『新・人間革命』第20巻 懸け橋の章 165P~
1974年(昭和49年)4月、伸一のもとに、モスクワ大学のR・V・ホフロフ総長から招待状が届いた。初の訪中を終えた山本伸一は、共に訪ソするメンバーに語った。「私は、なんのためにソ連に行くのか。それは、なんとしても第三次世界大戦をくい止めたいからです。だから、中国に続いて、ソ連に行き、それから、アメリカにも行きます。」
「平和のための、失敗の許されぬ、真剣勝負が待っている。大胆に勇気をもって、新しい歴史を開かねばならない。臆病では、戦いはできません」烈々たる決意の言葉であった。
しかし、伸一の訪ソに賛成する人は、ほとんどいなかった。副会長の十条潔ら、学会の首脳さえも反対であった。東京のある寺では、住職が婦人部の幹部に、せせら笑うように、こう語ったのである。「山本さんは、信者もいない宗教否定の国へ、なんで行くのかね」世界平和の実現という、仏法者の使命を自覚せぬ彼らには、伸一の心など、わかろうはずがなかった。
また、財界のある重鎮は、伸一のことを心配して、切々と訴えるのであった。「付き合っても、決していいことはないでしょう。それにしても、どうしてソ連などに行こうと思われたのですか」
伸一は明快に答えた。「そこに、人間がいるからです。人間に会いに私は行くのです。そこにいるのは、平和を願う、同じ人間ではないですか。ですから私は、その人間の心と心に橋を架け、結ぶために行くんです。それが平和への、最も確かな道であるというのが私の信念です」
山本伸一を乗せた飛行機が、モスクワの空港に到着したのは、現地時間で、9月8日の午後のことであった。9月8日は、1957年に第二代戸田城聖が、「原水爆禁止宣言」を発表した日である。また、68年に学生部総会で、伸一が「日中国交正常化提言」を行った日でもある。
その9月8日に、世界を二分する東西両陣営の一方の旗頭で、核大国でもあるソ連に訪問の第一歩を印したのだ。
伸一の一行は、空港の貴賓室で、ホフロフ総長らと懇談したあと、宿舎となるロシアホテルに向かった。黒塗りの車の列の先頭に、交通警察の車がサイレンを響かせていた。
伸一と峯子は、荷物を整理すると、すぐに唱題を始めた。祈りから始めるーーそれが彼らの信念であり行動の原則であった。
この日午後、「歓迎の宴」が催された。初めて会うモスクワ大学の総長が、山本会長のことや創価学会の運動、また、創価大学について深く理解していることに驚嘆したのである。ソ連が学会に目を向け、研究してきたのは、決して不思議なことではない。わずか20余年で、事実上、日本最大の宗教団体に大発展したのだ。しかも、無名の民衆が社会建設の主体者となり、生き生きと、文化・教育・政治など、各分野の改革を推進し、民衆の一大潮流を作り上げてきたのである。
まさに、それは「現代の奇跡」といっても過言ではない。大変な壮挙といってよい。人民の活力をいかに引き出し、国家を発展させるかを考えるならば、ソ連の指導者たちが、創価学会や、その会長である山本伸一に強い関心をいだくのは、自然の流れであったにちがいない。
伸一は、学会の大発展のために、日々、生命を削る思いでさまざまな手を打ち、同志を励まし抜き、奮闘に奮闘を重ねてきた。そうして築かれた未曽有の学会の歴史なのである。しかし、同行のメンバーは伸一の奮闘も学会の大興隆も、当たり前のように考えていたのだ。だから、ホフロフ総長らが、なぜ、学会に着目しているのかが、わからなかったのである。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋
1974年(昭和49年)4月、伸一のもとに、モスクワ大学のR・V・ホフロフ総長から招待状が届いた。初の訪中を終えた山本伸一は、共に訪ソするメンバーに語った。「私は、なんのためにソ連に行くのか。それは、なんとしても第三次世界大戦をくい止めたいからです。だから、中国に続いて、ソ連に行き、それから、アメリカにも行きます。」
「平和のための、失敗の許されぬ、真剣勝負が待っている。大胆に勇気をもって、新しい歴史を開かねばならない。臆病では、戦いはできません」烈々たる決意の言葉であった。
しかし、伸一の訪ソに賛成する人は、ほとんどいなかった。副会長の十条潔ら、学会の首脳さえも反対であった。東京のある寺では、住職が婦人部の幹部に、せせら笑うように、こう語ったのである。「山本さんは、信者もいない宗教否定の国へ、なんで行くのかね」世界平和の実現という、仏法者の使命を自覚せぬ彼らには、伸一の心など、わかろうはずがなかった。
また、財界のある重鎮は、伸一のことを心配して、切々と訴えるのであった。「付き合っても、決していいことはないでしょう。それにしても、どうしてソ連などに行こうと思われたのですか」
伸一は明快に答えた。「そこに、人間がいるからです。人間に会いに私は行くのです。そこにいるのは、平和を願う、同じ人間ではないですか。ですから私は、その人間の心と心に橋を架け、結ぶために行くんです。それが平和への、最も確かな道であるというのが私の信念です」
山本伸一を乗せた飛行機が、モスクワの空港に到着したのは、現地時間で、9月8日の午後のことであった。9月8日は、1957年に第二代戸田城聖が、「原水爆禁止宣言」を発表した日である。また、68年に学生部総会で、伸一が「日中国交正常化提言」を行った日でもある。
その9月8日に、世界を二分する東西両陣営の一方の旗頭で、核大国でもあるソ連に訪問の第一歩を印したのだ。
伸一の一行は、空港の貴賓室で、ホフロフ総長らと懇談したあと、宿舎となるロシアホテルに向かった。黒塗りの車の列の先頭に、交通警察の車がサイレンを響かせていた。
伸一と峯子は、荷物を整理すると、すぐに唱題を始めた。祈りから始めるーーそれが彼らの信念であり行動の原則であった。
この日午後、「歓迎の宴」が催された。初めて会うモスクワ大学の総長が、山本会長のことや創価学会の運動、また、創価大学について深く理解していることに驚嘆したのである。ソ連が学会に目を向け、研究してきたのは、決して不思議なことではない。わずか20余年で、事実上、日本最大の宗教団体に大発展したのだ。しかも、無名の民衆が社会建設の主体者となり、生き生きと、文化・教育・政治など、各分野の改革を推進し、民衆の一大潮流を作り上げてきたのである。
まさに、それは「現代の奇跡」といっても過言ではない。大変な壮挙といってよい。人民の活力をいかに引き出し、国家を発展させるかを考えるならば、ソ連の指導者たちが、創価学会や、その会長である山本伸一に強い関心をいだくのは、自然の流れであったにちがいない。
伸一は、学会の大発展のために、日々、生命を削る思いでさまざまな手を打ち、同志を励まし抜き、奮闘に奮闘を重ねてきた。そうして築かれた未曽有の学会の歴史なのである。しかし、同行のメンバーは伸一の奮闘も学会の大興隆も、当たり前のように考えていたのだ。だから、ホフロフ総長らが、なぜ、学会に着目しているのかが、わからなかったのである。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋