『新・人間革命』第15巻 開花の章 338P~ 

「鎌倉祭り」は、近隣の人びとや地域の友人を含め、数百人が参加し、盛大に行われた。
伸一も一人ひとりとあいさつを交わしていった。創価学会の最高責任者の丁重なあいさつに、近隣の人たちは驚いた。知らないことは人びとの不安をつのらせる。ゆえに、心を開き、交流をもって、真実を伝えることが大事になるのだ。

参加者に深い感銘を与えたのが、青年たちによる、「延年の舞」と「鎌倉源治節」と題する二つの創作舞踊であった。「鎌倉グルーフ゜」代表6人による日本舞踊である。前年伸一が体調を崩し、病と闘い続けていたことから、いつまでも元気で、広宣流布の指揮をとり続けてほしいとの思いを込めた舞であった。

真心あふれる演技に伸一は同行の幹部に語った。「30歳まで生きられないと言われていた私が、戦い続け、働き続けて、43歳になった。それ自体が寿量品に説かれた『更賜寿命』の姿であり、『延年』の実証ではないだろうか。」

「仏法は道理だから、健康に留意することは大事です。しかし、広宣流布のために、人びとの幸福のために働けば、歓喜が込み上げ、使命力がわき、元気になっていく。だから私の健康法は、戦うことなんです。」

「鎌倉源治節」の踊りを鑑賞しながら、伸一は、「青年は、義経のように、自分にとっての“鵯越の逆落とし”の歴史をつくってもらいたい。みんなの惰性や臆病を打ち破り、”こうやれば、わが地域の広宣流布はできるんだ”という自信と確信を与える突破口を開くんだ。それが、青年の使命だよ」と語った。

それから、鎌倉には、大聖人ゆかりの史跡も多く、数々の伝統文化があることから、若い世代がそれを守り抜いていくために、青年部が中心となって、「鎌倉文化保護連盟(仮称)」といったものをつくてはどうかと提案した。

午後六時に閉幕すると、地元の幹部に「近隣の方たちに、少しでも早く、御礼に伺ってください。やる時だけ、あいさつに行っても、終わった後は、知らん顔をしているようでは、無責任です。友好というのは持続であり、対話の積み重ねです。それがなければ、心はとけ合いません。むしろ、終了後、いろいろな意見を聞くなどして、次につなげていくことが大事なんです。私が、『くれぐれもよろしく』と言っていたとお伝えください」と言った。

翌日には、三崎で、第一回「三崎カーニバル」が予定されていた。伸一は思った。”学会の世界には、社会に誇るべき、数多くの無形の財産がある。それを社会に開き共有化していくのが、これからの時代の大事なテーマだ。その先駆を神奈川が切るのだ”

三浦市三崎は、マグロ漁船の基地として知られているが、地元の人びとの多くは、半農半漁で、沿岸漁業に従事している人が多く、神社仏閣の祭事が盛んであり、旧習の深い地域であったが、草創の同志は、勇んで折伏に歩いた。

伸一は、三浦半島の先端である三崎の広宣流布に、重要な意味を見いだしていた。初代会長牧口常三郎は、『人生地理学』のなかで、半島には、新しい文化を伝える”天職”があるというのだ。さらに、半島に住む人々の先駆性にも着目している。大陸に先んじて半島の人びとが覚醒することから、半島の国民は「文化の起発点」として称賛されてきたことを述べているのである。

山本伸一は、広宣流布の展望のうえからも、三浦半島のもつ大きな役割に着目していた。「広布新時代の起発点」というのが、伸一の三浦半島への期待であった。特に、旧習も深い三崎で、地域友好のモデルケースをつくり上げることができれば、それは、全神奈川に、さらに、東京に、そして、全国に波及していくにちがいない。三崎のメンバーも、伸一の思いを深く理解し、新たな活動に挑戦した。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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