小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

北海道の広布功労者に対する追善法要

広宣流布の総仕上げの3つの指針

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 93p~

芳子は、伸一が歌を揮毫してくれた色紙を目にした時、それまで胸の底に淀んでいたものが、取り除かれる気がした。"自分はなぜ、あの日「洞爺丸」に乗らずに救われたのか。""私には北海道広布の使命があったからこそ、生きているんだ!これからは、あの事故で自分の命は終わったものと思って、我が人生を広宣流布に捧げよう!"

芳子は、北海道女子部の副部長として嵐山春子を支え抜いた。嵐山が病のために他界すると、"嵐山さんは私に、生きることのすばらしさ、ありがたさを教えてくれたんだ!"嵐山の分まで戦って、戦って、戦い抜こうと思った。

生きて信心に励める人には、他界した法友の志を受け継ぎ、戦う使命がある。それが故人への最高の回向となるのだ。

石狩川の渡船場に立った、伸一は、戸田城聖と共に船上で語り合った言葉を思い出した。伸一は、北海道は、『恩義口伝』を研鑽御書とすることを提案する。「『恩義口伝』は難解かもしれない。それでも挑戦し、一節でもいいから、身で拝そうとしていくんです。すごい力になるよ。」

伸一は、7日には、厚田の戸田講堂での勤行会に出席した。ここでは、広宣流布の総仕上げの、3つの指針を示した。「第一に、あくまでも自身の人間革命を活動の根本としていくことです。自身を磨き、人格を輝かせていくことが、信仰の最大の実証となるからです。第二には、地域を大事にし、近隣との深い信頼関係を結ぶ、友好活動の継続です。友好、信頼の拡大は、仏縁の拡大になります。第三には、一家の信心継承です。子に、孫に、甥や姪にと、信心が受け継がれていってこそ、広宣流布の永遠の流れがつくられ、一族の永続的な繁栄もあります。」

伸一は厚田での一回一回の集いに、全身全霊を注いだ。激風にも、激浪にも、微動だにせぬよう、北海道の同志に、黄金の指針を残しておきたかったのである。

「大ブロックこそ、創価学会の縮図であり、大ブロック幹部は、地域広布の要です。学会活動のさまざまな事柄が、大ブロックに集約される。弘教や機関紙誌の購読推進、座談会の結集等々、日々、あれもこれも、たくさんのことが滝壺に降り注ぐように集まってくる。それを受けて立ってくださっているのが皆さんであることを、私は、よく知っております。ともすれば、疲れて、歓喜も失せてしまい、ただ言われたことをこなしているという感覚に、陥ってしまうこともあるかもしれない。しかし、受け身になってしまえば、力は出ないし、喜びもありません。

そんな自分を、どう鼓舞していくかーー実は、そこからが本当の信心の戦いなんです。受け身の生命を打ち破るために、私たちの活動は、すべて広宣流布の聖業であり、仏に代わって、仏の使いとして、誉の行動をしていること、最高の社会建設の実践を行っていることを思い起こしていただきたい。

そして、わずかな時間を見つけては、真剣に唱題していくことです。さらに、一行でも、二行でも御書を拝し、さらに、学会の指導を学び、なんのための信心であり、仏道修行であるかを、確認していくことです。また、信心の触発を与えてくれる先輩など、同志の存在が大事です。人間は孤立し、一人になると、どうしても弱くなってしまいがちです。そうならないために、互いに励まし合っていける善友が必要なんです」

「活動に際しては、常に積極的であることです。さらに、組織としての目標だけでなく、自分個人の目標を明確にし、その成就と、自身のさまざまな苦悩の転換をかけて、祈り抜いて戦っていくんです。『広布の勝利』は『生活の勝利』になります。『活動の歓喜』は『人生の歓喜』になります。『学会活動が大好きだ!』『折伏が大好きだ!』という人の境涯は、仏なんです」

「皆さんのなかには、役職的には低いように感じている方もいるかもしれない。しかし、それは組織上の役割の問題であって、信心の厚薄や境涯の高低ではありません。私どもの信心は御本尊直結です。広宣流布を決する最も重要なポジションであり、信心を深める理想的な立場が、大ブロック幹部ではないかと私は思っています。私も大ブロック長として戦いたいんです。苦労も多い分だけ、最も喜びがあるではありませんか!」

伸一は、指導を終え、厚田の戸田講堂を出発し、東京へ向かったのだ。"世界広布誓願の師弟の天地・北海道に勝利あれ!栄光あれ!"と祈りながらーー。

<厚田の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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生の仏と死の仏 日蓮仏法の死生観

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 75p~

追善法要のあいさつで、伸一は、日蓮仏法の死生観について語っておこうと思った。彼は、「上野殿後家尼御返事」を拝した。「私たちは、必ず臨終の時を迎えます。しかし、生命は永遠です。自分の生命がなくなるわけではありません。大宇宙に冥伏するんです。ちょうど、一日を終えて、眠りに就くようなものです。時が来れば、また生まれてきます。

死んでも、三世にわたる生命の原因と結果の法則は一貫していますから、宿業も、福運も、使命も、境涯も、そのまま続いていくんです。広宣流布に生き抜いた人は、仏・菩薩の境涯のまま、『死の仏』となるんです。

生きている時は『生の仏』であり、亡くなってからも『死の仏』となるーーそれを日蓮大聖人は『即身成仏と申す大事の法門』といわれているんです。また、信心していても、事故や災害等で、他界する人もいるでしょう。しかし、信心を貫いてきたならば、過去遠遠劫からの罪障を消滅し、一生成仏することができます。

経文にも、"悪い象に殺されても、地獄などに落ちることはない"とあります。悪象に殺されるとは、広く解釈すれば、事故や災害に遭って命を失うことともいえます。しかし、それによって、信心が破られることはないから、成仏できるんです。いかなる状況で死を迎えたとしても、生命に積んだ福徳は崩れません」

大聖人は、仏界の生命を確立して亡くなった方は、死後も、すぐに、九界のこの世界に帰って来て、広宣流布の大舞台に躍り出ると述べられた。生死は不二である。生と死は、別のものではなく連続しており、いわば表裏の関係にあるといってよい。

死して「死の仏」となるには、現世において、「生の仏」とならねばならない。しかし、今世の時間には、限りがある。したがって日蓮大聖人が、「臨終只今にありと解りて信心を致して」と仰せのように、"今しかない"と心を定め、一生成仏をめざし、一日一日を、一瞬一瞬を、地涌の菩薩の使命である広宣流布に生き抜くことが肝要なのである。

戸田城聖は、「死んでしまえば、おしまいだと言うのなら、仏法は必要はないことになるではありませんか。この生命が永遠だと叫ぶ。永遠であるから御本尊をきちんと拝んで、仏の境涯をつかまなければいけないと、やかましく言うのであります」

自殺にも言及し、「この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっております」と述べ、その大切な仏の入れ物を、勝手に壊してはならないと、力説している。仏縁を結んだ人は、いつか、必ず御本尊と巡り合える。また、周囲の人びとの題目は、故人をも救い得る力となる。それが仏法の力であるが、自ら命を絶ち、福運を消してしまう人を、絶対に出したくなかったのである。

生命は永遠である。ゆえに、老いとは、終局を待つ日々ではない。今世の人生の総仕上げであるとともに、次の新しき生への準備期間なのである。命の尽き果てるまで、唱題に励み、師と共に、愛する同志と共に、広宣流布の大願に生き抜いていくのだ。そして、わが生命を磨き高め、荘厳なる夕日のごとく、自身を完全燃焼させながら、大歓喜のなかでこの世の生を終えるのだ。希望に燃えるその境涯が、そのまま来世のわが境涯となるからだ。

自分の来し方を振り返り、決意を噛み締める一人の婦人がいた。北海道婦人部長の斉田芳子であった。
彼女は東京へいくため、洞爺丸に乗る予定であったが、結核の持病が悪化し、前日に足を怪我し、行けなくなった。その洞爺丸が沈没し、友人十数人が亡くなった。芳子は、人間の力では抗することのできない運命の不条理を感じた。

誘われ座談会に参加し、そこで母も、父、弟、妹も一緒に入会した。交通事故で「再起不能」と言われていた父が歩けるようになり、寝込んでいた母も、家事ができるようになり、この体験を目の当たりにした芳子は懸命に信心に励んだ。

幹部である芳子が教学部員になっていないからがんばらなくてもいいという女子部員の話を聞き、「率先垂範」の重要性を身に沁み、必死で勉強し、教学部助教授補になった。家計のほとんどを支えながら、洋服を買うこともできない生活が続いたが、"今こそ、宿命転換の時なんだ"と何があっても負けずに信心を貫いていこうと決意する。


太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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北海道の広布功労者に対する追善法要

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 64p~

入会した飯野夫妻は、厚田地区の初代地区部長であった山内悦郎から、厚田村の使命について聞かされた。「これほど、師匠と絆が強い村はありません。厚田村で活動に励む私たちには、世界のどこよりも早く、広宣流布の模範の地域を築いていく使命があるんです。その厚田村に暮らして、学会活動ができるなんて、すごいことじゃないですか!」


情熱を込めて訴える山内の話に、飯野夫妻は燃えた。勇弘教に走った。このころ厚田村には、「聖教新聞」は、小樽から郵送されていた。

飯野夫妻は、『聖教グラフ』を目にしたことが入会の契機になっただけに、機関紙誌のもつ重みや、その波及性を、身に染みて感じていたのである。二人は、「聖教新聞」を自分たちが取りに行き、配達員に渡す中継役を買って出た。

夫婦は、毎日、夜明け前に車で家を出て、新聞を受け取り、厚田村に新聞を運び続けたのである。冬場は、運び終わるまでに3時間ほどかかった。二人は、やがて厚田総ブロックの総ブロック長、総ブロック委員の任命を受けた。隣接する浜益村にも運ぶことにしたのである。

間には急なカーブが続く細い山道があり、曲がり切れず、崖から落下する車もある難所であった。雪の日路面が凍って、車が止まらず、崖から落ちそうになったこともあった。しかし、誰かがこれをしなければ、広宣流布は進まない。自分がやるしかないとの責任感で勇気を奮い起こし、新聞を運んだ。

学会活動のなかには、人の目にはつきにくい、光の当たらない地味な活動もある。しかし、皆が嫌がり、なかなかやろうとしないことも、"広宣流布のためには、なんでもやらせていただこう"と、勇んで引き受けてくれる人こそ、創価の真の英雄といえる。山本伸一は、各地を巡りながら、"誰が陰で最も苦労し、この組織を支えてくださっているのか"を、じっと洞察し、見極めてきた。

幹部は、"誰が陰の力として学会を守り、支えてくれているのか"を見極め、深く感謝し、最大に賞賛していかなければならない。そこに、創価学会の永遠の繁栄もあるのだ。

山本伸一は、飯野夫妻が営む喫茶店「厚田川」で、飯野チヨが入れたコーヒーを飲みながら語り、色紙に句を認め、夫妻に贈った。

10月3日、戸田講堂で、北海道の広布功労者に対する追善法要が営まれた。そのなかに、「札幌・夏の陣」と呼ばれる、1955年(昭和30年)8月の札幌での夏季地方指導が契機となって入会した、石崎好治の名もあった。

石崎は、2か月前に入会した妻に初代会長が教育者だと言われ、小学校の教員の同僚を座談会に誘った。質疑応答に入ると、教員たちは反論しはじめた。学会への偏見があり、ともかく言い負かしてやろうという感情が先だっていた。

男子部の幹部が伸一を連れてきた。題目を三唱し、丁重にあいさつした。名前を尋ねても名乗ろうとしないものもいた。仏法対話に際しては、常識豊かに、そして相手を包み込む慈愛の大きな心が大切である。とともに、何ものをも恐れぬ、毅然として態度で臨むことである。

「皆さんが、仏法について、本当にお聞きになりたいのなら、お話しさせていただきます。まず、私の話を最後までお聞きください。仏法の概要について述べたあと、質問もお受けし、懇談いたしたいと思いますが、いかがでしょうか。よろしいですね」

途中、教員の一人が口をはさんだ。別の教員が勢いづいて叫んだ。「日蓮は、排他的なんだよ。宗教間の争いを生む、危険思想じゃないか!」伸一は、それを手で制しながら言った。「私の話を最後まで聞いてくださると約束されたではないですか!これでは、まともな語らいはできません。今日は、これで終了とします。しかし、本当に話をお聞きになりたいのでしたら、また、いらしてください」教員たちは、中傷するような言辞を吐きながら、席を蹴るようにして帰っていった。

石崎夫婦は、ひたすら詫びた。夫は、「石崎さんは、どうか、教え子たちの幸福を実現できる教育者になってください」との伸一の話に胸を打たれ、確信と慈愛にあふれた伸一の人柄に共感し、入会した。

"私は、自ら学会についていこうと決めて信心を始めた。一度心を決めたからには、なんでも引き受け、挑戦していこう"彼はそう心に誓っていたのだ。彼は他界するまで、北海道教育部長も務め、人間教育の開拓の鍬を振るい続けてきたのである。



太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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