務の間を縫うようにして雨花台に足を運び、拾って持ち帰ったのだ。同志たちに、その石を見せ、尊い命を散らした先人の魂を受け継ぎ、新しい中国を築いていくように訴えてきたのである。

殉難を恐れぬ敢闘の精神と行動があってこそ、改革は、成就する。平和建設の道においても、同じだ。いくら高邁な理想を口にしても、それを成し遂げる強靭な意思と具体的な実践なくしては、平和を勝ち取ることはできない。

伸一は、峯子に言った。「北京で奥様の鄧頴超先生とお会いできるんだね。楽しみだな」彼女の生涯は、まさに、疾風怒濤であった。艱難辛苦であった。

中国医学を学んだ母親の楊振徳が、女で一つで娘を育てた。成績優秀な
鄧頴超は、わずか12歳で天津の女子師範学校の本科に進学した。そして、19年、15歳の時に、あの「5・4運動」に参加したのである。このころ、日本留学から帰国した周恩来と出会う。周恩来は、天津学生連合会の中核メンバーで「覚悟社」を結成し、「覚悟社宣言」を起草した。

そこには、「革心」と「革新」の精神を根本にして、運動を進めていくことが述べられている。社会の「革新」のためには、「革心」すなわち、心を革めることが不可欠であるーーそのとらえ方に、若き周恩来の慧眼がある。自信を見つめ、正すこと、すなわち「革心」なくしては、真の社会改革もない。

天津では、男女学生が中心となって、帝国主義国家への抗議の声が大きく広がっていった。1920年鄧頴超は女子師範学校を卒業し、北京の小学校に教師として赴任した。まだ16歳の教師の誕生である。周恩来は、フランスに留学することになる。

女性の苦しみを解決するには、社会そのものを変革するしかない。それには何が必要か。“教育の門戸を開こう、教育こそ、人民を支え、育む力である”と、彼女は結論する。天津には、百を超える平民学校がつくられたといわれる。鄧頴超は、まだ二十歳であった。しかし、既に教育者としての名声は高かった。この間、周恩来と文通を続けた。

共産主義に自らの進路を見いだした周恩来は、それを鄧頴超に手紙で知らせた。彼女も、「私はあなたたちと同じ道をともに進みたいと思います」と、伝えてきた。改革の同志は、生涯の伴侶となっていくのである。

鄧頴超は、中国の改革に生涯を捧げようと、共産主義の運動に加わる。国民党と共産党は、協力して軍閥と闘うために、国共合作に踏み切った。天津で彼女は、共産党と国民党の若き女性リーダーとなった。孫文が死去するが、彼女は、黙々と自身の定めた信念の道を突き進んでいった。

孫文亡きあと、国民党に亀裂が走る。国民党左派の中心であり、中日友好協会の会長廖承志の父親である、廖仲愷が暗殺された。鄧頴超は、廖夫人の何香凝を支え続け、夫人が推進してきた女性解放運動を大きく発展させていった。

上海で、国民党右派の蒋介石らは、反共クーデターを起こす。共産党員を次々と捕らえ、殺害していった。また、北伐の伸展にともない、国民党左派の主導で移された武漢政府に対して、蒋介石は南京に政府を樹立。国共合作にピリオドが打たれた。

共産党への弾圧は激しさを増し、周恩来には、多額の懸賞金が懸けられた。広州にいた鄧頴超の身も危険にさらされた。夫妻は、5年間にわたって地下活動を展開しなければならなかった。その間、多くの同志が殺されていった。裏切りにもあった。それでも、二人は闘争を続けた。

鄧頴超は、髪を切り、紅軍の帽子、軍服に身を固めた。食料も満足にないなかで、皆を励ましながら、働き通した。しかも、冗談を絶やさず、苦労を笑いのめすかのように、いつも周囲に、明るい笑いの輪を広げた。理想も、信念も、振る舞いに表れる。一つの微笑に、その人の思想、哲学の発光がある。

国民党軍は、猛攻撃を開始し、拠点は次々と落とされていった。共産党は中央根拠地の瑞金からの撤退を決めていた。当時は、不治の病とされていた肺結核になった鄧頴超は、死を覚悟で紅軍の撤退作戦に「長征」に参加する。行程は、約1万2千5百キロメートルにわたった。しかも、戦闘を続けながらの行軍である。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

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