『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 346P~
14歳の時に被爆し、大火傷を負った金子光子は、鏡を見たいと思わなくなった。寒くなれば風邪を引き、夏になると貧血で倒れ、季節の変わり目には火傷の跡がひきつるように痛むのだ。子どもたちから「ケロイド娘」とはやし立てられたこともあった。
「なんで死なせてくれなかったの!」と怒りを母にぶつけると母は娘を抱きしめ、「誰がなんと言おうとお前が一番素敵だよ」と励ましてくれた。同じ被爆者と結婚し娘に恵まれるが、娘は重度の視力障害で、失明に近い状態であった。自分の運命を呪った。そんな時、金子は入会した。娘を救いたい一心であった。懸命に学会活動に励み、1年後、担当医が他で治療を受けているのかと尋ねるほど娘の視力が回復したのだ。
金子は、信仰に励むなかで、原爆の恐ろしさを未来に伝え、平和の永遠の礎をつくることが、被爆者である自分の使命だと考えるようになった。広島を訪れる修学旅行生などに、被爆体験を語るようになる。
インドのガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士が「原爆を投下したアメリカをどう思いますか」と尋ねると、金子は「憎んだ時期もありました。でも、恨むことに心を費やすことが、どれほど惨めであるか・・・。人生は何に生命をかけるかが大事です。私はすべての人の幸福のため、すべての国の平和のために生命を捧げます」博士は感嘆の声をあげた。
また、胎内被曝し、原爆小頭症として生まれた娘をもつ壮年は、信心を始めてから同じ障害のある子とその親たちの会を結成。会長として活躍する。
広島県反戦出版委員会のメンバーである山上則義も、体内被爆者であり、彼自身の手記も収められている。中学2年の夏、首に悪性腫瘍ができ、命は長くないかもしれないと言われ、自分が 体内被爆者であることを思い知らされた。
彼は、いつ死ぬかもしれないという恐怖から、自暴自棄になり、母と祖母が肝臓も肺も、癌に食い荒らされ亡くなると、東京へ行き一人暮らしを始める。自分の生きる意味を探し求めた。知り合った日系カナダ人の婦人から仏法の話を聞き、『人間革命』第1巻を借りて読む。「黎明の章」の終わりの「闇が深ければ深いほど、暁は近いはずだ」一節に、涙がこぼれた。彼は入会した。結核が再発し、信心に不信をいだき、仏壇を叩き壊した。そこに青年部員が訪ねてきて、話を聞いてくれ、励ましてくれた。共に唱題するなかで、真剣に信心に励んでみようと思った。
16人の友人の折伏が実ったころ、なんと結核は固まっていた。この体験で信心の確信をつかんだ山上は、反戦出版を通して、原爆の悲惨さを伝え残し、平和を叫びぬいていくことこそ、胎内被爆者である自分の使命であると思ったからだ。
彼は広島平和記念館で、母の朝子を追悼して友人たちが発刊してきた、数冊の被爆体験誌『あさ』を見つけた。母は、友人たちと勉強会を行い、平和と人権を守ろうと、原水禁運動なども、果敢に推進してきたのである。山上は、反戦出版に携わる自分と、この文集との出会いは、単なる偶然とは思えなかった。母が自分の作業を見守っているように感じた。
8月9日には、長崎青年部による『ピース・フロム・ナガサキ』が発刊されたのである。
証言によって描き出された被爆地・長崎も地獄絵図さながらであった。長崎の青年たちが被爆体験の取材、証言収集を重ねるなかで、長崎原爆の記録に残されていなかった新事実も発掘された。
これまで、被災当日8月9日午後1時50分に運行された救援列車による被災者の収容が、国鉄の救援活動の最初とされてきた。しかし、その前に線路状況の確認のために、トロッコを連結したモーターカーが出され、その段階で、既に救援活動が行われていたことが判明したのだ。
救援列車より約2時間も早く、被爆直後の市内に入って救援活動を行ったという、国鉄職員だった壮年の証言に、マスコミも注目した。まさに、長崎の原爆被災史の空白を埋める新証言となったのである。
14歳の時に被爆し、大火傷を負った金子光子は、鏡を見たいと思わなくなった。寒くなれば風邪を引き、夏になると貧血で倒れ、季節の変わり目には火傷の跡がひきつるように痛むのだ。子どもたちから「ケロイド娘」とはやし立てられたこともあった。
「なんで死なせてくれなかったの!」と怒りを母にぶつけると母は娘を抱きしめ、「誰がなんと言おうとお前が一番素敵だよ」と励ましてくれた。同じ被爆者と結婚し娘に恵まれるが、娘は重度の視力障害で、失明に近い状態であった。自分の運命を呪った。そんな時、金子は入会した。娘を救いたい一心であった。懸命に学会活動に励み、1年後、担当医が他で治療を受けているのかと尋ねるほど娘の視力が回復したのだ。
金子は、信仰に励むなかで、原爆の恐ろしさを未来に伝え、平和の永遠の礎をつくることが、被爆者である自分の使命だと考えるようになった。広島を訪れる修学旅行生などに、被爆体験を語るようになる。
インドのガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士が「原爆を投下したアメリカをどう思いますか」と尋ねると、金子は「憎んだ時期もありました。でも、恨むことに心を費やすことが、どれほど惨めであるか・・・。人生は何に生命をかけるかが大事です。私はすべての人の幸福のため、すべての国の平和のために生命を捧げます」博士は感嘆の声をあげた。
また、胎内被曝し、原爆小頭症として生まれた娘をもつ壮年は、信心を始めてから同じ障害のある子とその親たちの会を結成。会長として活躍する。
広島県反戦出版委員会のメンバーである山上則義も、体内被爆者であり、彼自身の手記も収められている。中学2年の夏、首に悪性腫瘍ができ、命は長くないかもしれないと言われ、自分が 体内被爆者であることを思い知らされた。
彼は、いつ死ぬかもしれないという恐怖から、自暴自棄になり、母と祖母が肝臓も肺も、癌に食い荒らされ亡くなると、東京へ行き一人暮らしを始める。自分の生きる意味を探し求めた。知り合った日系カナダ人の婦人から仏法の話を聞き、『人間革命』第1巻を借りて読む。「黎明の章」の終わりの「闇が深ければ深いほど、暁は近いはずだ」一節に、涙がこぼれた。彼は入会した。結核が再発し、信心に不信をいだき、仏壇を叩き壊した。そこに青年部員が訪ねてきて、話を聞いてくれ、励ましてくれた。共に唱題するなかで、真剣に信心に励んでみようと思った。
16人の友人の折伏が実ったころ、なんと結核は固まっていた。この体験で信心の確信をつかんだ山上は、反戦出版を通して、原爆の悲惨さを伝え残し、平和を叫びぬいていくことこそ、胎内被爆者である自分の使命であると思ったからだ。
彼は広島平和記念館で、母の朝子を追悼して友人たちが発刊してきた、数冊の被爆体験誌『あさ』を見つけた。母は、友人たちと勉強会を行い、平和と人権を守ろうと、原水禁運動なども、果敢に推進してきたのである。山上は、反戦出版に携わる自分と、この文集との出会いは、単なる偶然とは思えなかった。母が自分の作業を見守っているように感じた。
8月9日には、長崎青年部による『ピース・フロム・ナガサキ』が発刊されたのである。
証言によって描き出された被爆地・長崎も地獄絵図さながらであった。長崎の青年たちが被爆体験の取材、証言収集を重ねるなかで、長崎原爆の記録に残されていなかった新事実も発掘された。
これまで、被災当日8月9日午後1時50分に運行された救援列車による被災者の収容が、国鉄の救援活動の最初とされてきた。しかし、その前に線路状況の確認のために、トロッコを連結したモーターカーが出され、その段階で、既に救援活動が行われていたことが判明したのだ。
救援列車より約2時間も早く、被爆直後の市内に入って救援活動を行ったという、国鉄職員だった壮年の証言に、マスコミも注目した。まさに、長崎の原爆被災史の空白を埋める新証言となったのである。
太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋