小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

北京大学

信義の絆への道

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 313P~

北京大学の学生代表に、創価大学の学生からのメッセージや論文集、また、この年の10月に行われた、創価大学の第一回「中国弁論大会」のテープなどを贈呈した。さらに、北京大学の付属小学校の児童には、日本の小学生の絵や書道の作品を贈ったのである。

高価な贈り物は何もない。しかし、互いの考えや思いを理解し合うには、最もふさわしい贈り物であったといえよう。伸一は、どうやって若い世代の、心と心を結び合わせるかを真剣に考えていたのだ。

伸一は、かつて日本の学生たちの集会で、「日中国交正常化提言」を行った信条について明らかにした。「中国とは、どんなことがあっても、友好を堅持しなければならない。二度とあの悲惨な戦争を繰り返してはならないーーこれは戦争によって肉親を失い、苦しんできた私の、若い時代からの信念でありました。」

「『諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明かるい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。』」

私は、この信念のもとに中国を訪れました。私が、贈本をさせていただいたのも、この信条から教育交流を通し、相互理解を深め、力を合わせて輝かしい未来へ進んでいきたいと念願するからにほかなりません」日中友好への伸一の烈々たる思いが、胸に迫るスピーチであった。

伸一は、世界の平和のために、ただただ誠実に行動し抜いてきた。彼の話に、皆がその「心」を感じたのだ。「誠実」への共感に国境はない。「誠実」こそが、人間を結ぶ心の絆となるのである。伸一に続いて、北京大学側から丁重な謝辞があった。

図書贈呈式の後、伸一たちは、北京大学の図書館を視察した。贈呈した図書5千冊が、力学、数学、医学、工学、日本文学など、整然と分類して展示されていた。書物を大切にすることは、精神を大切にすることに通じよう。

図書館を視察したあと、日本語学科に学ぶ十数人の学生とテーブルを囲んで懇談した。彼は、学生たちの、日本人に対する、"心の壁"を取り除きたかった。中国は、日本軍との戦いで、多くの犠牲者を出した国である。その悲惨な歴史は、父や母などから、何度となく聞かされてきたにちがいない。それだけに、日本や日本人に対しては、当然、複雑な感情があるはずである。

日本人としては、過去の歴史を正しく認識し、詫びるべきは、真摯に詫びねばならない。そのうえで、触れ合いを通して、同じ人間として心を通わせ合い、信頼と友情の絆を結ぶことだ。歴史のなかでつくられてきた「わだかまり」や「誤解」という氷塊を溶かすものは、友誼への情熱であり、人間の心と心の触れ合いから生まれる温もりである。

ゆえに、民衆次元の交流が何よりも大切になるのである。夜には、北京大学の学生会主催による「歓迎の夕べが、大学の大講堂で開催された。大学をあげての「歓迎の夕べ」であった。

翌日は、北京大学の首脳と懇談した。そして、今後も密接な連携を取り合いながら、いつまでも、友誼を保ち続けていくことを確認し合った。

午後には、中日友好協会を訪問した。孫平化秘書長、林理事長らと意見を交換し合った。

12月4日の夜、伸一の一行は、人民大会堂で行われた、中日友好協会の廖承志会長による歓迎宴に出席した。日中の交流を本気になって推進する創価学会に対して、反中国的な勢力からは、激しい批判が浴びせられていた。しかし、伸一は、すべて覚悟のうえであった。

守るべきは、平和を願う人間としての信義である。日中両国人民の繁栄であり、幸福である。そのためには、何ものをも恐れず、揺るぎなき信念をもって、敢然と突き進んでいくつもりであることを、彼は表明しておきたかったのである。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

北京大学への図書贈呈

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 297P~

<信義の絆の章 開始>


ソ連訪問から帰国して、二か月ほど過ぎた1974年(昭和49年)の11月中旬のことであった。中日中国大使館を通して、北京大学から、伸一を招待したいという電報が届いたのである。

二度目となる伸一の中国訪問は、1974年の12月2日からであった。今回、伸一は、日本から飛行機で、直接、中国に入ることになる。半年前の初訪中の折には、日本から中国に行く飛行機便はなかった。しかし9月末、日中定期航空路が開設されたのだ。

伸一は、そこに時代の変化を感じていた。6年前に、彼が「日中国交正常化提言」を行った時、いったい誰が、こうした時代の到来を想像したであろうか。時代は動く、時代は変わる。そこには、まず人間の心を動かすことだ。人が変われば、間違いなく歴史も変わるのだ。北京大学の首脳は、五千冊の図書贈呈を心から喜ぶとともに、贈呈式のために山本伸一が訪中したことに、深く感謝の意を表した。

そして、刷り上がったばかりの自著『中国の人間革命』を、北京大学の首脳に贈った。これは、第一次訪中の印象をつづったもので、発行日は三日後の12月5日であった。しかし、今回の訪中で関係者に贈呈しようと、持参してきたのである。

廖会長と伸一は、互いに抱き合い、半年ぶりの再会を喜び合った。廖承志は、感慨深い顔で頷いた。「今回は武漢大学にも図書贈呈されるという話も、駐日大使から伺っております」

「武漢大学の場合は、一人の創価大学生が、私と同じ心で日中友好の道を開こうと、懸命に奮闘し、交流の道を開いてくれました。私は、その努力に報いたいんです」伸一は、武漢大学に図書贈呈をすることになった経緯を語り始めた。

創価大学の一期生に、倉田城信という学生がいた。倉田は、伸一の『日中国交正常化提言』に触発され、創価大学に中国研究会を発足させた。学生訪中団に参加。この訪問で、武漢大学を訪れた折、同大学の日本語教師である呉月娥と知り合う。

在日華僑の叔父の看病のため来日していた彼女を、創価大学に来賓として招待した。この時、創価大学と武漢大学に対しても、図書贈呈を行うことを構想していった。伸一は、この経緯を廖承志に語った。二人だけになると、伸一は言葉を選ぶように語り始めた。

ソ連を訪問し、コスイギン首相と会談した折の首相の話を 廖先生の方から、中国の首脳に伝えていただければと話した。

北京到着の二日の夜には、北京大学の主催で、一行の歓迎宴が行われた。中国の関係者は伸一が、中国の素顔を日本のみならず、世界中に伝えようと既に中国訪問中から、依頼を受けていた新聞や雑誌の原稿執筆に取り組んできた。そして、帰国後も、睡眠時間を削って、ペンを執ってきた言論活動に、中国の関係者は着目し、高く評価していた。

伸一がスピーチに立った。平和は、人類の悲願である。本来、それを実現していくことこそ、最高学府の最も重要な使命であるはずだ。たとえ、どんなに優秀であっても、世界の民衆が戦争や飢餓、貧困、差別などに苦しんでいることに無関心で、痛みさえも感じない、冷酷なエリートしか輩出できないならば、それは既に教育の破綻である。ゆえに、人間教育が一切の根本となるのだ。

伸一は、平和など、至高の目的のために、すべての大学、学生が結ばれていくべきであると確信していた。彼が提唱した「教育国連」構想も、国やイデオロギーの壁を超えた、世界の平和を創造する学生のスクラムをめざすものでもあった。

12月3日、山本伸一の一行は、北京大学のロシア語館で行われた図書贈呈式に出席した。これには、北京大学の首脳、学生、また、中日友好協会の廖承志会長をはじめ、国務院、北京市の関係者ら百人ほどの人びとが参加した。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

日中の相互理解の推進

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 76P~

教育こそ、社会の発展の根本である。大学を見れば、その国、その社会の未来がわかる。頤和園を後にした山本伸一は、中国の次代を担う若者たちとの出会いに胸を躍らせながら、北京大学へ向かった。

伸一は、日中の文化交流と相互理解を図るために、日本語の書籍など図書5千冊を北京大学に寄贈したいと述べ、その目録を手渡した。北京大学からは、写真集「中国工芸美術」などが返礼として贈られた。

伸一は写真集に、記念の言葉を書いてほしいと話す。一冊の本、一枚の色紙に記された言葉が、後世の大切な宝となることもある。伸一は、はるかな未来を見つめながら、一瞬一瞬、手を打っていたのだ。

当時の北京大学には、学校が経営する7つの工場があった。工場は学生、教師、労働者による「自力更生」をスローガンとして、建設されたという。

学生が工場で労働に携わるのは、大学に学んだ青年が、大衆から遊離し、"精神的貴族"のようにならないための教育でもあった。

大切なことは、本来、大学は民衆を守るためのものであり、民衆に奉仕し、貢献するために大学で学ぶという原点を常に確認していくことではないだろうか。

この日の出会いから、北京大学と創価大学の交流が始まったといってよい。後に、両大学は交流協定を結び、多くの教員や学生が行き来することになる。それは、創立者自らが架けた、教育交流の金の橋であった。伸一の北京大学での講演も三度に及んでいる。また、中国で初めて、伸一に名誉教授の称号を贈ったのは、北京大学であった。

伸一たちは、中日友好協会の金蘇城理事らの案内で万里の長城を歩いた。金理事の大きな声が響いた。「山本先生は、勇気をもって、日中国交正常化を提言され、さらに、日中平和悠子条約の締結も主張されています。激しく批判されながらも、微動だにされませんでした。そこに、創価学会を貫く、精神の強さ、堅固な心を感じます」

翌朝、伸一たちは、天安門広場の南の繁華街である大柵欄街を訪れた。地下防空壕を視察するためである。案内されたのはデパートであった。一階の床を持ち上げると階段があり、下りると地下壕になっていた。そこは防空壕というより、地下街を思わせた。明るく清潔な空間が広がり、中には、食堂や会議室、電話室、指揮室、放送室などもある。地下道によって、全市の街区が結ばれているとのことであた。

大柵欄街には、普段は8万人、祝祭日には20万人の人で賑わうという。その人たちが、いざという時には、5,6分で地下壕に避難できるというのである。案内者は語った。「他国からミサイルが飛んでくるのを7分と想定して、十分に間に合う時間です」

付近の居住区の防空壕にも案内された。防空壕を掘る作業に当たったのは、主に婦人と年配者であり、平均年齢は50歳を超えていたという。案内者は、毅然とした口調で言葉をついだ。「私たちは、第一には戦争には反対です。しかし、第二に戦争を恐れません」

伸一は、中国の人たちの心中を考えると、胸が張り裂けそうな思いがした。そして、"中ソの不信の溝を、絶対に埋めねばならぬ"と、心に誓うのであった。

国際クラブで、北京で友好を結んだ人たちに対する答礼宴をもった。答礼宴を終えた山本伸一の一行は、北京の人民大会堂に向かった。利先念副総理との会見のためである。

副総理は、日本と中国の国交正常化に至る伸一たちの努力の足跡を確認するように述べたあと、こう語った。「山本先生は、大きな働きをされました。大変に価値あるものです」

「周総理も、山本先生と創価学会には、重大な関心を寄せておられます。本来なら総理が会って、ごあいさつすべきなのですが、総理は今、病気療養中です。総理は、『山本会長にお会いしたいけれども、今回はお会いできないので、くれぐれもよろしく伝えてほしい』と申しておりました」この時、周総理は、5日前に癌の手術をしたばかりであった。

総理は重い病をかかえながら、伸一の訪問に対して、こまやかな気遣いをしてくれた。食べ物の好みや、喫煙するかどうかなども、人を介して尋ねた。伸一が少しでも安眠できるようにと、宿舎のカーテンを遮光性の強いものに、わざわざ取り替えさせたりもしていたのである。

総理の真心が、痛いほど感じられてならなかったのである。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

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