『新・人間革命』第22巻 命宝の章 378p 

伸一は、傍らにいた日本の幹部に言った。「この人たちは、必ず将来、大きな役割を担う使命がある。大切な人なんだ。だから私は、あえて厳しく言っておくんです。若い時に、広宣流布のために、うんと苦労しなければ、力はつかない。ウルグアイの中心になる人たちを、私は、未来のために育てておきたいのだ。

彼らは今、日本の創価学会を見て、"すごいな。別世界のようだ"と思っているかもしれないが、30年前は、戸田先生お一人であった。そして、先生と、弟子の私で、壮大な広宣流布の流れを開いたのだ。その師弟の精神がわかれば、どの国の広宣流布も大きく進む。要は、"一人立つ人間"がいるかどうかだ」

カミツは、その言葉を、生命に刻む思いで聞いた。同じ移住船でブラジルに渡った人が、わざわざウルグアイまで訪ねて来て「信心で乗り越えられない問題はない」との話に一家は入信した。カミツの面倒をみてくれたのが、彼より8歳上の、タダオ・ノナカだった。

山本伸一は、軍政下にあって、集会にも許可がいるなどの、ウルグアイの状況を聞き、心を痛めてきた。そして未来への飛躍の契機になればと、広島での本部総会に、ウルグアイの青年たちを招待したのである。カミツは、この時、ウルグアイの広宣流布への決意を固めた。

「今は苦しみなさい」との伸一の言葉は、彼の指針となった。「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」とは、文豪トルストイの名言である。カミツは、猛然と戦いを開始した。勇気を奮い起こし、自分の殻を破って、挑戦していってこそ、成長があり、境涯革命があるのだ。

広島の本部総会から2年後の1977年(昭和52年)、ウルグアイのSGIは、法人資格を取得。タダオ・ノナカが理事長となった。そして、2005年には、カミツが第二代の理事長に就任する。

伸一は、夕刻には、本部総会の役員らを慰労する集いにも出席した。「総会などの大きな会合が成功すれば、それで、すべてが終わったように思ってはならない。まだ、後片付けが残っている。設営、清掃など、陰で支えてくれた多くの人たちを、讃え、ねぎらって、すべてが終わるんです」

人への配慮のなかにこそ、慈悲があり、人間性の輝きがある。また、それを実践してきたところに、創価学会の強さがあるのだ。

「広島会館へ行こう」慰労の集いが終わると、伸一は言った。会館に到着すると、会館の前にある民家に向かった。その家の主や夫人たちが、庭にいたからである。伸一は、「今後ともよろしくお願い申し上げます」と言って、泥まみれの主の手を、強く握りしめた。

大事なのは、勇気の行動だ。誠実の対話だ。近隣の学会理解の姿こそ、広宣流布の実像なのである。

そのころ、呉では、呉会館への伸一の訪問を願って、懸命にメンバーが唱題に励んでいた。"なんとしても、山本先生を呉にお迎えして、呉の同志に会っていただくのだ!"こう決意して、猛然と祈り始めた、一人の婦人がいた。呉総合本部の婦人部の中心者である竹島登志栄であった。

祈りに勝る力はない。祈りは、一切を変えていく原動力である。勝利への強き祈りの一念から、大確信も、緻密な計画も、勇気ある行動も生まれるのだ。

唱題を重ねるなかで、呉の同志は思った。"山本先生においでいただくからには、弟子として、「私は戦いました。勝ちました!」と、胸を張って報告できる自分でなければならない。それが師弟ではないか!"活動にも一段と力がこもった。

11日、朝からメンバーが集って唱題していたが、幹部から先生の呉訪問はないと伝えられ、皆がっかりして、帰る人もいた。しかし、婦人部の幹部は ともかく、最後まで、絶対にあきらめずに、祈り切ってみようと決め、唱題を始めた。そこに電話が入り、「山本先生がそちらに向かわれた」と伝えた。手分けして、皆を呼び戻しに走った。

伸一は、呉で皆が待っていることを伝えられると「行こう」と出発した。途中、呉会館の隣の寺院や公園にも学会員が大勢いるのを見て、車を止め、寺院に向かい、愛する呉の同志の、幸福を祈りながら、伸一は 話を続けた。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋