小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

厚田村

創価学会の基盤できあがる

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 25p~


「恩師の遺言を、生死不二の原理に照らしていうならば、再び新たなる生命を蘇らせ、共々に広宣流布に戦っていこうとの意味でありましょう。その永遠の広布旅、師弟旅の象徴ともいうべきものが、この墓地公園であります。

私自身、会長就任17年半の間、幾多の慶事を迎えてきましたが、本日は、ことのほか嬉しく、また、晴れがましい慶事であると思っておる次第でございます」それは伸一の偽らざる心境であった。

「創価学会の基盤も、これで完璧に出来上がったと言っても過言ではありません!この恩師ゆかりの厚田の大地は、私にとって"心の故郷"であります。これからも、この地を訪れ、生涯にわたって同志を守り、恩師の遺徳を偲びながら、広布開拓の歴史を創っていきたいと念願してやみません。

皆さん方も、苦しい時、辛い時、行き詰った時には、この地を訪れて墓参し、唱題して、恩師の心をわが心とし、蘇生して帰ってください。そして、広宣流布への満々たる闘志をたぎらせ、生死不二、師弟不二の旅をしていっていただきたいのであります」

「釈尊は、仏として人びとから最高の尊敬を受けておりました。それでも、心の曲がった悪人は、金色に輝く仏を、炭と見たり、灰と見たり、敵と見てしまうとの意味であります。

いわんや、われらは凡愚の身であり、民衆、信徒です。その私どもが、大聖人の仰せ通りに、広宣流布を現実のものとしてきた。軽んじられてきた庶民が、最も尊い聖業を担ってきたのであります。さまざまな難が、北風が、怒涛が、嵐が吹き荒れるのは、これまた当然のことと言わざるを得ません。

御書に照らして、当然、これからも、わが学会には、激しい北風の突風が吹くでありましょう。しかし、絶対に負けてはならない。絶対に屈してはならない。北海道の同志の皆さんは、『覚悟』を定め、この学会の新しき原点の地から、凛々しく出発し、北海道広布のため、自身の一生成仏のために戦い抜いてください。そして、また、ここに帰り、三世永遠に、勇猛果敢なる広布旅を続けようではありませんか!」

『覚悟』とは、本来、迷いを去り、道理を悟ることだ。正法正義の大道に大難ありーーその道理を悟ることが、覚悟の信仰なのだ。

墓地公園の所長である伊藤順次が、入会7か月後の昭和30年3月11日、「小樽問答」が行われた。身延の日蓮正宗側は、僧籍をもつ大学教授らが法論の登壇者であり、伊藤は、勝てるのか不安だったが、伸一の言う通り学会側が大勝利を収めた。

伊藤は、大感動で身が震える思いがした。創価学会の正義を実感し、生涯、学会とともに生きようと決意したのである。冬の厚田行きは、難行苦行の危険な旅であった。深い雪の中を、腰まで埋まりながら歩くことになる。

伊藤の心にあったのは、"厚田は戸田先生の故郷であり、山本室長が、世界の広宣流布を誓った地である。その厚田村に、断じて仏法の光を注ぐのだ!"との一点であった。"師のために"ーーそう思うと、挑戦の勇気が、無限の力が沸いた。一人立つ広宣流布の勇者がいれば、魂の炎は、一人、また一人と燃え広がり、明々と暗夜を照らし出す。一人立て!すべては一人から、自分自身が始まるのだ。

信心を貫き通していくには、信心の依処となる良い先輩が必要だ。幹部になればなるほど、指導を求める先輩がいなくなってしまいがちなんだ。実は、これが、怖いんだよ」

組織の中心幹部が強い求道の心をもち、成長し続けてこそ、後輩も成長していくし、組織も発展していくことができる。ゆえに、幹部自身が信心の啓発を受けていくための、依処となる"人"の存在が大切になる。その依処の根本となるのが、"師"である。

戸田は、伊藤に語った。「君は、伸一に、しっかり、ついていきなさい。絶対に離れないことだ。私の本当の心を知っているのは伸一だ。いろいろな幹部がいて、いろいろなことを言うかもしれないが、ついていくのは伸一だ。伸一がわかっていればいいとの思いで、進んでいきなさい」戸田の、伸一に対する全幅の信頼を感じた。二人の、強い師弟の絆を見た思いがした。


太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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厚田に戸田記念墓地公園完成

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 7p~

<新・人間革命 第26巻 開始>
<厚田の章 開始>


1977年(昭和52年)9月30日、山本伸一と妻の峯子は、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村を目指していた。厚田に、師の名を冠した戸田記念墓地公園が完成し、その式典に出席するためであった。

ここは望来川があることから『望来』といい、アイヌ語の『モライ』が語源だと説明を聞く。「"希望が来る地"か。いい地名だね。仏法には、どんな逆境にあろうが、絶望はない。わが"宿命"は、この世の"使命"であると、確信していくことができる。その確信から、努力が生まれ、人生の勝利への、さまざまな創意工夫が生まれていく。

心が破れてしまえば、希望の種子は腐り、芽が出ることはない。希望は、豊かで、強い心の大地から生まれるんだ。自分の心の外にあるものじゃないんだ。私たちの手で、厚田の地を、希望が来る『望来』にしていこうよ。それが、戸田先生を本当の意味で顕彰していくことになるし、弟子としてのご恩返しにもなる。」


緑の芝生のなかに、白御影石の同じ形をした、「妙法」の文字と家名を刻んだ墓碑が整然と並んでいた。一切衆生が平等に「仏」の生命をもっていると説く仏法の教えの通り、そこには、なんの差別もない。"日蓮仏法の生命観を表現した、平等で明るく、雄大なものにしたい"というのが、墓園建設にあたっての、伸一の考えであった。

"戸田先生を、後世永遠に顕彰していっくためにも、いつかこの地に、先生の精神をとどめる、『記念の城』を築かねばならない。それが弟子としての私の使命であり責任である。"その思いは、時を経て熟成し、三世にわたる師弟旅の象徴ともいうべき、この墓地公園建設の構想となっていった。師ありての弟子であり、弟子ありての師である。

伸一が、墓園の建設を念願してきた、もう一つの理由として、いわゆる"墓地問題"があった。学会員の弘教によって、檀徒離れが進む既成仏教各派にとっては、檀徒を引き留める最後の砦が"墓"であったのである。寺院に埋葬を拒否された学会員の悩みは、深刻であった。

墓園は、学会が運営するのではなく、宗門に任せようと考えてきた。学会として宗門に、墓園や墓園建設用地を寄進したこともあった。宗門の墓園建設は、遅々として進まなかった。やむなく、学会として墓園構想をねていくことになり、宗門の日達管長の了承も得て、学会の総合的な墓園建設構想が発表されたのだ。

伸一は、峯子、長男の正弘と共に、戸田城聖の親戚が営む戸田旅館を訪れた。恩師の故郷のことを、若い世代にも教えておこうと、この厚田訪問に、あえて青年部の正弘も同行させたのである。伸一は、昭和29年の夏、戸田と共に宿泊し、金の思い出を刻んだことが忘れられなかった。

石狩川に橋が完成したことで、旅館に泊まる客が激減したという主の貞蔵に、商売を繁栄させるための源泉こそ、信心であることを語り、「厚田の発展は、先生の願いです。戸田旅館は、その戸田先生の
心をとどめる、由緒ある場所なのだという誇りをもって、末永く繁栄させていってください」と語った。

厚田の海岸に向かい、浜辺を歩き、戸田先生から『君は、世界の広宣流布の道を開くんだ』と語られたことを話した。「天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟であるーーというのが大聖人の御覚悟であった。それは会長就任以来の、私の誓いでもある。」

翌日、戸田講堂の開館記念勤行会が営まれた。あいさつのなかで、この墓地公園の意義について語っていった。「墓園の構想は、ある時、戸田先生が何がなく語られた、一言に由来しています。『わが同志と一緒に、どこかで静かに眠りに就きたいものだな』

その恩師の言葉は、私の脳裏に焼き付き、消えることはありませんでした。このお言葉が、一つの重要な構想を芽生えさせていったのであります。」伸一は、戸田の言葉を、一言たりとも聞き流すようなことはなかった。すべてを生命に刻み、すべてを実現させてきたのだ。そこに真実の師弟の道がある。

太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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厚田村の歌詞の志

『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 310p

伸一は、研修所で夏期講習会を開催していた、中部学生部の代表を励ました。「研修会の期間中は、寸暇を見つけて、研修所の草取りや清掃に、汗を流すようにしてはどうか。」と提案した。「会員のため、民衆のために、陰で労作業に励み、尽くしていくという精神を身につけてほしいんだよ」

懇談会の折、『厚田村』のテープを皆で聴こうと提案。戸田城聖の「志」を、若き青年たちに受け継いでほしかったのである。人生を大成させるかどうかは「志」の有無によって決定づけられてしまう。

創価学会は、無名の庶民の団体である。それゆえに、清く、尊く、強いのである。「わが子に期待を託し、大学に行かせてくれた。ありがたいことではないですか。その感謝の心、報恩の心を、絶対に忘れないでいただきたい」

中部学生部長の長田耕作は、父母の苦闘を思い起こして唇をかみしめた。人に騙され、経済的にも大きな打撃を受け、途方に暮れていた両親は、入会した。一家に初心の功徳が現われた。人生の再出発ができたのだ。父も母も歓喜に燃え、真剣に唱題に励んだ。やがて、広くて、新しい店舗を構え、その二階の住居を座談会場とした。

最初、青い顔で、意気消沈して、座談会に連れて来られた人たちが入会し、信心に励むようになると、日増しに、はつらつとしていく様子を、長田は目の当たりにしてきた。創価学会には、庶民のなかに脈動する、仏法の力の証明がある。

「今日、一緒に『厚田村』の歌を聴いたこのメンバーを『学生部厚田会』としてはどうだろうか。『厚田村』を歌い、私たちの恩師である戸田先生を偲んで、誓いを新たにしていってはどうかと思う」

戸田は、牧口に仏を見ていたのだ。人類の救済を宿願とする師匠の大生命を、一心に見すえていたのである。仏法の眼を開いてこそ、眼前の現象に惑わされることなく、深い生命の本質を見ることができる。仏法の師弟の道は、信心の眼によってこそ、見極められるのである。

「よく、創価学会は、どちらの勢力なのかと尋ねられることがあります。結論からいえば、学会はどちらでもありません。人間の生命を中心とした中道主義であり、人間主義です。真実の仏法は、円経であり、円融円満で、完全無欠な教えです。そこには、すべてが具わっています。したがって、左右両極を包含し、止揚しながら、人類の幸福と世界の平和をめざしているのが、学会の立場です。」

さまざまな制度も、科学も、文化も、すべては、人間の幸福と平和の実現が、出発点であり、そして、目標である。これを忘れれば、人間は手段かされてしまう。

「いかなる体制であっても、最終的に求められるのは、生命の尊厳を説く人間主義の哲学です。それがないと、制度などによって、人間性が抑圧されていってしまう。また、エゴイズムなどを律する人間革命がなくてはならない。特に、指導者層の不断の人間革命が必要です。そこに、権力の乱用や組織の官僚主義化を防ぐ道があるからです」

「資本主義、自由主義の国々にあっても、やはり、人間革命が最大のテーマになってきます。さらに、戦争などの元凶もまた、その人間のエゴにこそあります。」

「どうか諸君は、社会にあって、大指導者に成長し、仏法の人間革命の哲理を訴え抜いていってください。21世紀は、諸君の双肩にある。」

伸一は、敢闘していた。彼は、一分1秒が惜しかった。人と会い、人と語り、一人ひとりの心に、発心の光を注ぎ、一騎当千の人材を育てることに必死であった。

8月20日、九州総合研修所では「鳳雛会」の結成10周年を記念する大会が、晴れやかに開催された。男子「鳳雛会」、女子「鳳雛グループ」は、1966年(昭和41年)1月から、山本伸一が高等部の代表に行ってきた会長講義の受講生によって、人材育成グループである。その講義は、伸一が全精魂を注ぎこみ、真剣勝負で臨んできた、後継者の育成作業であった。

彼は、この時、「鳳雛会」「鳳雛グループ」の根本精神として、どんなことがあっても、御本尊を一生涯抱き締め、学会を築き守っていくことを、遺言の思いで訴えたのである。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

人間共和のふるさと厚田村

『新・人間革命』第18巻 師恩の章 136P~

1960年5月3日、山本伸一は第三代会長に就任すると、8月、厚田村を訪問した。「このたび戸田先生の弟子として、第三代会長になりました。山本です。今日は先生の故郷に、会長就任のご報告にまいりました」皆、そこに弟子の生き方を見た思いがした。

「戸田先生の故郷の厚田は、私の第二の故郷です。どうか、皆さんで力を合わせて、私に代わって、ここに幸福の花園を築いてください」厚田の同志は、この言葉から、師匠の故郷を理想の広布の天地にするとともに、厚田村を断固として繁栄させたいという、伸一の強い、強い、思いを感じとった。

「私たちは、山本先生から、厚田の広宣流布を託されたのだ。山本先生に代わって、戸田先生の故郷を守り抜こう」厚田の同志は、固く誓い合うのであった。厚田村は、次第に漁業も衰退し、人口も減少の一途をたどっていた。そのなかで同志は、郷土の繁栄を祈りながら、意気揚々と広宣流布に走った。

仏法対話は、千世帯ほどの村のほぼ全世帯に及んだ。いや厚田にとどまらず、石狩、札幌、小樽にも拡大の波を広げていった。

「たゆまず、休みなき努力によってこそ、『信念』は、『豊かで揺るぎなき体験』にかわるのです」とは、マハトマ・ガンジーの箴言である。その「豊かで揺るぎなき体験」が、メンバーの仏法への確信を、ますます強く深いものにした。


小樽での会合には、3時間ほどかかり、着いたころには会合はおわりかけ、15分ほどすると帰らなければならない。励ましの声と大拍手に送られて、会場をあとにするのであった。この精神の連帯が、学会の世界なのである。厚田のメンバーは、短時間しか参加できないからこそ、真剣勝負であった。学会指導を、一言も聴き漏らすまいと、必死になって吸収していった。

厚田のメンバーは、地域に根を深く掘り、村の繁栄のために、一心に奮闘していった。真剣に地域に貢献する学会員の姿は、村の希望となっていった。山本伸一も、恩師の故郷を守ろうと、小・中学校への図書贈呈や、健康相談のための医師らの派遣などを懸命に邁進してきた。この伸一の思いを知った厚田の人びとは、さらに、学会を深く理解し、その指導者である戸田城聖を輩出したことに、強い誇りをいだくようになっていった。そして、伸一を招いて「村民の集い」が開かれるに至ったのある。

伸一に、「厚田は勝ちましたね」と声をかけられた山内悦郎は、「皆が、"山本先生が見ていてくださる。先生ならどうされるか"と真剣に考えながら、心を合わせて頑張りました」とこたえた。

心に師をもって戦う人は強い。広宣流布に敢然と突き進む大会のごとき師の心をわが心とする時、弟子もまた師の大境涯に連なり、無限の力がわくのだ。


図書贈呈は、これまでに何度か行われてきたが、その契機となったのは、1954年8月に、戸田が初めて伸一を伴って、厚田村を訪問した折、小・中学校の校長らと懇談した折、本が足りなくて困っていることを聞き、寄贈を約束したのだった。

伸一は、図書寄贈に対する児童のお礼のあいさつにこたえて、自作の詩「厚田村」を朗読した。朗読は関係者からの強い要請でもあった。

かつてはニシン漁で賑わいを見せた厚田村も、今では人口が減少し、村の前途は決して安泰とはいえなかった。しかし、厚田村の美しさをうたい、戸田城聖を育んだこの天地のもつ深い意義を明らかにした詩は、村民の誇りを呼び覚まし、郷土建設への勇気と希望をわき起こしていったのである。

この日のあいさつで伸一が語った、映画「人間革命」と、「村民の集い」を収めた記録映画「人間共和のふるさと厚田村」は、訪問から約1か月後に、厚田村で上映されることになるのである。


太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

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弟子の誓い

『新・人間革命』第18巻 師恩の章 122P~

「いくらでも学ぶことがある。しかし、朝顔を一つ見て、"これが朝顔か。もうわかった"と思う人もいる。それは、人間としてまだ浅いんです。同様に妙法蓮華経というのは、宇宙の根本法則であり、もっと難信難解の訪問なんです。それをわかったつもりになるというのは、"未だ得ざるを為れ得たり"と思う、増上慢の姿です」

伸一は、勤行の大切さをあらゆる角度から語っていった。「どんな険路でも、エンジンが協力で快調であれば、車は前進することができる。このエンジンに該当する、何ものにも負けない挑戦と創造の原動力が勤行なんです。勤行し、しっかりお題目を唱えている人は、最強のエンジンがフル回転しているようなものです。」

「人生には必ず悩みはある。大変だな、辛いなと思うことも、題目を唱え抜いていくならば、むしろ、成長のための養分とし、自身の跳躍台にすることができる。すべて善知識に変えていけるのが信心です」

彼らは一途に求道心を燃やし、仏法の師を求め抜いた。総会といえば、海外をはじめ、遠隔地からも駆けつけてきた。

宗門の悪僧によって、理不尽な学会攻撃が繰り返され、伸一が事態を収拾するために第三代会長を退き、名誉会長になった1979年。それは、弟子が師匠を求めて、「先生!」と言って慕っていくことさえ、嫉妬の坊主から圧迫されるという、異常な状況がつくりだされていた時期である。そのなかで「白糸会」の勇者たちは、5月3日を記念し、弟子の誓いを届けたのだ。

伸一は、玄関でメンバーを歓迎した。「みんな成長したな。今、本当の広宣流布の攻防戦が始まったんだ。これから面白くなるぞ!」毎年会うたびに、生命を揺さぶる思いで、入魂の指導を重ねた。

「白糸会」の結成30周年にあたる1998年8月、伸一は、約束した「白糸の碑」を、原点地である白糸研修道場に建てた。

今、「白糸会」は、結成から幾十星霜の年輪を刻み、既に他界した人もいる。後継の子どもたちの成長も目覚ましい。メンバーの大多数は、いわゆるエリートではない。むしろ、庶民の集いといってもよい。「白糸会」には、見栄も格好もかなぐり捨てた土着の強さがある。実はそれこそが、真の人材たる要件といえよう。

互いに連携を取り、励まし合い、切磋琢磨し合いながら、「青春時代の誓いを断じて果たそう」『山本先生の恩に報いよう』と、滝の如く撓まず、懸命に前進してきた。風雪を乗り越えて、遂に彼らは勝ったのだ。

伸一は、戸田の故郷・厚田村を訪れた。伸一の厚田訪問は、13年ぶり3度目であった。村の有志による「村民の集い」が行われることになっており、伸一は招待を受けていたのである。

伸一が初めて戸田と共に熱田を訪れた1954年の8月には、また、学会員は誕生していなかった。その翌年小樽から折伏に来た学会員の勧めで、山内夫妻ら数世帯が入会する。

小樽の幹部を招いての座談会では、猛吹雪で、遭難の危険さえあるなか、6、7時間をかけやってきた同志の熱い心に触れた。それこそ、「学会の心」であった。

厚田村は戸田の故郷ではあっても、当時は、決して創価学会への理解が進んでいるわけではなかった。

「厚田は、戸田先生の故郷ではないか。だからこそ、なんとしても、広宣流布の模範の天地にしてみせる!」厚田の同志は、そう誓い合い、歯を食いしばって戦い抜いた。


戸田の逝去の悲しみのなか、山本室長が、「7つの鐘」の指針を発表。厚田の同志は、深い悲しみの暗雲を破り心に燦たる一条の光が走るのを感じた。"山本室長は、厳然と立たれた!弟子が立ち上がり、戦う時代が来たのだ。戸田先生が亡くなった今、先生の故郷に生きる、厚田の私たちが立ち上がらなくてどうするのだ!"メンバーは誓いを新たにした。


太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

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