『新・人間革命』第24巻 灯台の章 335p 

団地部のメンバーは「1973年(昭和48年)10月の結成以来、我が団地を"人間共和の都"にと、懸命に活動に励んできた。

日本で、団地の建設が本格的に始まったのは、戦後のことである。高度経済成長と軌を一にして、団地は日本全国へと広がっていった。当初、団地の間取りは通常の企画よりも小さい、いわゆる"団地サイズ"であった。

しかし、新しい設備を施した団地は、極めてモダンな、都市生活の見本とされていた。特に若い世代には"団地に住みたい"という願望をいだく人が少なくなかった。「団地族」ともてはやされ、流行語にまでなるのである。入居希望者が多く、4200倍を超える団地もあった。

団地生活は、人びとのあこがれではあったが、その一方で、近所付き合いがあまりないことなどが、問題点として指摘されてきた。団地での"孤独死"も起きていた。騒音問題や人間関係が、にわかにクローズアップされることになったのである。

団地部のメンバーは、こうした事件に心を痛めつつ、自分たちの果たすべき使命を強く自覚していったのである。"私たちの団地を、温かい心と心が通い合う人間卿にしなければ・・・"身近に起こっている問題から目を背けるのではなく、それを自身の問題ととらえ、解決のために全力を尽くすーーそれが、立正安国の実現をめざす仏法者の生き方である。

団地入居者の世帯主は、30代が最も多く、若い世代が大半を占めていた。世代が若くなるにつれて、プライバシー意識が高くなり、できるだけ人との関りを避けようとする傾向が強かった。それが、隣家との"心の壁"を厚くしていた面があったことも否めない。

人との関りを断てば、人付き合いに伴う煩わしさを避けることはできる。しかし、集合住宅では、互いに配慮したり、皆で協力しなければならないことも多い。

人間が生きるには、人との協調や気遣い、また、礼儀やマナー、支え合い、助け合いが不可欠である。その心を育むには人間をどうとらえるかという哲学が必要である。まさに、それを教えているのが仏法なのである。

仏法の基本には、「縁起」という教説がある。「縁りて起こる」と読み、一切の現象は、さまざまな原因と条件が相互に関連して生ずるという考え方である。つまり、物事は、たった一つだけで成立するのではなく、互いに依存し、影響して成り立っているのである。人間もまた、一人だけで存在しているのではない。互いに関係し、助け合って生きているのである。

団地部のメンバーは、自分住む団地を、"人間共和の都"にしていこうと、各人が積極的に、行動を起こしていった。自治会の役員などを進んで引き受け、住民のために奔走し、献身していった人も少なくない。

大阪では、泉北ニュータウンの団地で、自治会の運動が実り、団地内に駐車場が完成したことが報じられた。この運動の中心となってきたのが、団地内に住む自治会長を務める学会員の婦人であった。以前は、路上に駐車する車で道がふさがれ、消防車も入ることができないような状態であった。

山本伸一は、折々に「学会員は地域の幸福責任者です」と訴えてきた。この指導は、同志の胸中に深く根差し、社会貢献という使命の自覚を促してきたのである。

学会員のなかには、かつては、社会の底辺で宿命に泣き、来る日も来る日も、ため息まじりに生きてきた人たちも少なくない。その庶民が、決然と頭を上げて、あの地、この地で、社会建設の主役となって、表舞台に躍り出たのだ。そこに、創価学会が成し遂げてきた民衆教育の、刮目すべき偉大な功績がある。

日蓮大聖人は、「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」と仰せである。そこには、他者への献身が、自身のためにもなるという、共存共栄の思想がある。「立正安国論」には、わが身の安穏を願うならば、地域、社会の安泰を実現しなければならないと言われているのだ。

学会員には、こうした考えに則った行動が、各人の生き方として確立されていたのだ。団地部メンバーの貢献は、いずこの地にあっても、目を見張るものがあった。

学会員が、一つ一つの事柄に対して、懸命に、誠実に取り組み、さまざまな貢献の実績を残すうちに、「学会の人は、よう頑張りはるなぁ」との、簡単の声が上がり始めた。そして、次第に皆が協力してくれるようになっていった。「人間疎外」から「人間共和」へーー団地部員の運動は、各地に人間の輪、友情のネットワークを広げていったのである。