小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

名護

信心の眼を開いて強く生き抜く

『新・人間革命』第16巻 入魂の章 95P~ 

「私は断言しておきます。信心を貫いていくならば、絶対に幸せになれます。悲しいことが続くと、”自分は不幸なんだ”“自分は弱いんだ”と決め、自ら希望の光を消してしまう人もいる。しかし、その心こそが自分を不幸にしてしまうんです。決して、目が見えないから不幸なのではありません。」

「“信心の眼”を、開いて、強く生き抜いていくんです。あなたがそうなれば、みんなが希望を、勇気を感じます。あなたは、必ず多くの人の、人生の灯台になっていくんですよ。」彼女の胸に、この時、希望の太陽が昇った。

伸一の指導を聞いて、目が不自由であるということも、自らの尊い使命を果たすためなのだと思った。宿命の転換とは、決して自分を離れ、別人になることではない。自分のありのままの姿で、最高の幸福境涯をつくりあげていくことなのである。

”私は、目は見えない。しかし、それによって、御本尊と巡り合うことができた。また、私には、広宣流布のために仏法を語り、唱題する口がある。歩き回ることのできる足がある・・・。なんと幸せなのだろう”名嘉は、感謝の思いで唱題しながら、“広宣流布の役に立てる自分になろう”と、固く、固く心に誓った。そして、琴の道で力をつけ、信心の実証を示そうと決意した。

彼女は、伸一の前で琴の演奏をした、この年の秋には、琉球古典芸能コンクールの優秀部門に出場し入賞。翌年には、最高部門に挑んで見事に入賞に輝いた。さらに、後年、彼女は、沖縄県指定の無形文化財「沖縄伝統音楽筝曲」の保持者に認定されることになる。名嘉は、誓いを果たした。彼女は勝ったのだ。

この三日間で、伸一が、会って、激励した同志は、約8千人になんなんとしていた。間もなく、午前1時半になろうとしていた。「今日も、力の限り戦い抜いたよ」伸一が言うと、峯子が答えた。「そうですね。黄金の日記をつづりましたね」頷き合う二人の微笑が光った。

記念撮影を中心とした会長・山本伸一の激励は、2月に入っても間断なく続けられた。13日には、東京・葛飾の水元公園で開催された葛飾文化祭に、さらに、二十日には、東京・体育館で行われた荒川区の記念撮影に出席した。

荒川の記念撮影では、高等部員が歌った「友よ強く」の歌が参加者の心を激しく揺さぶった。この歌の紙は、伸一が青年時代に作ったものであった。

神奈川県の婦人部から、家計を助けるために他県に働きに出ている、息子からの手紙を見された伸一。手紙には、一部屋に数人が共同生活し、勤行をするときは、風呂に行くと言って裏山に登り、そこで勤行しているというのである。

手紙を読み終えると伸一は直ちにペンを執り、励ましの一詩をしたためた。
それが「友よ強く」であった。

 友よ強く、雄々しく立てよ
 僕が信ずる君が心を
 苦しき仕事 深夜の勉強
 これも修行ぞ 苦は楽し
 君が信念 情熱を
 仏は じっとみているぞ
 ・・・


それから20年近くして、荒川区に住む学生部員が、先輩の家で、この詩を目にし、大きな感動を覚え、これを歌にして、二部学生に教え、元気づけたいと思ったのだ。

出来上がった曲を学生部員たちは、口ずさみ、やがてこの歌は、友から友へと広まっていった。
荒川区の記念撮影で高等部員で合唱したいとの要請があり、楽譜を有村武志が手直しし、この日、発表となったのだ。

合唱に感動した伸一は、作曲者の青年を呼び、「レコードにしよう」と言った。そして、この歌は、高等部をはじめ、広く、学会の愛唱歌として歌われていくようになるのである。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

0

沖縄での記念撮影

『新・人間革命』第16巻 入魂の章 73P~ 

記念撮影では、それぞれの部に、伸一の入魂の指導が行われた。彼は、男子部には、新たな指針を示した。「人生の勝利も、広宣流布の勝利も、すべて勇気から始まる。一歩踏み出す勇気、挫けぬ勇気、自分に負けない勇気・・・。勇気こそが壁を破る。その勇気をもって、青年は、次の決意に立っていただきたい。」

「それは、『御本尊を守ろう』『創価学会を守ろう』『わが家を守ろう』『わが地域を守ろう』ということであります。御本尊は、信心の根本であり、御本尊を守る具体的な姿は、勤行に現れます。すべての勝利を祈り、御本尊に誓いを立て、御本尊根本に、日々を勝ち抜いていってください。」

「創価学会を守るのは、学会こそが、広宣流布を推進している唯一の団体だからです。学会なくしては、人類の幸福も世界の平和もない。」

「また、わが家を守るのは、そこにこそ、幸福の実像があるからです。そして、家庭こそが、偉大なる人材を育む根本の母体であるからです。」

「さらに、地域を守るのは、わが地域こそが生活の基盤であり、広宣流布の舞台であるからです。地域を離れて、どこか別のところに、広布の楽土があるわけでは絶対にない。」

それから、伸一は、コザ会館の開館式に急いだ。沖縄の婦人部の中心者である、上間球子に声をかけた。彼女は、二年前の一月に、夫の俊夫を亡くしていた。

支部の婦人部長に上間球子が推薦された時、婦人部長になれば、どうしても家を空けることも多くなり、夫の俊夫の了承を得なければならないと思った。俊夫は、「愛する妻が人びとのために働くのですから、私は妻を応援します。」と言って妻を応援した。俊夫は、心臓病で、危篤状態になったが、妻には、沖縄の地にとどまるよう要望したのだった。伸一は、彼女のためにも、夫を顕彰する木を記念植樹した。

深夜まで、沖縄の同志に贈る書籍や色紙に、揮毫していた伸一。強行スケジュールではあったが、那覇のあと、予定いなかった名護に行くことを決めた。

那覇での記念撮影後は、郷土芸能などが披露され、小規模ながら、前年出席できなかった「沖縄文化祭」となった。男子部の獅子舞の時、伸一は自ら鉢巻を締め、太鼓を叩いて、獅子舞と共演した。

名護へは、日没前に到着でき、名護会館の建設用地で記念撮影を行った。アトラクションで琴を演奏した女子部は、名嘉勝代であった。3年前に名護の浜辺で、伸一に激励されたメンバーである。

彼女は、7歳の時、ハシカにかかり、弱視になり、さらに緑内障になり、中学生の時には、視力を失ってしまった。未来は、絶望の闇であった。生きることは、死ぬことよりも辛く、苦しく感じられた。考えることといえば、“どうすれば楽に死ねるか”ということだった。

20歳になったころ、苦しさからのがれるため、琴を習いたいと母に告げた。次兄が、入会し、信心を勧められたが、人の弱みにつけ込んで勧めているように感じ、素直に話を聞けなかった。しかし、「生命論」についての学会指導に関心をもち、仏法の話に耳を傾けるようになり、母親とともに入会した。

勤行をすると、閉ざされていた自分の心が大きく広がり、今までに体験したことのない、不思議な喜びと躍動を感じた。学会活動にも参加し、いつの間にか、人びとの幸福を願い、懸命に語っている自分に気づいた。いまだかつてない、生命の燃焼を感じた。彼女は、信心によって、最上の充実感を知り、生きることの意味を実感したのである。


入会から5年後、名護で伸一と会い、激励された時は、1年前に母を亡くしたばかりで、失意の底から立ち上がれずにいた時であった。

彼女は、その時の伸一の指導を、片時も忘れることはなかった。

太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋

0
カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』